第2話王子様

 異世界に行くなら、最初にまず神様と会話をするらしい。そんなテンプレートはネット小説を読み漁っていた私の脳内にインプットされていた。しかしまさか自分が体験することになるとは、思ってもみなかった。



 運命のあの日のことだ。中学校から帰ってきた私は、自室に籠って一人泣いていた。両親はまだ仕事から帰ってきていなかった。

 いつものことだった。中学に行って、クラスのみんなに揶揄われて、馬鹿にされて、意地悪された。悲しくて、泣いていた。

「どうしてそんなことをするの?」と私は聞いたが、みんなは決まって「お前がどんくさいのが悪いんだ」と返してきた。


 そう、私はとことんどんくさかった。かけっこはいつも最下位。勉強はびりっけつ。教科書を運ばせれば、途中で躓いてばら撒いてしまう始末。 陰気に伏せた顔には前髪がかかり、よく幽霊女と言われた。

 惨めで、みんなが憎くて、何よりもやり返すことも言い返すこともできない自分の弱さが心底嫌だった。

 当時の私は、普通に過ごして、普通に認められている周りの人が妬ましくてしょうがなかった。


 けれど、灰色の毎日に、突如変化が訪れた。

 部屋の片隅で泣き疲れ、ぼやけていた視界が突然光に包まれるのと同時に、私は知らない場所にいた。そして、そこで女神を名乗る存在に出会った。自室にいたはずの私は、突然神域へと招待されたのだ。

 私のつまらない現実は、あっさりと非現実的なファンタジーに侵食された。


 私の目の前に現れたのは、光だけが視界を埋め尽くす異様な空間だった。見飽きた自室はどこにも見当たらない。

 足場すら見えず、ただ空間だけがどこまでも広がっていた。足をついているのかすら分からないままに、私は前を向いた。

 光の先には、何か巨大な影があった。遠近感すら喪失する異様な空間では、それが実際どれだけ大きかったのか分からない。しかし、何か近寄りがたく、隔絶していて、超越していることだけは分かった。

 影は、自らを女神と名乗り、厳かに話を始めた。正直混乱状態だった私は、その 内容をほとんど覚えていない。しかし、最後の問いかけだけははっきりと覚えている。

 命懸けの戦いに駆り出す代わりに、何か一つ願いを叶えてやろう、と言われた。

 願いが叶うと聞いた時、真っ先に私の頭に浮かんだのは、カッコ悪い自分のことだった。勉強も運動もできなくて、ドジで、のろまで、みんなに馬鹿にされる私。大嫌いな私。

 それを浮かべていたら、願いはすぐに出てきた。


「御伽噺に出てくる王子様みたいに、カッコイイ人になりたい」


 願いは叶った。でもその代償は、異世界を救う使命を課されることだった。

 整いすぎた顔立ちに、すらりと伸びた長身。命を懸けた戦いに身を投じる私への報酬は、たったそれだけだった。

 でも、これがなければ私はまたみんなに馬鹿にされる日々に戻ってしまう。

 だから私は、今日も演じる。御伽噺に出てくる王子様みたいにカッコイイ人を。みんなに認めれる私を。



 でも、初めて私の力を見られてしまって動揺してしまった。

 川辺からの帰り道、私はゆっくりと歩きながら、先ほどの出会いについて考えていた。

 クラスメイトの渡辺君は、私の剛力を引き攣った顔で見ていた。そんな様子に動揺して、私のかっこいい王子様の仮面はあっさりと剝がれてしまった。


「これで明日クラスに行ったら私の噂が広まっていたらどうしよう……」


 臆病な私は、どうしてもそんなことを考えてしまった。

 渡辺君は表面上そんなことを考えない優しい人に見えた。私の突拍子もない話をあっさりと聞き入れてくれる人は、多分いい人だ。


「でも、どうして渡辺君が私の話をちゃんと聞いてくれたのか、分からなかったな」


 最初の方の渡辺君は、明らかに面倒事を嫌っているように見えた。

 私の態度も、気持ちのいいものではなかっただろう。みっともなく涙目になっていた気がする。


「……渡辺君、か」


 なんだか、不思議な人だ。






 伊勢崎さんをクラスに馴染ませるために、友達を増やすためにはどうすればいいのか。考えてみても、あまりいい案は浮かばなかった。

 結局何も考えつかなかった僕は、少しだけ憂鬱な気持ちで学校の門を潜った。

 その時、ふと違和感に気づく。周りの生徒たちの視線が、こちらを向いている。こんな普通な僕に注目する理由なんてないはず。なぜ……? 

 その原因はすぐに判明した。いつの間にか、僕の目の前には、音もなく近寄って来た伊勢崎さんが立っていたのだ。

 今日も今日とて綺麗な彼女は、熟練の執事のように恭しくお辞儀をした。


「おはよう、ボクの唯一無二の親友。一日千秋の想いで君を待っていたよ」


 凡庸な僕と、特別な伊勢崎さんの、唐突な接触。

 周りの生徒が、一斉に目を見開いた気がした。


「え、うん。おはよう、伊勢崎さん」


 普通に挨拶を返すと、彼女は見惚れるような微笑を見せた。


「君に挨拶されると、それだけで気分が高揚してしまうね。全く、罪な男だよ君は」


 歯が浮くようなセリフのオンパレードだったが、伊勢崎さんが言うと自然と違和感がなかった。むしろ、普通に話している僕の方が間違っている気すらしてくる。


「えっと、行こうか」


 正直、周りの視線が痛い。僕が促すと、伊勢崎さんは右手を左肩にあて、優雅に礼をした。


「もちろんだとも」


 校舎の正面玄関に歩き出すと、伊勢崎さんは僕の二歩前を音もなく歩き出した。ようやく校門前野次馬の耳目が離れたので、僕は小声で問いかける。


「どういうこと伊勢崎さん⁉ 昨日みたいに普通に話してよ!」


 すると、彼女は摺り足でこちらに近寄ってきた。未だに見慣れることのない美しい顔が近づいてきて、ドキドキする。意外にも、彼女は僕よりも背が低かった。

 彼女は僕の耳に口を近づけたかと思うと、蚊の鳴くような声で返答した。


「は、恥ずかしくて無理です……」


 さっきの態度は恥ずかしくなかったのか⁉


「が、学校ではボクモードでいきます……すいません……」


 また摺り足で僕の二歩前に戻る伊勢崎さん。よく見ると、その頬はわずかに紅潮していた。……その所作は、なんだか余計な勘違いを生みそうだった。

 すると、僕の前方から、ぱた、という音がした。そちらに視線を向けると、こちらを見る一人の女子生徒が、驚愕、といった表情で学生鞄を取り落としていた。よく見れば、同じクラスの水口さんだった。たしか、昨日廊下で伊勢崎さんの微笑を目撃して倒れ込んでいた子じゃなかったか。地味目ながら可愛らしい顔立ち。顔の横あたりで結われた髪。おでこに付けられた髪飾りが、可愛らしい印象を加速させている。


 そしてその瞳は、信じ難いものを見たと言わんばかりに広げられていた。わなわなと震える指で、彼女は僕を指さした。


「れ、麗様に愛の言葉を囁いてもらって……」


 ……何か、とんでもない誤解をされている気がする。


「許せない! 妬ましい! 羨ましい! お前の顔、覚えたからなああああああああ!」


 わっと泣きながら走り去っていく女子生徒。地面に落ちた鞄はそのままだ。僕は慌てて彼女を呼び止めようとする。


「あの、かばん……」


 唐突に、僕の横を疾風が通り過ぎた。視界の端を高速で動く影。僕の背後から躍り出た伊勢崎さんは、目にも止まらぬ速さで落ちたかばんを手に持ったかと思うと、100mを九秒台で走りそうな俊足で女子生徒に追いついた。


「落とし物だよ、あわてんぼうのプリンセス」

「へぁっ⁉ あ、ありがとうございましゅ……す」


 呼吸を全く乱さず突然目の前に表れた伊勢崎さんに、水口さんはたじたじだった。その頬は、先ほどの伊勢崎さんなんて非じゃないほど真っ赤だ。

 そんな様子を見た伊勢崎さんは、ふっと笑った。


「ああ、慌てふためく君も可愛いけれど、急に走って怪我したら大変だよ?」

「はい……」


「じゃあ、はい」

 伊勢崎さんは、学生鞄を持つと、そのヒモを水口さんの首の後ろにかけた。ちょうど肩から斜めにかけられるような状態だ。

 そしてそれを持つ伊勢崎の姿勢は、見ようによっては抱き着く一歩手前だった。


「はぅ、近い! 顔が良すぎる! ああ、なんの匂いこれ⁉ 待って近い近い近い近い! あ、無理……」


 騒ぎ立てた水口さんは、突然糸が切れたようにその場に崩れ落ちてしまう。けれどそんな彼女の腰のあたりを伊勢崎さんがそっと支えた。まるでダンスでも踊っているように水口さんをキャッチした様子に、思わず感嘆してしまう。

 ……でも、その後どうするんだろう。様子を見ていると、伊勢崎さんがこちらを向いて何かパクパクと口を開いていた。

 目を凝らすと、彼女のメッセージが伝わってきた。


『たすけて。わたなべくん、たすけて』


 依然として凛々しい顔とは正反対のSOSだった。

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