朱い記憶とその話

そうざ

Vermillion Memory and Its Story

 これはもう三十年も前、子供の頃の思い出話なので、如何にも鬼の首を取ったように動物保護の観点とかでああだこうだと言わないと約束して欲しい。出来ないのであれば、もう話すつもりはない。

 以上――。




 ――それでは話そう。

 

 実家から徒歩十分程度の場所にスーパーがあった。今のようなチェーン展開している小綺麗なスーパーではなく、昔からある地元密着型の店だった。

 それなりの規模で、野菜や魚介に精肉、調味料や酒類、洗剤等ちょっとした日用品も並んでいたかと思う。不思議と菓子類の記憶はない。そういうのは駄菓子屋の担当だったのか、商売にもっと領分があった時代かも知れない。

 そうなると、子供にとって嬉しい売り場は特に存在しない事になる。こいつは色艶の良い茄子だ、お母さん、今夜は煮浸しが良いね、鰹節も買い忘れないようにしないと、なんて子供は余り見掛けない。

 母の買い物籠の縁に手を掛け、帰ったらアニメの再放送が待っていると我慢して付いて回るだけの、至って退屈な時間に過ぎなかった。

 野菜は緑色、魚介は青色、肉は赤色と、売り場のイメージで遊んでいると、胡麻塩頭の店員が威勢の良い声を張り上げ始めた。

「美味しいのが入荷したよ〜っ、本邦初公開だ〜っ」

 ぱんぱんに膨らんだ腹を包む白い作業着の前面が赤黒く汚れていて、子供心にも不潔そうに感じた。

「ボクちゃん、寄って行きなよっ」

 店員の背後に、赤い円柱型のポストが立っている。いつもはこんな所にこんな物はなかった筈だ。

「……タコさんウィンナー」

 僕は自然と声に出していた。

 円柱は円柱でも天辺は禿頭のようにつるつるで、下は何又なんまたかに分かれている。店員より頭一つ飛び抜けていて、子供からしたらかなり巨大な物体だった。


 ここまで聞いてもう信じられないのならば止める。

 以上――。




 ――続きを話そう。


「可愛いでしょう!」

 腰を屈めて話し掛けて来る店員の黄ばんだ乱杭歯から煙草の臭いがし、僕は思わず鼻を摘んだ。

 母が繁々とタコさんを見て言った。

「これは何? 何かの宣伝?」

「いやいや、売り物だよ、奥さん。じゃ定番らしいよ」

 あっちってどっち、と思いながら僕は彼方此方あちこちからタコさんを見回した。

 肉売り場の照明の加減なのか、赤というよりは朱に近い色合いで、油なのか全体的にテカっている。目はないし、飛び出した口――実際は漏斗という例の奴もない。

 でも、それが寧ろタコさんウィンナーだ。

「あっちじゃ、朝飯も昼飯もこれが皿に並ぶんだってよ。勿論、夕飯にも良いに決まってるよ」

「だけど、こんなにおっきぃのをどうするの? 冷蔵庫に入り切らないし、そもそもお高いんでしょう?」

 店員が、待ってましたその疑問、という笑みを浮かべ、にっと歯を見せた。反射的に鼻を押さえる僕。

「奥さん、デカいの好きかいっ?」

 苦笑いする母を余所に、僕はもうタコさんに釘付けになっていた。

「兎に角っ、試食して貰おうじゃないの!」

 店員はショーケースの上から包丁を取り、タコさんの側面に宛てがった。

「あっちじゃ、毎日こうやって食べる分だけ切り分けて貰うんだってよ」

「あら、そう。丸のまんま買うもんじゃないのね、そうよねぇ」

 笑い合いながら、店員はタコさんの身に包丁をさくりと入れた。

 タコさんが微かに振れ始めた。


 話すのを止めても良いんだけれど――。




 ――では、続きを。


 店員はぐりぐりと包丁を下ろして行く。

 タコさんが反応し続ける。

 ――アァッウ……――

 振動というよりも震えのように見える。呻きのように聴こえる。

 ――ィイィダダダ……アァガガァ~ッ――

 何だか怖くなった僕は目を背けた。

「はい、どうぞ」

 店員が切り取った部分を紙皿に載せて母に差し出した。楊枝も挿してある。

「戴きます」

 母は大口を開け、一口でタコさんの欠片を頬張った。

「どう?」

 ――アァアァ……ウゥゥ――

「おいっしぃ!」

「でしょう!」

 タコさんの傷口から油のような滴がじゅくじゅくと垂れ始め、そのまま煤けた床まで流れ落ちた。

 ――イダァァア……イィ~ッ――

「あんたも一口食べさせて貰いなさいよっ」

 母が目を輝かせて僕に言った。

 僕は何処に焦点を当てて良いのかが判らない。

 店員はもう別の位置に包丁を宛がっている。

「要らないっ! 要らないっ!」

 僕の狂ったような拒否反応に母がきょとんとした。店員も手を止めて目を真ん丸にしている。

「ボクちゃん、遠慮しなくて良いよ。こんなにデッカいんだから幾らでも試食して頂戴な」

 店員が包丁を差し込んだ瞬間、僕は母の陰に身を潜めて目を瞑った。

 ――ヴガァガァア~ッ……イタ~イ~ッ――

「変な子ねぇ、ソーセージは大好物でしょう?」

 いつの間にか僕達の周りに人集ひとだかりが出来ていた。

 皆の表情を、その眉間に寄せた皺を、憐れみと言って良いのか、怖い物見たさと言って良いのか、僕にはよく判らなかった。

 タコさんが震えている。

 ガタガタガタガタ、ガタガタガタガタ、震えている。

 ――ヤメデェェ~ッ……イダイダイィ~ッ――

「はい、ボクちゃん、召し上がれ〜」

 タコさんの全身がさっきよりもテカっているように見えた。二つの傷から垂れた滴が床に溜まっている。

「食べないのぉ? しょうがない子ねぇ」

 母は僕の代わりに二口目を頬張った。

 ほくほく顔の店員、満足顔の母、いつしか惚けたような笑みを浮かべている人集り。

 やっぱり照明の所為なのか、その光景は僕の脳裏に赤く強く忘れ難く焼き付いている。

 ――イタイノヨォ~……――


 もう聞きたくないのならば、ここで止めるよ。




 ――もう直ぐ終わりだけどね。


 あの後、母がタコさんのを購入したのかどうか、少なくとも僕は食べた記憶がない。

 購入品を買い物袋に詰めている間も、肉売り場の人集りは絶えなかった。おぞましい想像が脳裏に浮かび、早く帰ろうと母を急かす事しか出来ない僕だった。アニメの再放送なんてもう頭になかった。

 店を出て行く際、遠くから威勢の良い会話が聞こえて来た。

「来週はうちの売り場の前に置かせてくれよ。客集めに持って来いだからさ!」

 魚売り場の店員が口を尖らせて言った。タコさんなんだから魚売り場にあっても良いんだな、と僕は思った。

「再来週はうちの方に置かせてよね!」

 野菜売り場の店員が口を挟んだ。

 それは違う気がする、と僕は思った。


 ――以上。


 信じてくれなんて言うつもりはない。

 単に僕がタコさんを食べない理由を説明しただけだから――。

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