烙印モラトリアム
青頼花
第1話〈劣化遺伝子の少年〉
弧を描き、スマートフォンは落下した。
アスファルトに叩きつけられて粉々になってしまう。
それを拾おうとしていた女は何かに引っ張られ、その身体を引きずられるようにして駆け出す。
「諦めるんだ!」
「で、でも」
「いまはそれどころ、じゃ、ない……!」
若い男は同年齢の女を必死に説得しつつ走った。
カップルである彼らは、早朝の新宿の町を駆け回り、何かから逃げていた。
とにかくどこかに隠れなければならない。
しかし体力は女が限界を迎える。つまづいた彼女が男の手を掴んだまま地面に倒れ込んだ。
足がもつれた男も同様に身体を地に打ち付ける。
「う、うう」
呻く男女に数名の人影が近寄ってきた。
いかつい顔つきの男達が息も切らさず男女を見据えている。
「なあ」
「おいこら」
一人の男が倒れた彼に声をかけるが、返事はない。
ただ恐怖にふるえる目を向ける弱々しい存在に、奇声を発する。
「いいいい~から! 大人しくっやられろ!」
「劣化ども!」
瞬間、動けないはずの彼が彼女をかばうように、その身を呈して守ろうと起きあがった――が、無惨にその手は思い切り踏みつぶされた。
指が曲がる焼けた痛みに悲鳴を上げる事も叶わない。
あまりの光景に彼女は気絶していた。
男達はつまらなそうにその淀んだ目を男女に向けて、リーダーらしい男が顎で示す。
「とりあえず証拠写真はとっとけ」
「はい」
背の小さい男がスマートフォンを取り出し、動かなくなった二人を写真に納めようとそれを翳した時――。
鈍い音を立てて男の手ごとスマートフォンが何かに串刺しになった。
「――ひいっあがあっっ」
声にならない悲鳴を上げて、串刺しになった手の方の手首を掴む。
「お、おまえ、なんだ」
「い、いつのまに」
「邪魔だ。退け」
いつの間にか、少年が男達の間に悠然と立っており、その手には真剣が握られている。その刃先は男の手のひらとスマートフォンを貫いており、未だにその力を緩めようとはしない。
あまりの痛みに白目を剥く男を見つめて、少年はようやく引き抜く。
が、当然血が吹き出した。
「う、わああああ」
「に、にげろ!」
「お」
少年の驚異的な力を目の当たりにした男達は、我先にと逃げ出す。
しばしその行方を目で追っていた少年だったが、やがて倒れ込んでいた男女と手から血を流す男を見比べると、何かを思いついたのかズボンのポケットからスマートフォンを取り出し何者かに連絡を入れる。
「あ、暁か。俺だけど。ああ、頼む。新宿の……」
少年は相手に三人について軽く説明した。
「カップルは手当と保護な、痛めつけた野郎は手当してファングに戻れないようにしてくれ。ああ」
相手が了承の返答をするのを聞くと通話を切る。
少年は面倒そうに「死なれるとやっかいだからな」とつぶやき、男の手の平に頑丈な絆創膏と上からハンカチで止血を施す。
少年はふと町の空を仰ぎ見た。
雲一つない空が広がっている。春の空気が少年の頬を撫でて、鼻腔に人のニオイを運ぶ。
腕を組んだ時、高層ビルに取り付けられた巨大なパネルの映像がCMから切り替わり、若い男性キャスターが神妙な面持ちで『告知』を始めた。
少年はそれを睨めつける。
『これより生活圏制御法の対象者の発表についてご案内致します。今週の土曜日に各家庭に告知を郵送致しますので、お手元に届いた方はご確認をお願い致します。また、認定試験を受けられたい場合は速やかに――』
少年はその声を途中で聞き流し舌打ちを一つする。
5年前、日本はある法律を定めた。
生活圏制御法。増えすぎた人口の制御。対象者は十六歳以上の国民。
劣化遺伝子とされガービッジと認定を受けた人間は、社会的な地位を落とされ、国からの保証を著しく減らされる――事実上、早死にを促す法律である。
周囲の人間達は騒ぎに気づいていたが、関わらないように距離を置く。こんな事でいちいち警察に通報しないのだ。
ガービッジを狩るファング(狩人)と、それを守るプロテクト(防護者)の小競り合いなど、珍しくもない。
大通りに出た所で、出勤途中のサラリーマンやら登校途中の学生の姿が無いことに気づく。
「そういや学校。い、ってて」
大遅刻だ。それは分かってはいたが、特に焦る事もない。偏頭痛に襲われる前に片づいて助かった。スマートフォンを取り出し、頭を押さえつつ大通りを歩いていく。
――頭痛がすると声が聞こえた。
〝お前は要らない〟
〝お前は不要だ〟
声は強い拒絶の意志を示すと自然と聞こえなくなる。
――また、聞こえるようになった。
昔誘拐されて、気がついたら頭痛がするようになって声が聞こえてきた。
まだ十歳くらいの時の話だ。
その声は自分を拒絶し、自ら死ねと執拗に促してきた。
母親は頼りにならず父もいないただの子供には、孤独の檻に閉じこめられたようなものだ。
それでも言うことを聞かなかったのは、快の我の強さによるもの。
快はなかなか消えない痛みにうめきながら歩を進める。
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