ばか…

あおなゆみ

ばか…

キヨの口癖は、「ばか」だった。


 幼馴染のキヨは目のクリッとした可愛い女の子で、僕の大親友でもあった。

小さい頃は、僕が山に登るのにも、男友達とバスケをするのにも、いつもついて来た。

ついて来るだけじゃなく、例えばバスケなら、試合に参加した。

昆虫採集なら、怖がることもなくクワガタや蝶々を捕まえた。

図書館の似合う見た目とは違い、スポーツは万能だし、活発な少女だった。

 

 僕は自分では分からないけれど、結構ドジだったらしい。

ヘマをすると、キヨが


「ばか!何やってるの」


と母親のように叱ってきた。

口の悪い子じゃないのに、「ばか」という単語だけは使うから、僕には「ばか」という二文字が、漢字でもカタカナでもなく、ひらがなで届く。

なんというか、キツい「馬鹿」ではなく、柔らかめの「ばか」というのだろうか。


 高校一年の春。

キヨと僕の関係に変化が訪れた。


 キヨに彼氏が出来たのだ。

切ない春は初めてだった。

キヨが彼氏と一緒に下校していると、胸が痛かったし、キヨの「ばか」が聞きたくなった。

僕はずっとキヨに恋していたのだと気付く。


 夏。

キヨとは家が近いから、顔を合わせる事もあった。

キヨの態度は普通で、僕だけが変だったのかもしれない。

キヨに対して壁を作っていたのは僕だけだったのかもしれない。

だから僕の態度を見て、キヨも少しずつ僕と距離をとった。


 秋。

僕は、確実にキヨに会わないように、家を出る時も注意深くなった。

それほど、キヨに会うのを避けたかった。

特に、キヨが彼氏と一緒にいる時に遭遇したら最悪だから。

校内ならまだしも、家の近くで一対二で会ってしまったのなら、大袈裟に言わずに僕は泣くかもしれない。

キヨをまだ好きだった。


 冬。

切ない冬も初めてだった。

春夏秋冬と、これまで経験した事のない気持ち。

キヨがそばにいない四季。


 ひどく寒い日。

朝、家を出ると道路が凍っていて、僕は思いきり尻餅をついた。

声は出さなかったけど、痛かったし、なんだか涙が出そうになる。

手をついてしまったせいで、手のひらがヒリヒリする。

気持ち的に辛くて、立ち上がれずにいた。


「大丈夫?」


 声だけでもちろん誰かすぐに分かる。

僕はキヨが近づいてくる事にドキドキしていた。

涙は流れないように堪えた。

僕の前で立ち止まったキヨを見上げる。


「私も家出た時に危なかったから、もしかしてと思って来てみたの」


 僕を心配してくれたってこと?

言葉にはせず、目で問いかける。

 

 座り込んだままの僕の前に、キヨがしゃがむ。

同じ高さで、真っ直ぐに目が合う。

本当に久しぶりだ。


 僕は恥ずかしくなって、立ち上がろうとした。


「うわっ!」


 足が滑り、また尻餅をつく。

キヨは大きな目をさらに大きくして、その一連の流れを見ていた。

 恥ずかしい。

僕は冬空の下、顔も体も熱くなる。

どうしていいか分からず、キヨの方を見た。

 

 そうすると、キヨは笑っていた。

笑ってくれた事で僕も安心し、笑う。

一瞬で昔に戻ったようだった。


そして、キヨが言った。


「もう、ばか・・・」


 久しぶりに言ってくれた。

柔らかい「ばか」

嫌じゃない「ばか」


 僕はキヨが好きだ。

言葉にしたい。

今を逃せば、今の二人に漂う空気を逃せば、もうチャンスはない。


「キヨ」


 名前を呼ぶのも久しぶりだった。


「何?」


 キヨの首に巻かれたマフラーは、きっと彼氏がプレゼントしたものだろう。


「あのさ」


「うん」


 さっきとは違う、張り詰めた空気。


「もう、ばかって言うなよ」


 冗談っぽく、そう言った。

真剣な顔をしていたキヨは笑顔に戻って、


「分かったよ。もう言わない」


と優しく、どこか切なく言った。



 だからその日以来、キヨは僕に「ばか」と言わなくなった。

僕らの距離はどんどん広がり、僕の恋する気持ちや後悔は大きくなる一方だった。

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ばか… あおなゆみ @kouteitakurou

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