異世界帰りの伊勢崎さんは普通じゃない~王子様な彼女の素顔は気弱な女の子~

恥谷きゆう

第1話素顔の君

 ようやく授業が終わったので、帰宅するために廊下を足早に歩く。高校生活が始まって二週間ほど。友人を作ることもせず、僕は帰路につこうとしていた。


 しかし、そんな僕の進路を塞ぐ集団があった。


 見ればその一団は一年生の女子のみで構成されていて、その視線はある一点に向けられていた。


 


「ねえ、今日の麗様もかっこよくない⁉」


「ヤバいよね! 見て、あの物憂げな視線! やばい、芸術⁉」


 


 ひそひそ声には熱気が籠っていて、どうやら何かを観察しているらしかった。


 その視線の先を目で追うと、僕は思わず息を呑んだ。


 


 彼女らの視線の先にいたのは、一人の少女だった。名前を、伊勢崎麗。同じクラスの中心にいる、美しくて、触れることすら憚られるような少女だった。


 


 やや中性的な顔は恐ろしいほど整っていて、なるほど女子から王子様なんて扱いを受けてもおかしくない。あの切れ長の目に正面から見つめられれば、それだけで道を譲ってしまいそうだ。


 肩あたりで切り揃えられた短い黒髪は、王子様のような印象を加速させる。


 すらりと伸びた身長は、百六十センチほどだろうか。背筋をピンと伸ばして歩いているので、実際よりも大きく見える。


 ほっそりとした腰の下から伸びている両脚はモデルのようにすらりとしていて、黒タイツに包まれていた。


 完成度の高い美貌は、隙のない立ち姿と相まって幻想的にすら見えた。


 


 ふと、彼女の視線がこちらに向く。僕は反射的に目を逸らしたが、どうやら見ているのは僕の前に陣取る女子の一団のようだ。


 切れ長の目がこちらに向くのと同時に、女子たちのひそひそ話はピタリと止んだ。伊勢崎さんが、何事か考えるように、じっと女子たちを見つめる。


 緊張感のある沈黙が廊下を支配した。どこからか、生唾を飲んだ音が聞こえた気がした。


 やがて、伊勢崎さんの形のいい唇が、静かに開いた。


 


「──ッ!」


 


 その場にいた女子全員が、息を呑んだ気がした。


 伊勢崎さんは、ただ静かにほほ笑んだ。


 言葉にしてしまえばそれだけだったが、しかしその場の雰囲気は一転した。恐ろしいほどに整った顔は、ただ唇が弧を描いただけで、見る者を卒倒させるような芸術にまで昇華した。形の良い眉と目が少しだけ釣り上がる様は、見る者全ての邪念を払ってしまいそうなほどに優し気だった。控えめで少し物憂げなその笑みは、美しいという言葉だけでは足りないほどに美しい。


 伊勢崎さんが、微笑した。それだけで見ていた者は全て、天にも昇ってしまいそうな気がしたのだった。


 女子生徒の集団がざわめきだす。甲高い声が、彼女らの興奮具合を示していた。


 


「き……キャー! ミコ、しっかり! みんな大変、ミコが倒れた!」


「無理……尊い……」


「死傷者多数! 死傷者多数! 応援を! HQ! HQ!」


 


 てんやわんやの騒ぎを繰り広げる女子たち。


 ちょうど道が開いたので、僕はその横を通って下駄箱へと向かった。


 


「色んな人がいるもんだなあ……」


 


 しみじみと独り言を呟きながら、僕は学校を出た。先ほどの微笑は、僕の頭にもくっきりと焼き付いていた。世の中には、あんなに綺麗な人がいるんだなあ、と思ったものだ。


 あれが、特別な人間。普通な僕とは、違った人間だ。


 


 


 特別になりたいっていうのは、およそ思春期の少年なら一度は持ったことのある願望ではないだろうか。


 特別といっても、色々ある。足が速いという特別。勉強ができるという特別。あの子に好かれているという特別。絵が描けるという特別。


 僕はそういうものに一通り焦がれて、そして自分がどうしようもなく普通の人間であることを悟った人間だ。


 


 僕はあまりにも普通だったのだ。運動はそこそこ。勉強もそこそこ。特別なセンスもない。誰かにはっきりと好かれているわけでもなく、特別嫌われいてるわけでもない。一通り試して、全部だめだった。高校生になった僕は悟ったのだ。きっと僕は、このまま普通の人間として過ごして、普通の人間のまま死んでいくのだろう、と。


 そう思ったら、途端に特別な人間が妬ましく思えてきた。例えば、王子様みたいな綺麗な容姿をした、伊勢崎麗。例えば、僕の幼馴染。


 


 だから僕は、そういうキラキラしたものから目を逸らして、この先ずっと生きていくと決めたんだ。


 けれど、そんな僕の陰鬱な決意は、あっさりと覆されることになる。


 特別は、向こうからやってきた。


 


 


 憂鬱な気分になった時、僕はよくこの川辺で黄昏ることにしている。学校から自転車を漕いで五分足らず。途中でコンビニに寄ってお茶を買ったので、もう少しかかっただろうか。


 草むらにどっかりと腰を下ろした僕は、ボーっと水の流れを眺めた。


 眼下の荒川の流れは今日も雄大で、不変で、人間の悩みがいかにちっぽけか教えてくれた。僕が見ていようが見ていまいが、川は流れるのだ。


 石を拾い、川に投げ込む。弧を描いた石が水面に落ちるが、波紋は流れに掻き消された。


 


「はあ……」


 ため息を一つ吐き、僕はふと川の上流を見た。


 


 ──別に特別な意図のある行動ではなかった。ただ、他の景色が見たくなっただけ。けれどこの時の僕の行動は、大きな出会いをもたらすことになった。 


 


「……人?」


 


 目の錯覚だろうか。川のど真ん中に、人が突っ立っているように見える。


 まさか、そんなはずは。ここは荒川の中流。とても人が立てるような水深では……。


 


「あの! 大丈夫ですか⁉」


 


 溺れている? しかしそれにしては体勢がおかしい。とにかく、僕はその人影に声をかけた。


 返答はなかった。代わりに勇ましい裂帛が聞こえた。


 


「はああああああ!」


 


 人影が拳を水面に振り落とすと、どん、と花火でも鳴ったような音がした。遅れて、水面から岩石でも墜落したかのような水飛沫が上がった。


 


「……は?」


 


 現実離れした光景に、僕は言葉を失った。やや遅れて、僕の視界がクリアになってくる。剛力で水面を叩いた主の姿が露になる。


 クラスメイトの伊勢崎さんだった。水面の上に立つ伊勢崎さんが、拳を振りぬいた姿勢で固まっていた。


 その光景に、僕は思わず見惚れてしまった。あまりにも現実離れしていて、美しかったからだ。


 


 キラキラと宙を舞う水飛沫も。それの中心にいる伊勢崎さんの凛々しい顔も。川の上に仁王立ちする彼女の堂々たる佇まいも。


 現実離れした美貌が、現実離れした光景とあまりにもマッチしていた。学校の廊下にいるよりも、キラキラと輝く水飛沫に囲まれている方が、彼女らしいとすら思えた。


 ああ、あれこそが僕の求めた特別だ。絵画のようなその場面に、僕の心臓が高鳴る。それは、美しい芸術作品を見た時にも似た感情だった。


 


 半ば無意識にその光景を目に焼き付けていると、ピタリと静止していた伊勢崎さんが顔を上げ、こちらを向いた。同時に、その美貌が驚愕と焦燥に染まる。


 そこまで来て、僕はようやく気付いた。


 あれ、あの人が僕の口を塞ごうとしたらどうなる? あの剛力でバラバラにされるんじゃないか? 


 普段なら、有り得ないと一笑できる話だ。しかし、先ほど現実離れした光景を見たばかりだ。どんなことが起こってもおかしくない。


 不安。特別に憧れた僕は、いざそれに接すると恐れを抱いてしまった。


 


「……いやあの、何も見てないので」


 


 思考の結果の逃亡。慌てて背中を向けて、その場を去ろうとする。今見た事は全て忘れよう。そう、思っていたのだが。


 


「待ちたまえ」


 


 涼しげな声が、僕を呼んだ。


 どうやったのか、伊勢崎さんは十メートルはあろうかという僕との距離を一瞬で詰めると、僕の肩をがっしりと掴んだ。


 


「いたたたたたた! 力強いよ伊勢崎さん! 折れる折れる!」


「あ。ごめん、なさい」


 


 おずおずとおろされる手。そして、聞こえた声があまりにも弱弱しくて、僕はひどく衝撃を受けた。美しく凛々しい顔から生み出されたとは思えない声に、僕は自分の耳を疑う。


 ……そんなに申し訳なさそうに言われると、なんだか僕が悪いことしているみたいだ。


 手を離した伊勢崎さんは、先ほどまでと同じ距離感でぼそぼそと話し始めた。彼女の吐息が顔にかかり、少しドギマギする。


 


「その……今のことは、黙っていて、くれませんか」


「うん、もちろんだよ」


 


 というか、誰かに話したところで信じてもらえないだろう。


 


「その……ちょっと学校でうまくいかないことがあって、それでちょっと憂さ晴らしをしていただけなんです。この辺りなら誰も来ないから、迷惑かけないかなって」


「うんうん、人間は皆そういう時あるよね。それじゃあ、僕は帰るから、遠慮せずに水柱を立てていいよ」


 


 正直なところ、特別な人である伊勢崎さんの悩みなんて、僕の手に負えないだろう。関わっても失望させるだけだ。


 そう思った僕は、これ以上関わるまいとくるりと後ろを向いて歩き出した。


 ──でも、彼女の弱弱しい呟きが風に乗って届いてきた。


 


「う……うう……終わった……明日には学校中で脳筋女とかゴリラとか言われるんだ……そして先生にもそれが伝わって、授業中のネタとかにされちゃうんだ……『はい、じゃあ次、素手で水を叩き割る伊勢崎さん!』とか言われて、クラス中からクスクス笑われるんだ……」


 


 思わず、振り向く。ブツブツと呟く伊勢崎さんには、いつもの凛々しい雰囲気はどこにもなかった。常にピンと伸びていた背筋は縮こまって、前を見据えていた目は自信なさげに伏せられていた。


 そこにいたのは、どこにでもいる普通の女の子のようだった。普通に悩んで、必死で生きている人。少なくても、王子様みたいにもてはやされる特別な人間には見えなかった。


 そんな普通の人間に見えたから、普通な僕は彼女に声をかけていた。


 


「……それが君の素?」


「え?」


 


 振り向いた彼女の瞳は、わずかに涙に濡れているようにさえ見えた。


 


「いや、学校で見た時とは随分違う気がしたから」


「違う……ですか? いや、私はずっとこんな感じで、ずっと陰気で……うう、すいません」


 


 特に意味もなく謝った彼女は、本当に自信がなさそうだった。そんな態度が、嘘みたいに整った顔立ちと全く釣り合っていなかった。


 


「さっき『待ちなさい』とか言ってたのと全然態度違うね。二重人格みたい」


 水面を音もなく疾走し、僕の肩を剛力で掴んできた彼女は、確かに外面のように格好いいイメージを受けたものだが。


 僕の言葉を聞いた彼女は、何か考え事を始めた。沈黙が川辺に流れ、風の音が耳に良く届いた。


「その…………私の話を、聞いてくれませんか」


 


 やがて、彼女は上目遣いにこちらを見て、意を決したように震える唇で言葉を紡いだ。

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