08_おやすみのキス
急に幼馴染が男に見えて、アイビスは慌ててカップを両手で包んで口元に運んで顔を隠す。
「なんだ?ようやく置かれた状況を理解したのか?」
そんなアイビスの心境の変化にも目ざとく気がつくヴェルナーは、ソファの背もたれに肘を突きながらアイビスに身体を向ける。スッと骨ばった指が伸びてきて、アイビスのサラリとしたヘーゼルナッツ色の髪をひとすくいし、くるくると指先で遊ばれる。
「相変わらず綺麗な髪だな」
「そっ、それは、サラが今日のためにお手入れしてくれたから……」
「肌も、瞳も、全部綺麗だ」
「~~~っ!」
いつの間にか肘をついていた手がアイビスの腰に伸びてきており、抵抗する間も無く抱き寄せられてしまう。
カチカチに固まるアイビスの手を解くようにティーカップを取り上げたヴェルナーは、そっとカップをテーブルのソーサーに戻す。
「なぁ、アイビスは俺に触れられるのは嫌か?」
「えっ!?い、いや……ではないわ」
一ヶ月前、お見合いの場でリッドに触れられた時は全身鳥肌が立ったが、ヴェルナーに触れられても嫌悪感はない。むしろ心地よさや安心感さえ胸に広がるのだから困っているぐらいだ。
「だけど、その…ずっと幼馴染だと思ってたから、まだこの状況に心が追いついていない感じがするの」
アイビスが包み隠さず本音を言うと、ヴェルナーの口元は弧を描いた。繕うことなく嘘をつかないことは、ヴェルナーの知るアイビスの長所の一つである。
「無理に俺を好きになろうなんて思わなくていい。自然とそう思えるまで、いつまでだって待つ。言っただろう?お試しだと思って気楽にしろと」
「ヴェル……あなた、私に甘すぎるわ」
「ん?まだまだ甘やかし足りないんだがな」
「ええっ!?心臓がもたないから勘弁してよ」
腰を抱かれ、アイビスは空いた手を遠慮がちにヴェルナーの胸元に添える。顔を上げればきっと驚くほど近距離にヴェルナーの顔があると思うと、ついつい俯いてしまう。
クツクツと喉を鳴らしながら、アイビスの頭に唇を落とすヴェルナー。
「ちょ、ちょっと……」
「なあ、アイビス。ちょっと無防備すぎないか?流石に結婚初夜の意味ぐらいは知っているだろう」
「結婚、初夜……結婚初夜ッ!?!?」
(そうよ!!何をノコノコ夫の部屋に来ているの!私!)
一般的な夫婦が結婚初夜に臨む行為を知らないわけではない。カッと身体が熱を帯び、慌ててヴェルナーのすっかり厚くなった胸板を押した。
けれど、ヴェルナーの身体はびくともしない。それどころか片手を絡め取られてしまい、ますます身体が密着してしまう。
「安心しろ。何も取って食おうなんて思っていないさ。アイビスが心から俺を愛するまで、一線を越えるつもりはない」
「え……」
「それに無理に組み敷いて結婚初夜に妻に投げ飛ばされたとあれば、流石の俺もしばらくへこむ」
「なっ、な、投げ飛ばしたしなんか……しないわよ。多分」
自信なさげに視線を逸らすアイビスに、「どうだかな」と楽しそうに笑うヴェルナーであるが、不意に真剣な顔をすると、アイビスの顎に指を添えてクイッと上向かせた。
「なっ、なに……」
「だけど――おやすみのキスだけは譲れない」
「おっ……!?キッ……!?」
今夜の身の安全を確認してホッと安堵したのも束の間、一呼吸遅れて脳が処理した単語にアイビスは目を剥いた。
「ああ、多少のスキンシップが恋の起爆剤になるかもしれないしな。まあ、半分は俺がアイビスとキスしたいからだけど」
「な、あ、あばば、あわ……」
「俺に触れられるのは嫌じゃないんだろう?」
「うっ!ず、狡いわ!言質を取ったのね!」
フッと笑ったヴェルナーの吐息が唇にかかり、アイビスの身体はギュッと硬くなる。それに気付いたヴェルナーは、腰に回していた手でトントンと優しくアイビスの背を叩いた。
「大丈夫、力抜いて」
「で、でも……私初めてだし」
「俺だってそうさ」
「うそっ!」
「初めてのキスの相手はアイビスだって決めてたからな」
「そ、そんな………あっ」
囁くような声で会話をしているうちに、気が付けばアイビスの顎に添えられていた指は赤く染まった頬を撫でている。そのくすぐったさにピクリと肩を震わせたのを合図に、ほんの数秒だけ――唇が重なった。
(わ……熱い、それに…柔らかい……って何考えてるの!)
唇が離れ、羞恥心から目に涙を浮かべるアイビス。その濡れた目尻にも唇を落として、ヴェルナーはアイビスの耳元で愛を囁いた。
「アイビスの全てを愛している。少しずつ、俺に堕ちてきて」
「~~~っ!!!?」
慌ててバッと両手で囁きを落とされた耳を塞ぐ。
恋愛経験皆無なアイビスはもうキャパオーバーであった。
「さて、今日は疲れただろ?部屋でゆっくり眠るといい。明日は起きたら枕元のベルを鳴らして。アイビスのことは起こさないように屋敷の人間には伝えている。好きなだけ寝坊するといい」
「あ、ありがとう……」
明日の朝は道場の稽古も休みなので、お言葉に甘えてゆっくり休ませてもらおう。
よろりとふらつきながら立ち上がったアイビスを、二人の部屋を繋ぐ扉の前までエスコートしてくれるヴェルナー。
そういえば、夫婦の部屋は扉一枚で繋がっているんだったと気がついたアイビスの頬には再び熱が集まる。
「アイビス、この扉の鍵は君が持っているといい」
「え?」
扉に手をかけて開いたヴェルナーは、アイビスの手を取ると小さな鍵を手渡した。
「鍵は一つしかないから、アイビスが鍵を締めれば俺は君の許可なくこの扉をくぐることはできない。そうすれば夜這いの心配もなく眠れるだろう?」
「夜這っ……!?」
可笑そうに肩を揺らすヴェルナーは冗談を言っているのか、どこまでが本気なのか…さっぱり分からないアイビスはぐるぐる目を彷徨わせることしかできない。
「う…ヴェルはそんなことしないもの。信頼しているし」
「それはそれで複雑な心境だな」
「私の嫌がることはしない、昔からそうでしょう?」
そう言いつつ、予防線を張っている自分の狡さを痛感する。
こんなにも良くしてくれるヴェルナーに対して、酷なことを言っていることは理解している。だけれど、アイビスも全てを委ねるにはまだ、気持ちも、覚悟も、夫婦としての時間も――何もかもが足りなかった。
「……あまり男の理性を信用しすぎないほうがいい。軽く吹けば簡単に吹き飛ぶものだ。特に長年片想いしてきた相手を前に手を出さないなんて、俺は自分の理性を褒めちぎってやりたいぞ」
ヴェルナーは再び愛おしそうにアイビスの髪を撫でる。
「とにかく今日は鍵をかけて休むといい。もちろんいつでもこの扉を使って俺の部屋に来てくれてもいい。その時は歓迎しよう」
「えっと……それは、一緒にお茶やお酒を飲むため、でもいいのかしら?」
「ああ、俺に用なら何でもいい。だが――いつかその身一つでこの扉を通って俺の元に来た時は、俺の理性はいよいよぶっ飛んでしまうだろうから覚悟しておくことだ」
「~~っ!」
ヴェルナーの言葉の意味が分からないアイビスではない。これ以上熱くなると脳みそが溶けてしまうのでは?と心配になる程顔が熱い。
「おやすみ、俺の愛しい人」
「っ!」
そんなアイビスに、ヴェルナーは
「も、もう……心臓が、もたないわ」
去り際に落とされた二度目のキスで限界を迎えたアイビスは、へなへなとその場に座り込んで両手で顔を覆ったのだった。
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