お母さんと呼ばないで、とは絶対に思わない百合

川木

お母さんって呼んで

 私の母は仕事ができるし、気遣いが全くできないわけじゃない。でも人の心を考えるのが苦手で、不器用な人だ。私は長い付き合いでそれがわかっていた。だけど、小さな子供にそれを分かれと言うのは酷だろう。


 母が再婚すると聞いた時、好きにすればいいと思った。母がそうしたいならそうすればいい。離婚した父とは連絡をとっていて、2人とも不器用ながら私に優しかったし、わかりやすい愛情表現がないから愛されていないんだと自暴自棄になるほど恵まれない生活ではなかったと思う。

 だから新しく父親ができるのは別にいいけど、お父さんと呼ぶのは抵抗があるなと思った私に、初対面の父は無理に父と呼ばなくていいから名前で呼ぶようにと言ってくれたのは嬉しかったし、それなりにいい関係を築けそうだと思った。


「祈ちゃん、私のことを無理にお母さんと呼ぶ必要はないからね。名前で呼んでくれたらいいから」


 でも、これは違うだろう。先日の私の顔合わせの時に浩さんが中三の私に気遣ったあれと、小学3年生の女の子が勇気を出してお母さんと呼んだことに対するこれは、全然違うだろう。


「えっ、あ……はい。ふ、ふさえさん」


 真っ赤になって、ちょっと涙ぐみながら微笑む祈ちゃん。満足そうにする大人たち。違うだろう。子供だって気を遣う。これは、初めて会う新しい家族との心温まる絵面じゃない! お母さんが欲しかった子供が否定されて、勘違いを自覚して恥ずかしくて、悲しみとショックで泣きそうなのを誤魔化す顔だ!

 言いたい。でもそれを言うと、祈ちゃんが守ったこの空気を壊すことになってしまう。私はぐっと我慢した。


「祈ちゃん、私は希です。よろしくね」

「はい……のぞみ、さん」


 挨拶できてよかったよかった。顔合わせが無事に終わった。そんな風に大人は二人満足している。一刻も早く、祈ちゃんと話がしたい。

 祈ちゃんと二人でお話できるようお願いしたところ、祈ちゃんは人見知りだからと言いながらも祈ちゃんが頷いてくれたので、祈ちゃんのお部屋に通してもらえた。


「祈ちゃん」

「はい……」


 お行儀がよく、小学3年生できちんと敬語で返事ができる。すごいと思う。私なんて中学生になって先輩に敬語つかうのもなかなかなれなかったし。一人部屋があるのもそれだけしっかりしてると信頼されてるんだろうね。

 大丈夫なら、私の思い違いならそれでいい。勘違いで押しつけがましいうざいやつと思われてもいい。


 急に二人きりで話したいと言い出した私を警戒するように、両手でクッションを抱いて座ってる祈ちゃんに近寄り、そっとその手に手を重ねる。


「敬語はつかわないでいいよ。むしろ、つかわないでほしいな。これから家族に、姉妹になるんだし。お姉ちゃんとか、好きに呼んでくれたら嬉しいな」

「……お姉、ちゃん」

「うん」


 私が触れた左手をゆっくりとおろした祈ちゃん。その顔はまた少し赤みがかって、ちょっとだけうるんでいる。その顔はさっきと違うように感じるのは、やっぱり私の思い込みだろうか。


「お姉ちゃんに、なってくれるの?」

「うん。お姉ちゃんになるし、うちの母はちょっとあれだから、よかったら私のこと、お母さんって思ってもいいよ」

「え?」

「祈ちゃんがのぞむなら、姉でも母でもなんでもいいよ。私は祈ちゃんの家族として、全部になるから。呼び方だってお母さんでもいいよ」


 変なことを言ってると思う。お母さんの前で呼ばれたらちょっと気まずいかもしれない。いや、あだ名とか言えば気にしないか。人の言葉をそのままにしか受け取らない人だ。でもまあ、母以外は気にするかもしれない。でもそんなことより、祈ちゃんに傷ついたままでいてほしくなかった。


「……ほ、本当に?」

「うん。私ね、祈ちゃんに幸せになって欲しい。家族として愛したい。ぎゅっと抱きしめたい。祈ちゃんがいいなら、ずっと一緒にいたい。そう思うのって、嫌かな?」


 できるだけ優しく、強制じゃなくて、ただ自分がそう思ってると言う気持ちだけを伝える。そんな私の言葉に、祈ちゃんはぱっと笑顔になった。

 それはさっきまでとは違う、破顔と言う言葉がそのまま形になったような、全力の笑顔だった。やっぱり、間違ってなかった。私の気持ちも、気遣いも。


「っ……ううん! 私も、そうしたい! お母さんとお姉ちゃんができるって聞いて、そうしたいって、思ってた!」

「うん。じゃあ、そうしよう」

「! お母さん!」


 私はそっと祈ちゃんの手を離して、両手をひろげた。祈ちゃんは私にぶつかるように抱き着きながら、私を母と呼んだ。

 うん、じゃあ、私は今日から、祈ちゃんのお母さんになるよ。そう、心に誓った。









 そうして私と祈ちゃんが家族になってから9年になる。祈ちゃんはもう、小さな子供ではない。これから大学に通う、立派な成人女性だ。だけど今も変わらず、私をお母さんと呼んでくれる。


「ねぇ、お母さん。こっちとこっち、どっちがいいと思う?」


 賢い祈ちゃんは私が何も言っていないのに、2人きりの時はお母さん、他に人がいる時はお姉ちゃんと使い分けた。私はできるだけ、それぞれ祈ちゃんが求める理想のお母さん、お姉ちゃんであろうとした。と言うか、小さくて可愛い祈ちゃんを見ると愛しさがあふれて、自然とそうなった。


「どっちも似合ってて可愛いけど、明日は一日晴れで気温も上がるし、涼し気な青がいいかもね」

「そっかぁ。じゃあそうする。ふふふ」


 祈ちゃんは明日の服を楽しそうに選んでいる。大したことじゃない。ただ一緒にお出かけするだけだ。


 私は大学は家から通ったけど、祈ちゃんは大学進学にちょっと遠いからと家をでることになったから、私も心配だし祈ちゃん本人も不安そうだったので私が一緒に住むことになった。

 そろそろ私もいつまでも実家に住むのもねって感じはしてたし、ちょうどよかった。そうして一緒に新しい家に引っ越して、ようやく片付けも終わり、大学が始まる前に明日はゆっくりしようと言う。それだけだ。


 なのに心底楽しそうにしてくれている。祈ちゃんは本当に可愛い。


「お母さん、明日だけど、お昼に食べたいお店があるの」

「そうなんだ。映画館の近くにあるお店?」

「うん。こないだSNSで話題になってて、すっごい美味しそうなパンケーキのお店なの」


 見て見て、と祈ちゃんは私にスマホを操作して画面を見せてくる。どれどれ。なるほど、確かに美味しそうだし可愛いし、私も興味がでてきた。でもすごく混むのでは?


「美味しそうだし私も賛成だけど、予約とかしなくていける?」

「うーん。無理なら他の近くのお店で」

「それならいいか。じゃあー」


 その後、全体の流れやルートを軽く決めるともう寝るのにいい時間になった。朝早い、と言うわけではないけど、健康の為にも美容の為にも日付が変わる前に寝てしまいたい。

 祈ちゃんに声をかけ、明日の服はハンガーにかけて取りやすい位置に置かせ、寝る準備をする。


 トイレもすませて布団に入ると、祈ちゃんもするっとはいってくる。


「おやすみなさい、祈ちゃん」

「おやすみなさい、お母さん」


 隣の祈ちゃんに挨拶をすると、祈ちゃんはそれに応えてから嬉しそうに顔をよせてくる。それに私もそっと顔をよせ、できるだけそっけない風に唇をあわせた。

 一瞬だけちゅっとあわせた、おやすみのキス。


 唇を離して顔をみると嬉しそうに満足した祈ちゃんがいて、枕に頭をおとして目を閉じた。私も改めてベッドに体を預ける。


 挨拶としてキスをする。祈ちゃんがまだ小学生の時にお願いされ、最初は頬やおでこだったのにいつの間にか口になってしまったこの挨拶。祈ちゃんはただの挨拶として、親愛の証として、そう思っているんだろう。

 でも私は、何回もしているのにその度、心臓が早く動くのを抑えることができないでいた。


 最初はただ、慣れないだけだと思っていた。実の両親とだってキスで親愛の情を表すことなんてなかったし、恋人だっていなかったから。だけど、一か月、半年、何年たっても私は慣れないままだ。

 一緒に眠るのもそう。同じ布団にくるまって抱きしめる。これもずっと続けていることだ。これは最初の頃は大丈夫だった。だから私も、ただキスだけがなれないのだと言い訳できた。

 だけど祈ちゃんの体が成長して、どんどん大きくなっていって、少しずつ、私は一緒に寝ると緊張するようになっていった。毎日のことなのでそれで眠れない、ということはないけど、それでも毎晩、眠る前、布団に入る瞬間、いまだに緊張してしまうのだ。


「……」


 ちらっと隣を見る。安心しきった顔で眠る祈ちゃん。


 自分でもわかってる。この気持ちがなんなのか。もう言い訳なんてしようがないくらい、わかってしまう。

 祈ちゃんが大好きで、愛おしくて、そしてそれはただの家族愛だけじゃなくて、ただひとりの女の子として思ってしまってるのだ。


 いつからこんな気持ちだったのかわからない。今思えば、最初からずっとそうだったのかもしれない。一目この子を見た時からずっと、この子を守りたいと、笑顔にしたいと思っていたのだから。

 きっと自覚がなかっただけで、最初からずっと、一目惚れだったのだ。最悪だ。母親なんて、家族の顔をしてこうして触れ合っているのに、心の奥に欲望を隠しているのだから。最低だ。


 だけど、どうか許してほしい。祈ちゃんに幸せになって欲しいと言うこの気持ちにだけは、出会ったあの日から何一つ変わらないから。お母さんと呼んで、と言う思いも変わらない。

 できることなら祈ちゃんと特別な関係になって、祈ちゃんをずっと独り占めしたいと思ってる。でも、お母さんと呼ばないで、とは絶対に思わない。一度もそう思ったことはない。むしろずっとそう呼んでほしい。

 祈ちゃんが私をお母さんと呼ぶのはいつも二人きりの時だ。だからこそ祈ちゃんは誰にも遠慮せず、可愛く甘えた声で呼んでくれる。私に対していつでも全幅の信頼感をおいてくれているのが伝わってくるから、私はお母さんと呼ばれるのが好きだ。


 恋愛感情で特別になんてなろうと思っていない。それ以上にお母さんでいられるほうが、もっと特別だから。恋人なんかより、ずっと死ぬまで傍にいられる関係だから。

 いつか祈ちゃんに恋人ができて、私から離れてしまうとしても。それでも私はずっと母親でいられるのだから。だから母親でいい。祈ちゃんが幸せならそれが一番いい。


 そう、心から思っているのに。それでもやっぱり、こうしてすぐ傍にいると触れたい気持ちになってしまう。


「はぁ……」


 私が自制できている内に、祈ちゃんには恋人をつくってこのべったりした距離感をやめてほしい。だけど、もっとずっとこのまま、できるだけ長く祈ちゃんを独り占めしていたい。そんな相反する気持ちに揺れながら、私はなんとか今夜も眠りについた。









「ただいまー」

「おかえりなさい」

「んっ。ふふ、お母さんも、おかえりなさい」

「ただいま」


 玄関ドアをくぐって反射的に出てきた言葉に、お母さんが優しく微笑んで返してくれる。それだけで、なんて幸せな気持ちになるか。お母さんはわかってないんだろうな。


 初めて出会ってからずっと、お母さんは私に優しくしてくれる。本当の家族として、無条件に、無償の愛を注いでくれている。それが幼い私にもそのまま伝わってきて、そんなお母さんを心から愛するのは当たり前のことだった

 お母さんが笑ってるから、私も笑える。お母さんがいてくれるだけで、私は幸せだ。


 久しぶりのお母さんとのデートはとっても楽しかった。ちょっとはしゃぎ過ぎちゃって、お母さんは少しだけ疲れたようだ。おやつも食べたから夕飯は軽くでいいだろうし、今夜は私が担当することにして、お母さんにはゆっくりしてもらおう。


「お母さん、今日はいっぱい付き合ってくれてありがとうね」

「どういたしまして、と言うのも変でしょ。私も祈ちゃんと一緒に楽しんだんだから」


 映画を見ようと言ってくれたのはお母さんだけど、内容を選んだのも、食べ物も、ついでのウインドウショッピングも全部私の好きなのに付き合ってくれた。なのにお母さんはその最中も、終わった今も優しく受け入れてくれる。

 ああ、本当に。お母さんより素敵な人ってこの世にいないと思う。ことあるごとに実感させられる。


 家のソファに並んで座って、ようやく一息。駅前からここまで歩いたので、凄く疲れると言うほどでもないけど腰を下ろすと私もちょっとほっとする。


「ねー、お母さん。疲れたなら、膝枕してあげようか?」

「ん? ふふふ。それ、祈ちゃんがしてほしいんでしょ?」


 いいよ、とお母さんは微笑んで自分の膝を軽く撫でてスカートの皺をのばしてくれた。

 きゅん、と胸がときめくのをおさえながらそっとお母さんのお膝にお邪魔する。大きなお母さんに包まれたみたいな感覚。幸せ。


「祈ちゃんはいつまでたっても甘えん坊だね」

「いや?」

「ううん。可愛い。祈ちゃんが自然に独り立ちするまでは、いつまでも甘えてくれていいからね」

「んふふ」


 自分でも甘えた声が出てる自覚はある。でもそうしても全部受け入れてくれるって信じられるから、ついそうなってしまう。


 でも、独り立ちするまで、なんて、ちょっと寂しい。いつか当たり前に私がお母さんから離れるって思ってるんだ。わかってる。それが当たり前だって。当たり前の親子関係だって。でも私はそんなの、知らない。

 だってそもそも私とお母さんの関係は当たり前なんかじゃない。お母さんは、実の親じゃない。義理の親でもない。血もつながってない。義理の姉妹で、疑似親子ごっこをしてるだけだ。


 こんな特殊な関係、世界で私たちぐらいじゃない? だったら、この関係に当たり前の結末なんて存在しない。私たちの関係は全部、私たちで決めればいい。


「ねぇ、お母さん。お願いしていい?」

「ん? なに?」

「今日から……いってきますとおかえりなさいの時も、キスしていい?」

「……いい、けど、ほんと、甘えん坊だね。そんなんで大学生活、大丈夫?」

「大丈夫っ」


 毎日、朝晩、眠る前と起きた時。おはようとおやすみなさいのキスの挨拶をしている。

 でもそれじゃあ、足りない。足りなかった。思い切った私の質問に、お母さんはいつも通りの優しい手付きで私のおでこを撫でながら頷いてくれた。

 それが嬉しくて私は手を伸ばしてお母さんの顔に触れる。ちょっと驚いたお母さんに微笑みながら体を起こし、そっと顔をよせてキスをする。


 触れた唇が熱い。挨拶のキス。ただそれだけのことで、私がこんなにドキドキしてるって、お母さんは気付いていないんだろうなぁ。


「改めて、ただいま。おかえりなさい」

「……ただいま。おかえりなさい。って、さすがに、こうやってお昼に真正面からすると、ちょっと照れるね」


 照れたようにはにかむお母さん。可愛くてたまらない。大好き。好き。


 お母さんのことが大好き。特別な意味で大好きだってわかったのは、私が思春期になった時。

 お姉ちゃんがくれたお古の少女漫画の恋愛物を読んでいて、どきどきわくわくして、私も誰かといつかキスとか、そういうことをするのかなって思った。思った時、私がそうする相手はお母さんしか考えられなかった。


 お母さんは私の特別な人で、私の唯一の人だ。


 いつか、お母さんにもそう思ってもらいたいとずっと思っていた。大学生になって、2人で暮らすことになった。

 私も、少しは大人に近づいてると思う。お母さんにとって少しでも小さな子供じゃなくなればいい。そう思っていて、今日、思いきって言ってよかった。


 今更のキスもこうして状況を変えることで照れてくれた。少しでも意識してくれた。それが嬉しくてたまらない。


「うん。でも、お母さんとキスするの好きだから嬉しいの」

「そ、そう? なら、いいけど」


 ああ、お母さん、大好き。優しいお母さん。お母さんは優しいから、きっと私が自発的にお母さんから離れるまで、お母さんは他の人に目を向けない。私が望む限り、私だけを見てくれるだろう。

 でも私はお母さん以外、目にはいらない。お母さんだけが私にとって特別で、お母さんが私の幸福そのものなんだ。だから、私が自然にお母さんを諦めない以上、お母さんも私をずっと見てくれてるしかない。

 だったら私のすることは一つだけだ。私がお母さんを幸せにする。私はお母さんといられるなら幸せだし、私もお母さんも一緒に幸せになるにはそれしかない。


「うん。よーし、じゃあ疲れもとれたし、晩御飯の支度しちゃうね。お母さんは疲れてるんだし休んでて」

「うーん、じゃあ、一緒にしようか」

「んー、うん。一緒にしよ」


 でも今はまだ、内緒。この気持ちは秘密。だって、今言ってもきっとまだ、私のこと好きって言ってくれないと思うから。

 まだちょっと意識してくれただけ。まだ私は背が伸びて体だけ大人になっただけで、学生だしお母さんからしたらまだまだ子供だろう。今思いを告げたってきっと冗談とか気の迷いだって流されてしまう。

 だからこれでいい。ちょっとずつ、私も大人になろう。そしていつか、お母さんにわかってもらうんだ。私を幸せにしてくれるのはお母さんだけだし、お母さんを世界で一番幸せにするのは、私だって。


「今日の晩御飯はー、メニュー、なにか考えてた?」

「うん、一応ハンバーグで。味はもちろん、デミグラスで」

「やった。私それ好き」

「うん。知ってる。だからだよ」

「もー。お母さん大好きっ」

「ふふ。知ってるよ」


 だから今はこれでいい。大好きだよって伝えても伝わり切らないこのもどかしさも、いつか、全部まとめて届かせてみせる。愛してるよ、お母さん。



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