32_孤児院と公爵

「師範、何かいいことでもありましたか?」

「うえっ!?な、何で……?」


 ある日の集団クラスの後、着替えを済ませた門下生たちと世間話に花を咲かせていると、不意にミーアに尋ねられた。

 急な問いかけに思わずたじろぐアイビスに、ミーアは他の門下生たちと顔を見合わせてくすくすと笑みを漏らした。


「だって、なんだかとても幸せそうで。表情もすごく柔らかくなって、まるで恋する乙女のようで素敵よねって話していたんですよ」

「こっ!?ええっ!?」


 アイビスは途端に顔を真っ赤に染め上げて、両手で熱くなった頬を押さえた。

 確かにヴェルナーと想いを通わせてから、より一層甘く幸せな日々を過ごしているのだが……そんなに分かりやすかっただろうか?


 恥じらうアイビスを温かく見守るように五人の門下生たちは一様に目を細めている。


「ふふっ、それでも腕が鈍ることなく冴え渡っているのが師範らしいですけど」

「そ、そう。それはよかったわ」


 生まれて初めての恋にかまけて、仕事に支障をきたしては道場の看板を掲げるものとして失格である。

 アイビスはミーアの言葉にほっと息を吐くと、彼女たちを門の前まで見送った。


「ふぅ、顔に出るなんて私もまだまだね。明日は孤児院に行く日だし気を引き締めないと!」


 よし!と軽く頬を叩いたアイビスは、明日の準備のため、道場に戻ってもうひと鍛錬に精を出した。



◇◇◇


「今日もありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。楽しい時間を過ごせました」


 翌日、アイビスは予定通り孤児院を訪れた。

 もちろん月に一回の護身術指導のためである。


 つつがなく稽古を終えて一息ついた後、ロベルタと翌月の日程調整を済ませたアイビスは、ロベルタと並んで正門に向かって歩いていた。


「では、私はこの後来客がございますので、ここで失礼いたします」

「ええ、お見送り感謝します」


 ロベルタは正面の門までアイビスを見送ると、足早に孤児院の建物に戻って行った。


 門を出ると、ロテスキュー家の馬車が既に到着していた。

 御者に礼を言い、馬車に乗り込もうとした時、ふと行きより荷物が少ないことに気が付いた。


「やだ、私ったら道着を更衣室に置いて来てしまったのね」


 御者に忘れ物をしたことを詫び、急いで施設に戻る。


(そういえば、来客があるって言っていたけれど、正門には他に馬車は停まっていなかったわね。遅れていらっしゃるのかしら)


 着替えの場所として借りている更衣室に入ると、部屋の真ん中にある椅子の上に、綺麗に畳まれた道着が置いたままになっていた。


「あったわ。まったく、気を付けないとね」


 アイビスは素早く道着を袋に入れて更衣室を出た。ちょうど更衣室は正門の対面側、つまり裏門の近くに位置している。


(あら?あれは……馬車かしら)


 外に出ると、裏門の前に落ち着いた装いの馬車が停まっていることに気が付いた。どうやら来客は裏門からやって来たようだ。

 なぜ裏門から?と少し疑問に感じるが、ともかく急いで帰ろうと足を速める。


「――はい、いつもありがとうございます」

「いやいや――」

「――も元気そうで良かったわ」

「ははは、――」


 建物に沿って早足で歩いていると、開いた窓から誰かが話す声が聞こえて来た。思わずチラリと建物の中に視線を投げたアイビスは驚いた。


(ロリスタン公爵様に、チャーノだわ!)


 ロベルタとにこやかに話をしているのはロリスタン公爵であった。その傍にはキョロキョロ辺りを見回すチャーノの姿があった。久々に育った孤児院にやって来て感傷に浸っているのだろうか。少し距離があるのでその表情までは窺えない。


 アイビスが思わず足を止めてチャーノを見つめていると、くるんとチャーノの首がこちらを向いてバチンと視線が絡んでしまった。


 覗いていたことに後ろめたさを感じるアイビスは、苦笑いをして軽く手を振った。そして早く立ち去ろうと再び歩き始めた。何となく公爵と顔を合わせるのは良くないと思ったからである。


(ともかく、チャーノが元気そうでよかったわ。何を話していたのかしら?孤児院の支援のこと?それとも身請けのこと?)


 考え込みながら足速に正門を目指していると、タタタッと小さな足音が近づいてきて、「あのっ!」と声をかけられた。

 驚いて振り返ると、そこには息を切らしたチャーノの姿があった。


「チャーノ!?どうしたの?」


 アイビスはチャーノの目線に合わせるようにしゃがみ込み、素早く辺りを見回した。ロリスタン公爵の姿も、ロベルタの姿もない。一人でアイビスを追ってきたのか。


「あ……その、お手洗いに行くって言ってきたの」

「ああ、なるほど」


 そこまでしてアイビスを引き止めて伝えたいことは何なのだろうか。

 じっと目を見つめて紡がれる言葉を待っていると、チャーノは何度も瞳を忙しなく泳がせて、意を決したように口を開いた。


「えっと、私、妹がいて……ティアっていうの。二人で、お義父様…に引き取られたのに、屋敷に着いて以来ティアと会っていないの!元々屋敷にいた子たちもどんどん居なくなっていったし、私、ティアのことが心配で……」

「まぁ……そうだったの。よく伝えてくれたわね。あなたは勇気があるのね」


 目に涙をいっぱい浮かべて必死に訴えかけるチャーノの小さな身体を、アイビスは包み込むように抱きしめた。


 親を亡くしてたった二人の家族となり、長らく育った孤児院から公爵家に引き取られたチャーノたち。

 きっとお互いの存在が支えになっていただろうに、幼い二人を引き裂いてまで、ロリスタン公爵は一体何をしようというのか。


「ありがとう。私にできることなら何だってするわ。不安だと思うけど、しっかり勉強して力をつけるのよ」

「お姉ちゃん……うん、うんっ」


 チャーノはポロリと一粒の涙を溢すと、何度も頷いてから愛らしい笑顔を見せてくれた。


「さ、そろそろお戻りなさい。公爵様があなたを探しに来る前に」

「うん……」


 優しい笑顔を携えて、安心させるようにチャーノの頭を撫でたアイビスは、そっとその背中を押した。

 チャーノは心細そうに数度振り返りつつも、拳をギュッと握りしめて去って行った。


 チャーノが見えなくなると、アイビスは見送りのために振っていた手をゆっくりと下ろした。


(ロリスタン公爵は何をしようとしているの?ヴェルにも相談してみるしかないわね…)


 チャーノを見送ったアイビスの表情は険しかった。


「やあ、こんなところで会うなんて、奇遇だね」

「あ、あなたは……!」


 眉間に皺を寄せながら正門に向かおうとしたアイビスの前に現れたのは、予想外の人物であった。

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