トラブるナースの旅 ORIGIN

白都アロ

第1話飛び出された話(−1)

 広くはない窓に格子の嵌った密室、そして目の前には、喚く大柄と中肉中背の間の若い男。その姿はパンツ一丁。

 そんなのと対峙しているのはボク、可出 寧護(かで ねいご)。一対一。BMIで『やせ』に該当する華奢なボクではあるものの、この程度の事案、よくある話で、普通ならば恐れる事はない。普通なら。

 ・・・どうしたもんか。格闘戦用に身体を構え思案する。


 事の始まりは昼休み。午前の業務、患者の配食下膳を終え、他の看護師介護士は皆休憩に入っていた。しかし、この日、リーダーであったぼくは、入院があり、山のように仕事を抱え、昼休みを取れずにいた。

 まぁ、かといって他のスタッフに仕事を振るのも返って面倒で、他のスタッフには昼休憩を取らせ、ボクだけ業務をこなしていたわけで。

 昼休みに食い込む形で入院してきた男は、その粗暴な言動と精神興奮性からそのまま個室である保護室に入室なさいまして。そんな所にボクは配食をしに来まして。

 通常、マニュアルでは「保護室の患者に対応する際は2人以上の看護師で必ず対応する事」となってはいるが、実際問題職員の人数の少なさ、業務の多忙さからそんなものは形骸化していた為当然ボク一人でランチを持って来たわけでして。

 鍵を開けて、詰所から遠い保護室前室の鍵を開け、ボクは前室に入り、再び鍵をかける。マニュアルに「鍵をかけろ」と書いてあるからだ。万が一保護室から飛び出した患者が他の患者に危害を加えるのを防ぐ為なのだろう。もっとも、そうなると密室で看護師がボコボコにされるリスクがある為、これも守る職員と守らない職員がいるのだが。ボクは真面目だと自負しているので、鍵をかけて広くはない密室を作り出す。

 さて。密室になった所で、「ご飯だよー。」と声をかけ、お盆に乗ったご飯を片手にボクは新入院の患者の個室のドアを開ける。

 すると男が個室から出ようといきなり飛び出してくる。通常ならば「はいはい。」とドアを閉めて話は終わるのだが。ボクの手はランチの乗ったお盆で塞がれており、「これどうしよう。」と逡巡する。

 格闘戦なんてものは、一瞬が勝敗を分けるのだ。患者にお盆ごとランチを投げつける選択肢さえ取っていれば、良かったものの、「ご飯を捨てる」事への躊躇いから、ボクは患者に弾かれ、熱い味噌汁を手に浴び、お盆ごと床にダイブしていくランチの主食副食。

 しまったなー、と思う間もなく、私の体は思考を置いて戦闘体勢。尚も飛び出した患者は暴力的に向かってくる。

 一歩二歩、バックステップで後退するがドン、と背中に当たる壁。殴りかかってくる患者。一瞬右を見るボク。退路はない。諦める時間すらもなく、前を向き、右手でガードを作る。

 重い衝撃。弾ける私の白衣の上に着ていた現場系業務用ブルゾンのボタン。痛みはあるがこんなんで人間は死にやしない。

 一発殴った後、患者は何かを大声で喚いている。おおかた「ここから出せ。」的な事だろう。言葉での対話なんてどうせ無駄だ。可能だとしても私の能力では絶対無理だ。

 やるしかない。やらなければ最悪殺されかねない。

 その時になって、気がつく。

 患者はパンツ一枚しか着衣していない。

 看護師による患者との格闘戦において、打撃技は御法度なので、使用を許されている(?)のは掴み技のみ。幸いなことに掴み技もその後の固め技も、ある程度武道の心得のあるボクの得意技なので大した問題ではないが(殺しにかかってくる相手に丸腰で手加減して制圧しなければならないのは大いに問題だと思うが)。

 こいつ、服を着ていない。そう、掴みどころがないのだ。

 掴みどころのない人ってこんな時に使う言葉だっけ・・・。無駄な思考。患者の髪は短髪。完璧に掴みどころは無い。いや、パンツは掴めるだろうが、掴んだ所でデッドエンドだ。

 ボクは黙ったまま防戦一方を覚悟する。逃げ場はない。叫んだ所で遠い詰所には声は届かないし、救援要請を狙ってるところを悟られては何をされるかわからない。私が逆の立場なら応援要請なんて絶対させない。

 喚くパンツ一丁の男とボク。くんず解れずの格闘戦に持ち込まれたら、99%負けるのは非力で華奢なボクだろう。

 時はゆっくりと流れるが、何分経ったかわからない。それでも仕方ない。

 こう着状態の中、保護室前室前の廊下を鍵束を揺らしながら歩く足音がする。間違いなく職員だ。昼食を食べ、食堂から戻ってきたのだろう。

「すいませーん‼︎」

 ボクは大声をあげる。こう言う時、なんて叫べばいいか、いつだってわからない。

「なーにー。」

 間の抜けた中年男性の声。看護補助の私と同じく華奢なおじさんだ。んー、ハズレ。

「ここ開けないでいいから男の看護師呼んでっ‼︎飛び出し‼︎」

 救援要請ではなく、応援要請。今この現場に華奢が2人になった所で焼け石に水なのだ。

「分かった‼︎おーい‼︎誰か‼︎」

 と、叫びながら食堂に走って戻る看護補助。

 これで王手、観念したのか患者は何も言わず、襲っても来ず、ただ威嚇の戦闘態勢を続ける。

 間も無く来る応援の看護師数名、取り押さえられ鎮静剤の注射を打たれ隔離室に戻される患者。

 

 その後、入院書類の関係でこの患者の父君とやりとりした際、

「息子はどうですか。」

 と、聞かれ。返答に困りつつ、

「先ほど暴れて看護師を殴りましたねー。」

 と、穏やかに返したところ、血相を変える父君。

「殴られた看護師さんは⁉︎」

「まぁ、大丈夫じゃないんですかねー?」

 と適当に答えるボク。

 ふざけた様に聞こえたのか、訝しんだ表情になる父君。面倒くさそうな空気を感じたため、

「ほら。」

 と、袖のボタンが閉まらなくなったブルゾンから、赤く変色した腕を出す。

 絶句する父上の顔が、とても印象的だった。


 この後、ボクは

「苦手なモノある?」

 と、尋ねられた際は、

「裸の男。」

 と、答えるようになった。

 そして、再び裸の男に殺されそうになるのは、ボクがこの病院を数年勤めて辞め、語れない一年を過ごし、旅に出た後の話である。

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