第3話
大司教トミーの住まいは、大神殿の中枢にある階段を下り、無駄に長く明るい地下通路を通って、地上に出た後は樹海を横切った最奥にある。
関係者以外立ち入り禁止の領域だ。現状、教会でも限られた役職のものか、トミーの親族、そしてエルシィの家族以外は入室を許可されていない。
エルシィと腕を組み歩いていたルヴィナは、樹海の入り口で見えない結界に阻まれ、目を丸くした。
「まぁ……邪魔な結界ですこと」
離れてしまったエルシィと、己の両手を交互に眺める。その顔は心底憤慨したと言わんばかりだ。
「ルヴィナ第二王女、ここからは、わたし一人で……」
「“ありし日、追憶の
ルヴィナの足元に、淡い輝きを放つ魔法陣が現れる。楕円がいくつも重なり模様を成す様は、まるで地上から見る月面のようだ。
彼女は月光色の髪を靡かせながら、片手を前に突き出し結界に触れた。
見えないそれに、虹色の
何度か繰り返したルヴィナは、眉を顰め低く唸る。
「……なるほど。確かにわたくしは、そちらには行けないようです」
「す、すみません」
「いいえ! ではお母さま。わたくしたちは待っておりますので、どうぞ、大司教さまと話をつけて来てくださいませ」
そう言って送り出してくれたルヴィナだが、自らの魔法に自信も自負もあった事だろう。
エルシィが進む背後では、激しいぶつかり合いが響き始め、エルシィは密やかに十字を切ったのであった。
さて樹海を横切っていると、目の前に現れるのは簡素な小屋である。
エルシィが古びた木製の扉に手をかけようとした時、室内からとんでもない罵声が弾けて、空気を震わせた。
「クソジジィに似おってからに、金の無心をしてくるなこの【自主規制】──ッ!!」
「ちょ待っ、ちが、ぎゃああっ」
「きゃあっ!?」
内側から凄まじい力で扉が開き、男が一人、飛び出してくる。
彼は顔面からエルシィの胸元に直撃し、その反動で彼女も背中から地面に転がった。
視界が二転三転し目を回したエルシィを、どうやら男が咄嗟に抱きしめてくれたらしい。痛みはありつつも、たいした衝撃はなく、エルシィは自身の頭を片手で押さえながら、薄らと目蓋を開けた。
エルシィの少しばかり人に自慢できる豊満な胸に、顔を埋めていた黒髪の男が、痛みを訴えながら起き上がった。
とんでもない至近距離で見つめあうのは、日焼けした肌に紫の目が映える、巷でもそういない美形である。
エルシィはポカンと口を半開きにした後、自らの状況を思い出して悲鳴を上げた。
「きゃああっ!?」
「うわ、え、女神? 好きすぎない? 結婚しよう」
「しませぇえええんッ!!」
鮮やかな張り手で男の横っ面を叩き飛ばし、エルシィは真っ赤な顔を両手で覆う。
乙女の人生、これほど至近距離で異性と触れ合ったのは初めてである。胸が熱く脈打って、思考が自分の物ではないかのように、あらゆる渦の中に巻き込まれていく。
エルシィの周囲に、複雑な幾何学模様の魔法陣が浮かび上がった。
先ほどルヴィナが見せた物とは、明らかに系統が違う。球体という
張り手で目を回していた男は、ハッと気がつき辺りを見渡した。
「立体魔法陣!? やべぇな、初めてお目にかかるぞ!?」
「こりゃまずい! セオドア、お嬢さんを鎮めよ! お主、木っ端微塵になるぞ!」
エルシィが座り込む地面から、魔法陣を取り囲むように蔓が伸び始める。
次々に蕾を持って大輪を咲かせるのは、天上に住まう神々の献上花、ロータスだ。
桃色から紫色。紫から白へ変わっていく様は、あまりに幻想的で常世と現世の境を見失う。
セオドア、とトミーに呼ばれた青年は、目の前にいるエルシィを抱きしめて、額を合わせつつ瞳を覗き込んだ。
「美しいお嬢さん、俺と少し痛いことをしよう」
「え……?」
「なに、安心してくれ。こんな綺麗なお嬢さんに、怪我はさせない。……俺はセオドア。セオドア・ハープシコード。……君は?」
「……え、エルシィ・サックス」
「サックス! ああ、なるほどな……!」
エルシィの鼓膜には、何十もの布がかかったように、青年の声がおぼろげに聞こえる。彼が何を伝えようとしているのか、まるで思考に入って来なかった。自らの状況も、現在の場所も、何もかもが遠い昔になっていく。
しかしセオドアも理解しているようで、無骨だが暖かな手の平が優しく、少女の頬を撫でた。
「許せよ、お嬢さん。……さっきの張り手は、なかなかだったぞ」
セオドアはオリーブ色の髪をすいて、彼女の
エルシィの視界が赤く点滅し始め、意識が手の中から溢れかけたその時、セオドアが思い切りエルシィの耳に噛みついた。
ぎゅ。
「──っいっだぁあ!?」
バチンと視界が弾け、蕾のようにロータスで埋め尽くされかけていた魔法陣が、木っ端微塵に弾け飛んだ。同時にエルシィを抱えていたセオドアも、背後に吹き飛ばされて室内に逆戻りしていく。
急激に肺が空気を取り込んで咽せ、全身の血液が暴力的に駆け巡る。あまりの気持ちの悪さに、エルシィは地面を転げ回った。
胃の内容物を吐き戻してしまいそうで、必死に回転する視界を、己の意識の内側に引き戻していく。
カラカラ、と。埃と木片が飛び散る小屋の室内は、見るも無惨な状態だ。
タペストリーを突き破り、壁に後頭部を強か打ち付け、セオドアは目を回して倒れ伏す。トミーは呆気にとられた後、ようやく呆れた溜め息を吐き出した。
「乙女の柔肌に噛み付く奴が、一体全体どこにおる。この阿呆が」
悪態をついて少女を助け起こしにやってきた老紳士に、エルシィはいよいよ持って訳が分からず、そのまま意識を手放したのであった。
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