第44話 療養生活

「ティナ、おはよう」

「おはようございます」


 ウォルフォード邸で療養生活を始めて三日が経った。もうすっかり元気だというのに、未だにこの部屋から一歩も出してもらえない。


 そればかりか、食事の際は当たり前のように膝に座らせられる。そしてものすごくよい笑顔で給仕される。これに慣れてきている自分が心底恐ろしい。


「今日のサンドイッチは絶品だぞ」

「本当だ。すごく美味しいです」

「だろ? ベーコンとスクランブルエッグのサンドイッチだ」


 差し出されたサンドイッチに齧り付いたティナは、あまりの美味しさにすぐに二口目を口にした。


 黒胡椒がほんのり効いたカリカリベーコンをスクランブルエッグのまろやかな口当たりが包み込む。一緒に挟んである野菜もシャキシャキだ。流石は貴族の家の料理人。


 療養生活という名目なのに、朝昼晩の美味しいご飯の他に、おやつまで出されるという贅沢っぷり。正直居心地が良すぎて困ってる。


 ペロリと朝食を平らげると、ようやくクライヴの膝抱っこから解放される。空の食器をカートに乗せて廊下に出すためだ。クライヴは極力この部屋に人を入れたくないらしい。


「ガゥ!」


 クライヴがドアを開けると同時に、待ってましたと子トラが部屋に入ってくる。一直線にティナの元までやってくると、ぴょんとソファに飛び乗り、そのまま膝の上へとよじ登ってきた。


「おはよう、子トラちゃん」

「ガゥ!」

「今日もふわふわだね。ご飯は食べた?」

「グゥ!」


 鼻と鼻をくっつけて挨拶をする。子トラはこの挨拶が好きみたいで、一日に何度もしてくる。可愛らしくて大歓迎だ。


「おい、少しは遠慮しようと思わないのか」

「ガーゥ」


 戻ってきたクライヴがティナの隣へと腰を下ろす。子トラがいるので再度ティナを抱き上げたりはしなかった。クライヴへ反論するかのように鳴いた子トラは、ティナを独占してご満悦そうだ。


 ヤキモチ妬きで独占欲の強いクライヴだが、意外にも子トラには寛容であった。子トラがティナにべったりでも、無理に引き離そうとはしないのだ。オオカミは家族愛が強いと言われているので、他種族でも幼獣には優しいのかもしれない。


「朝の検診はちゃんと受けてきたのか?」

「…………グゥ」

「逃げるとフィズは嬉々として追いつめてくるからな」

「グゥゥ……」


 喉の奥で唸るように鳴いた声は、とても嫌そうだ。どうやら子トラは検診が苦手らしい。


 ティナと同じく、子トラもこのウォルフォード邸で療養をしている身だ。特務隊の医師であるフィズが、子トラのために毎朝検診に来てくれているそうだ。


 子トラは最初こそ軽い脱水症状で大人しくしていたものの、二日目にはすっかり元気を取り戻していた。与えられた部屋を脱走して、ティナのいる部屋までやってくるほどだ。


「子トラちゃんが元気になって良かったです。流石フィズさんですね」

「フィズ特製の注射を打たれてたからな。医師としての腕はいいんだ、一応……」

「グゥ……」


 何故かクライヴと子トラの表情が曇る。注射が苦手なのは人も動物も共通なのかもしれない。


 大人しくなってしまった子トラの背を、よしよしと撫でてあげる。すると、グリグリ頭を押し付けられた。どうやら、背中ではなく頭の方を撫でて欲しいらしい。


「それにしても、こんなに人に懐くと野生に戻れるかが心配ですね」


 野生動物が人に慣れすぎるのはあまり良くない。体力も回復したのなら、早いところ住処の森に帰してあげた方がいいだろう。


 そう考えていると、クライヴが気まずそうに声を上げた。


「そうか、まだティナには言ってなかったな」

「なんでしょうか?」

「このトラだが……こいつは獣人族だ」

「…………へ?」


 まさかの言葉にティナは一瞬フリーズした。それから、膝の上で寛ぐ子トラへと視線を落とす。「なぁに?」と言わんばかりに見上げてくる子トラが可愛い。


 ではなく、確かに子トラはこちらの言葉を理解している節がある。ただ賢いだけだと思っていたが、獣人族なら納得だ。


「あれ? でも獣人族なら獣化してても話せますよね?」


 そう、獣人族は獣化していても普通に話せる。特務隊には喋るオオカミやキツネがしょっちゅう出没しているのだ。


「三歳前後のようだから話せるとは思うんだが……」

「そんなに幼かったんですね」


 その年で親と離れ離れだなんて不憫過ぎる。一人で捕まっていて、さぞ心細かっただろう。


「トラは警戒心が強いからな。もしかすると、まだ警戒して話さないだけなのかもしれない。いや、でもティナには懐いているな……」


 悩み出したクライヴを見るに、子トラが言葉を話さない理由は不明らしい。ガウとかグゥとか鳴いているので、病気でないことだけは確かだ。


獣化じゅうかしたままなのも警戒しているからでしょうか?」

「いや。子供の時は、獣化も人化じんかも上手く出来ないんだ。単に人化出来ないだけだと思うぞ」


 子トラは自分の事を話されているというのに、のんきにティナの手にじゃれついていた。こう見ると、やはりただのトラにしか見えない。


 気になったティナは、子トラを抱き上げ目線を合わせた。


「ねぇ、子トラちゃんも人化出来るの?」

「グゥ?」

「子トラちゃんがどんな姿か見てみたいな~」

「……」

「子トラちゃんとお喋りもしてみたいな~」

「……グゥ」


 ティナの期待とは裏腹に、耳がへにゃりと伏せられる。ネコ科なのに誰かさんと同じような仕草だ。


「えぇと……「出来ない」と言っている気がするのですが?」

「俺にもそう聞こえる」


 トラ語など分からない。だが、しょんぼりする表情が雄弁に語っている。とりあえず、獣人族であるクライヴが言うなら、この子トラは獣人族で間違いないのだろう。


「ところで、この子の住処は分かるのですか? お父さんお母さんが探しているんじゃ?」

「残念ながら分かっていない。捕縛した奴らの中にこいつを捕まえた奴はいなかったんだ。元々国を跨いで活動する組織だから、まだ仲間がいるんだろう」

「というと、この子の住処は分からずじまいですか」

「ああ。捜索願いも上がっていない。他国から連れて来られたのなら、本人の記憶だけが頼りなんだが……」


 二人揃って子トラへと視線を落とす。子トラは二人の視線に気付くと、小さく首を傾げた。


「……無理そうですね」

「だろ? 隊長はしばらく特務隊で保護するつもりらしい」

「本当ですか! それなら今後も会えますね」

「あー……それでなんだが、ティナに頼みがある」

「はい?」

「しばらく、こいつの親代わりをしてくれないか?」

「えっ……?」


 予期せぬ頼みに瞬きを忘れる。


「親代わりと言っても、仕事中連れて歩く程度でいいんだ。多分ティナから離れたがらないだろうから」


 ほら、と言うようにクライヴの視線が子トラへと注がれる。促されるように子トラを見れば、必死にティナにしがみついていた。置いていかれると聞いて勘違いしたようだ。


「この様子じゃ離れるのは無理だろう?」

「そうですね。無理やり置いていくのは心が痛みます……」

「俺だってティナとは離れたくないんだが……隊長がそろそろ仕事に来いとうるさくてな」


 いや、それは当然だろう。クライヴと子トラでは話が全然違う。特務隊の副隊長がずっと不在では業務が滞る。そもそも、ティナの世話で休む方がおかしい。


「あの、それじゃ私もそろそろ家に帰ってもいいですか? 仕事にも行きたいですし」


 体調はもう既に回復している。クライヴが仕事に行くならティナも仕事に行きたい。ルークやテオにお礼も言えていないし、突然仕事を休んだお詫びもしたい。


 そう思っての発言だったのだが、クライヴから返ってきたのは予想外の言葉であった。


「あっ、ティナはこれから寮で暮らす事になったから」

「グゥ」

「怒るな。もちろんお前も一緒だぞ」

「ガゥ!」


 本人を置いて話を進める二人は息ぴったりだ。ティナが言葉の意味を理解するには、しばしの間が必要であった。


「……………はい?」


 ようやく出た言葉は、ひどく間抜けな声であった。

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