美しい日
笠井 野里
美しいその日
その日の前から降っていた重苦しい雨は、私が授業に向かう正午の頃には、粒で落ちる程度になって、空は灰色の明るさを取り戻していた。
緑豊かな多摩のニュータウンを撫でるように歩く私は、小柄な私が二つは入るであろう緑色の傘に、優しく守ってもらっている、というようなあたたかい心持ちを、最近にしては珍しく持っていた。他人の庭先に咲く黄薔薇や、道に咲く月見草を眺めるでもなく眺めながら、近づいている梅雨に、少しの想いを馳せる余裕さえある。
二車線の大通りに出ると、街路樹の葉桜たちが風に揺れている。葉桜なんて、意識しないとただの木だけども、こうあたりをピンクに染めていた頃を振り返ると、揺れる葉桜も寂しいものに見えて、哀れな美しさがあって良い。
道を歩いていると、小学生の群れが現れて、私の方に向かってきた。私は、道を覆って談笑する群れに、優しさと親しさを見せる余裕さえあった。大きい傘が彼らの楽しいひとときの邪魔にならないように、傘をおろして、杖のように持って車道側の端によった。
群れは通り過ぎてゆく、彼らの笑い声からは、私のおいてきてしまったものの香りがする。彼らの純真に、私は小さく旗を降っていた。ほとんどの子どもは、私の旗振りにさえ気が付かず、彼らの小さくて大きい社会に浸っていた。
しかし、私をジッと見つめる、一人の少年がいた。幼いながら二枚目の気風が既にあり、目元には少しの憂いを従えている。周りの男子の、噴水に関する会話も話半分でいる。変質者と思われているだろうか、私は少し不安になった。今日は気分がいいけれど、面構えはいつものように陰気な悪人だったからだ。おっかなびっくり、その子とついにすれ違うぞというその刹那
「ありがとうございます」
恥ずかしそうな小さな声でちょこんと礼して、そうして群れにまた混じっていった。私は安堵と感嘆を隠して、ニコリと会釈を返していた。彼は私の、傘の小さな気遣いに気がついて、そうして礼をした。まわりの誰もが気が付かず、それどころか引率の教師さえも気が付かない、小さな小さな出来事を、彼は見て感じて、そうしてありがとうと言ったのだ。大人物である。他人のそよ風のような思いやりを見つめるその力こそが大切であると、その小さな先生は背中で語った。私はさらに心強い気持ちになって、その群れたちとお別れをした。
ちょうど一番後ろの引率である、汚れ一つない、明らかに着慣れぬスーツ姿の教育実習生が視界の端に居なくなった頃、雨で濡れて黒光りするアスファルトに、なにかビニールが落ちているのを発見した。大学生が多い地域なので、ポイ捨てはとても多い。そのうちの一つと早合点し、一瞥したらスマホを弄ろうというつもりだった。
はて実際一瞥すると、それはビニールでなくポリ袋であった。中には、手紙とハンバーガーの形をした、手のひらに入る大きさの縫い物が入っていた。私は足を止め、その少し濡れているジッパー付きのポリ袋を手に取った。手紙には丸っこい女性の文字で、こう書いてあった。
『五月十五日に女性の方が落としているのを見かけたんですけど、電車(注:その落ちている現場の近くに小さな駅がある)に乗るのに急いでたみたいで、声をかけそびれてしまって…… 大切そうなものなので、わかりやすいようにここにおいておきます!! どうか持ち主さんのところに届きますように!』
私はこの文を見てそうして落とし物がより見つけやすいように近くの植え込みにおいた後、少しばかり涙を流した。これを書いた拾い主は心の優しい人だと思った。聖女の面持ちさえ私はこの文に感じた。この人の純粋な願いが届く世界ならいい。私もそれを祈る。そうして空を見上げると、未だ薄い雲に覆われてはいるが、一筋の光芒が、私の涙を流した瞳に映った。私はその細い糸のような光に向けて、足を進めていった。
帰り道、その落とし物は無くなっていた。私は、微笑以外の表情を無くして、家路についた。
美しい日 笠井 野里 @good-kura
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