ゲームオーバー後世界の救世主~RTA走者はソウルライクゲーム風異世界に転移したので無双する~

石田おきひと

第1話『現実からの脱走』

「はいパリィ! 回避! はい余裕余裕! こいつのパターンは、もうね、完全に見切ってますから! あと、もうちょいで日本記録なんで! 頑張ります!」


 視界の隅に表示されている視聴者コメントに返事をしながら、俺は剣を振るう。

 見渡す限りの広大な荒野には、ちょっとしたビルほどもある巨大な剣が何本も突き刺さっている。


 地平線の彼方には、空までもを覆う炎の壁。

 空は錆色にくすんでおり、時折、稲光が走り抜ける。

 それは、見るものに世界の終末を予感させる光景だった。


 そんな場所で、俺はフルダイブ型アクションRPG『アスガルド』のラスボスである『灰燼入滅かいじんにゅうめつ・スルト』と戦っていた。

 公式設定では、身長546センチ。石炭のように真っ黒な肌に、筋骨隆々の体躯。


「オオオオオ――!」


 スルトが咆哮し、右手に携えた大剣『星割りレヴァンテイン』を振り下ろしてくる。

 一人称視点のこのゲームだと、大型トラックが降ってくるような大迫力だ。

 だが、俺は動じることなく、装備している直剣を大剣の側面にヒットさせた。


 すると、パキン! と小気味よい金属音が鳴り響き、スルトの剣が弾かれる。

 これがパリィだ。

 敵の攻撃に合わせ、決められたタイミングで武器をぶつけると、それを無効化することができる。


 のけぞるスルトの足に、俺は間髪入れずに追撃を叩き込んだ。

『燕返し』

 パリィ成功時限定の武技レギン――スタミナを消費して発動できる技の一つだ。

 ただ武器を振るよりも出が早く、後隙も短く、さらに与えるダメージも大きい。


『アスガルド』の戦闘の基本は、この『燕返し』とパリィを繰り返し行うことにある。

 しかし、相手はこのゲームのラスボス。そう一筋縄ではいかない。

 視界の上方に見えているスルトのHPゲージが半分を割ったところで、スルトが再び咆哮した。


 俺はすかさず実況する。


「これ! ここ! ここでね、『無敵飲食バグ』です! いきますよ、まず、しゃがんだ状態で回復薬飲んで、飲み終わる直前で……はいローリング回避!」


 言いながら、俺は回復薬のビンを持ったままゴロンと地面を転がった。

 すると、直後、轟音とともにフィールド全体が爆炎に包まれる。

 『最終戦争・賢者のラグナロク・ワイナミョイネン

  体力が一定値削れるごとにスルトが使ってくる、範囲無限・当たれば即死の大技だ。


 しかも、ガードもパリィも不可能なので、基本的にはマップ上の障害物に隠れてやり過ごすしかない。


 だが、とあるバグを使えば、回避中の無敵時間を大幅に伸ばし、強引にこの技を無効化できる。

 それが『無敵飲食バグ』だ。


 その便利さと引き換えに、入力受付が4フレームしかないタイミングに、ローリング回避を実行するという難度の高い操作を要求される。


 このバグを、RTA《リアルタイムアタック》をしながらという緊張感の中で成功させられるのは、日本でも十人といない。

 俺も、確実に習得するまでは、一週間ほどみっちりと練習を重ねたものだ。


 その後も、俺は的確な攻撃を重ね、難なくスルトを討伐した。

 巨人が崩れ落ちると同時に、俺は視界の隅に表示されたタイマーを確認する。


 タイムは一時間四十二分三十五秒。

 予想を上回る記録に、俺は喜びの声を上げた。


「しゃあ日本記録きたー!」


 それと同時に、配信サイトのコメント欄がわっと盛り上がる。


『すげええええ!』

『おつ!』

『早すぎんだろ!』

『うおおおふみやん最強!』


 ファンたちからの称賛コメントを眺めながら、俺は達成感に浸っていた。

 エンドロールをスキップすると、さっきまでプレイしていたゲームのタイトルロゴが、視界いっぱいに出現する。


『Asgard《アスガルド》』

 アメリカのアース社が開発したフルダイブ型VRアクションゲームだ。

 頭をすっぽりと包み込むようなデバイスを装着することで、プレイヤーは『アスガルド』の世界を、実際に自分の身体を動かすような感覚で、遊ぶことができるようになっている。


 俺は配信者仲間からのコメントに返信した。

「キクラーゲンさんおつありでーす。次のレギュ? 何やろっかな。『初期レギュ』興味あるけどね。確かヴァンデラ瞬殺しゅんころできるんでしょ、あれ? 『強制装備バグ』だかっての使って。ロマンあるよね。ま、デバイスもう一個買うのめんどいからやんないけど」


 俺は、ただ『アスガルド』のプレイ配信をしていたわけではない。

 ――RTA《リアルタイムアタック》。

 ゲームのスタートからクリアまでの時間を計測する競技の一種だ。

 アイテムを取得するルートや、ボスの攻略法を極限まで突き詰め、一分一秒を短縮するために何十時間もの練習を積み重ねるゲーム界のマラソン。


 俺こと『ふみやん』は、この界隈ではちょっと名の知れた配信者なのだ。

 と、ここで小学生っぽい質問コメントが流れた。


 リバイ

『初期レギュってなんですか?』


 たけのこ信者@きのこ死すべし

『ググレカス』


「こらこら喧嘩すんなし。はい、誰かウィキ貼ってー」


 リスナーに指示すると、ファンが俺の代わりに情報サイトのページをスクショしてくれた。

 俺はそこに記された情報をかいつまんで読み上げる。


「えー、初期レギュとは、バグ修正用のアップデートをいっさい適用していないROMで走るRTAのレギュレーションの一つである。

 初期レギュでしか使えないバグもたくさんあるので、そのあたりが人気の秘訣ってわけですねー。

 有名なところでいくと『強制装備バグ』とか。『真血大公しんけつたいこうヴァンデラに『聖銀の十字架』を無理やり装備させて、スリップダメージで倒したりなんかもできまーす」

 

 ジェノサイド幼稚園

『敵の復活地点に武器とか置いとくと、それを勝手に装備させられるやつだよね』

 

「そうそう! けっこう判定が緩めだから成功率も高いらしいね」

 

 スタミナ万太郎

『「蘇生時音声消失バグ」とかもあったよね』


「あったあった。まあ、リスポーンするときに音消えるだけだから実用性とかはないけど」


 こんな調子でファンと交流していると、ぐうと腹の音がなった。

 そろそろ飯でも食うかと考えていると、あるコメントが目についた。

 

 たんぽぽ総長

『ふみやんってニートなん?』

 

 暗黒大明神@35歳独身

『じゃなきゃ平日の真っ昼間から配信なんかできんだろ』

 

 ママ活おじさん

『学校行けクソガキ』

 

 ふみやんとは、俺のベイチューブにおける登録者名のことだ。

 どこの馬の骨とも知れない輩にクソガキ呼ばわりされ、イラッとした俺は、つい言い返してしまう。


「ガキじゃねえよ、とっくに成人してるわ。今は大学休学してるから暇なんだよ」


 もちろん嘘だ。俺は大学なんて行ってない。

 そもそも、高校すらまともに通っていない中卒だが、バカ正直に話す必要はないだろう。

 それらしい言い訳だと思ったのだが、アンチどもは大人しくなるどころか、さらに俺を煽り始めた。

 

 暴れん坊照準@クソエイム

『声だけでガキって分かるわwぜってぇ中学生だろこいつ』

 

 動画投稿ゼロで登録者一億人目指す!

『学校でいじめられてそう』

 

 地獄のニワトリ

『ヒキニートなのは確定だろ』

 

 本能寺が変

『ふみやん引きこもりのクソニートってマジ? 失望しましたチャンネル登録解除します元々してないけど』

 

 言いたい放題のアンチに怒りを堪えていた俺だったが。

 

 ネゴトワ・ネティーエ

『親のスネかじって走るRTAは楽しいか? ママが泣いてるぞヒキニート』

 

 一番言われたくないことを言われた俺は、完全に理性が吹っ飛び、思い切りブチ切れた。


「るっせえなあ! つーかニートだったとして何? 産んだ以上は養うのが親の責任ってもんだろ? 

 だいたいてめえらだって昼間っから人の配信見てアンチコメつけてる人間のクズだろ!? そんな奴らにグチグチ言われる筋合いがどこにあんだよクソが!」


 やってしまった、と気づいたときには、時すでに遅しだった。

 コメント欄は、俺の発狂に大喜びしたアンチたちによって大炎上。

 誹謗中傷が嵐のごとく飛び交い、凄まじい速度で流れていく。

 せっかく記録を出していい気分だったのが台無しだ。


 しかし、こうなった以上は、もう放っておくしかない。

 下手な言い訳は逆効果、謝罪なんてもってのほかだ。

 俺は最後に「見てくださった皆さんありがとうございました!」と捨て台詞を残し、配信を中止してゲームの電源を落とした。


 視界が暗転。電子音が鳴ったあと、リアルの身体が動くようになったので、俺はデバイスを頭から外してため息をついた。

 ほこりっぽい六畳の和室。床には大量のスナック菓子やジュースのゴミが散乱し、足の踏み場もない。


 高校の制服は、ハンガーにもかけず、無造作に部屋の片隅に放り出されていた。

 風呂は週に一度しか入らないせいか、部屋全体に汗とカビの臭いが入り混じった、何とも言えない悪臭が漂っている。


 まさしく、どこに出しても恥ずかしくない、ヒキニートの部屋と言えよう。

 壁にかかった鏡に、俺の冴えない顔が映し出されている。

 身長は男子高校生の平均だが、やや痩せ型。


 毎日、長時間の配信やゲームプレイをしているせいで、目の下にはくっきりと隈ができている。

 俺は自室の扉の前で聞き耳を立て、台所に母親の気配がないことを確認。


 今の時間は仕事に出ているはずだが、万が一ということがある。

 仮に鉢合わせたからといって殴られるわけではないが、やはり気まずいものは気まずい。

 なるべくなら顔を合わせたくはない。


 ギイ、と軋む板張りのドアを開けると、俺は台所の食卓の上に目をやる。

 そこには、ハンバーグとポテトサラダの載ったランチプレート。

 そして、書き置きが置いてあった。

 

『ふみくんへ。

 ふみくんの大好きな「肉の木村」のハンバーグだよ。

 いっぱい食べて早く元気になってね。

 ふみくんはやれば出来る子だって、お母さん信じてるから、もう1回だけ頑張ってみよう?

 今晩は遅くなるから、夕飯は冷食を解凍して食べてね。

お母さんより』

 

「……チッ」


 読んだことを後悔した。

 母親に負担をかけていることは、重々承知の上でニートをしているくせに、罪悪感だけはしっかり覚えるなけなしの良心が鬱陶しかった。


 どうせなら、懇願など屁とも思わないほど開き直れればよかったのに。

 わかっている。俺がすべきことは、ここで改心することだ。

 母親直筆の手紙に胸を打たれ、一念発起して人生をやり直す。


 高校卒業認定をとって奨学金で大学に通うなり、アルバイトでも始めるなり、やるべきことは山ほどある。

 社会復帰――その選択肢が頭をよぎった瞬間、ズキンとストレスで胃が痛んだ。


 俺の人生最悪の暗黒期――中学時代の記憶がフラッシュバックする。

 休み時間中、ラノベを読んでいた俺のところに、クラスのリア充たちがやってくる。

 本が取り上げられ、美少女のイラストが描かれた表紙や口絵を見て、密かに想いを寄せていた女子が「気持ち悪い」と顔を歪める。巻き起こる不快な大爆笑。


 そのあと、俺はラノベの冒頭を一人芝居で再現させられ、さらにそれを動画に撮られた。

 次の日、登校すると学年中から冷やかされ、女子からは悲鳴とともに避けられた。


 机の中には大量のエロ本。捨てに行こうとしたところを教師に見つかった。

 後日母親とともに職員室に呼び出され――もう嫌だ。思い出すな。やめろやめろやめろ!


 俺は何度も壁を拳で殴って――手の甲の擦り傷と鈍い痛みを代償に――心を落ち着ける。

 母親の書き置きを丸めてゴミ箱に捨てようとしたが、それはやめてパーカーのポケットに突っ込んだ。

 さすがに、母親の目につくところに処分するのは気が引けたからだ。


 冷蔵庫の白米と、ハンバーグをレンジで温め、ランチプレートと一緒に部屋に持って入る。

 ちゃぶ台に料理を載せ、一心不乱に料理を口の中に詰め込む。

 時折、喉を潤すために炭酸飲料を流し込んだ。


 栄養補給でしかない、一人きりの虚しい食事を終えると、俺はまた椅子に腰掛け、デバイスを頭にはめた。

 もう、何も考えたくない。現実なんて見たくない。

 ずっと、『アスガルド』の世界に閉じこもっていたい。


 心の底からそう願いながら、俺は『アスガルド』を起動し、NEW GAMEを選択した。

 キャラメイクはすべてデフォルトで決定すると、画面に英語と日本語でメッセージが映し出される。

 

『戦う覚悟はできたか?』

 

『アスガルド』のキャッチコピーでもある有名な文句だ。

 特に深い意味もないその一文が、今はなぜか妙に心に引っかかった。

「ゲームに覚悟もなにもあるかよ」

 そう独り言をつぶやき、俺はゲームを開始した。

 直後、目の前が真っ暗になった。


 ◆ ◆ ◆

 

 視界が明るくなる前に、寄せては返す波の音が聞こえてきた。

 身体はうつ伏せに倒れていて、頬には湿った砂利の感触がある。


 目を開け、身体を起こすと、そこは白い砂と灰色の海が広がる砂浜だった。

 ここは『ナーストレンドの死せる海辺』というエリアだ。


 三種類あるキャラの出身のうち『流人るにん』を選ぶと、この場所からスタートになる。

 無実の罪で捕らえられた主人公が、島流し先へ輸送されている最中、嵐で船が難破。奇跡的に生き残り、海岸に流れ着いた――という設定だ。


 体力・筋力・持久・敏捷・知力・魔力の初期ステータスは全て最低。

 おまけに、一定レベルを超えるまでは伸びも悪いという玄人仕様なので、初心者には絶対におすすめできない出身である。


 しかし、利点もある。流人は他の出身と比べ、少しだけパリィ受付時間が長いのだ。

 よって、RTAにおいて、主人公の出身を流人にするのは定石といっていい。

 砂浜から立ち上がり、無意識に身体についた砂を払い落とそうとして、俺は最初の違和感に気づいた。


 身体に、砂がついている。

 当たり前のことのようだが、『アスガルド』ではありえないことだ。

『アスガルド』はオープンワールド方式の、全てのエリアが地続きになっている箱庭だ。


 とある天才技術者が開発した専用のゲームエンジンが使われており、VRデバイスも去年発売したばかりの第三世代型にしか対応していないハイエンドなゲームである。

 しかし、だからといって、どうでもいいものまでいちいち再現していては、スペックがいくらあっても足りない。


 そのため、土や砂などの非アイテムオブジェクトは、見たテクスチャだけのハリボテで、触っても手についたりはしない。

 水に浸かっても服は黒ずんで光沢を放つだけで、実際に濡れるわけではない。


 だが、俺の服は濡れていて、湿った砂が身体中にこびりついていた。

 俺の知らない間に大型アプデが入って、土や砂がアイテムオブジェクトになりました……なんて話があるわけもない。


 アプデ情報は、常に公式SNSでチェックしているし、第一そんなくだらないアプデをするメリットはない。

 そして、砂のことなんてどうでもいいくらいの、次の違和感に気がついた。


「……なんで、リアルの服着てんだ? 俺」


 流人の初期装備は『流人の首輪』に『麻の襤褸ぼろ』脚は『なし』のはず。

 だというのに、俺の服装はグレーのパーカーにジャージのパンツという、生活感丸出しの部屋着だったのだ。


『アスガルド』の世界観に全くそぐわない。こんな装備を公式が実装するはずがない。


「変なMOD《モッド》でも入れられたか?」


 MODとは、有志によって製作されたゲームの改造プログラムのことだ。

 MODをインストールすれば、キャラの外見を、本来ゲーム内に存在しないものに変更することは可能である。


 やろうと思えば、他人のVRデバイスにコンピュータウィルスを感染させ、勝手にMODを導入させることも、できなくはないだろう。可能性としてはゼロに近いが。 


「何がどうなってんだか……」


 ぼやきながら、俺はステータス画面を開く。

 俺が装備しているのは頭が『なし』胴体が『灰綿の頭巾上衣パーカー』脚は『濃紺の柔軟長履ジャージ』となっている。


 名称まで『アスガルド』っぽくしているとは、やけにこだわりを持ったMOD製作者だ。

 防御力は1で、切断・打撃・魔法のいずれにも耐性はなし。スキルの類も見当たらない。

 各出身キャラの初期装備と同様の性能のようだ。


「ま、録画だけしとくか。動画のネタになるし」


 俺は指の操作でメニュー画面を開き、録画ボタンをタップしようとして、眉をひそめた。

 録画ボタンがない。

 MOD製作者が、証拠つきで通報されるのを嫌って非表示にしたのだろうか。


 だとしたら、相当に手が込んでいる。

 俺は動画撮影を諦め、とりあえずゲームを進行させることにした。

 MODのことについては、またあとで考えよう。

 腰に差してあった流人の初期武器『ひのきの棍棒』を手に取り、海辺の小道沿いに歩き始める。


 すると、すぐに物陰から一匹の小鬼ゴブリンが飛び出してきた。


「ギィー!」


 灰褐色の肌に、飢えた子供のように腹の突き出た体躯。

 RPGでよく見る、典型的な小鬼ゴブリンだ。

 頭の上には、体力ゲージを示す赤いバーと、スタミナゲージを示すオレンジ色のバーが縦に並んでいる。


 これはチュートリアルという名の強制イベントなので、どんなルートで海岸を出ようと、回避することはできない。

 もっとも、クソザコの小鬼ゴブリンなんぞから逃げる理由もないわけだが。


 こちらから小鬼ゴブリンとの距離を詰めると、予想通り小鬼ゴブリンの方から攻撃を仕掛けてきた。


「パリィ」


 振り下ろされた『粗末な石斧』の側面に、横殴りの棍棒を叩きつける。

 その瞬間、キインという金属同士のぶつかったような音がして、小鬼ゴブリンが大きくのけぞった。


 オレンジ色のスタミナゲージがゼロになっているのが分かる。『ブレイク状態』だ。

 がら空きの土手っ腹に、スタミナブレイク時限定で使える武技レギン――スタミナを消費して発動する攻撃スキルの一つ、『臓物潰し《ストマック・ブレイク》』を叩き込むと、小鬼ゴブリンは呆気なく黒い塵と化して消滅した。


 ふう、と一息ついたところで、俺は本日三つ目の違和感を覚える。

 手が痺れているのだ。

 ざっと体重二十キロはありそうな小鬼ゴブリンの攻撃を弾き、胴体をぶん殴ったのだから、それ自体は何らおかしいことではない。


 だが、繰り返すようだがここは『アスガルド』の中だ。

 疲労や痛みなどの、快適なゲーム体験を損なうようなフィードバックはなされないはず。

 不思議に思って、自分の右手を見てみると、手の甲に小さな擦り傷がついていた。


 さっき、壁を殴ったときについたものだ。

 俺は今の戦闘でダメージなど負っていないし、『アスガルド』においてダメージがキャラの外見に反映されることもない。


「……え?」


 だんだん、事態が飲み込めてきた俺は、にわかに心臓が高鳴り始めるのを感じる。

 震える手で、パーカーの右ポケットに手を突っ込んだ。

 かさり、と乾いた音がして、丸めた紙くずのようなものが入っているのが分かった。


 引っ張り出して広げてみると、それは捨てようと思って部屋に持って入った、母親の書き置きだった。


「……マジかよ」


 俺は歓喜に打ち震えながら、一言そう漏らした。

 これまでの状況を客観的に鑑みて、俺は結論を出す。

「俺、『アスガルド』の世界に来たんだ……!」

 手足が羽のように軽くなり、今にも踊り出したい気分だった。


 鬱屈した現実から逃れ、大好きな『アスガルド』の世界に来られたなんて、まるで夢のようだ。


「よっしゃああああ――! 異世界転移無双きたああああ――!」


 俺は空に向かって、全力で咆哮した。

 これから、俺の本当の人生が始まるのだと、心からそう信じて。


◆ ◆ ◆


 読者の皆様へ。

 拙作を手に取っていただき、誠にありがとうございます。

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