第16話 ひいお婆ちゃんの手
俺はひたすら走り続ける。重たい身体はもう要らない。走り続けていられたら,
幸せだ。他には何も要らない。
この世界に連れてきてくれたのは、彼なんだろう。繋がれた手の先にいる彼はこちらに笑みを向けながら、軽々とした足取りで走り続けている。その向こうに、赤い月が見える。
あれ?
月が、近付いている?
俺は空を仰ぎ、不思議な現象を眺める。小さい頃、月を追いかけたことがあった。ぽっかり浮ぶ満月の下や裏側がどんな風になっているのか、見てみたいと思った。
追いついて、追い越したい。そう思って畦道を走った。けれど月は走った分だけ遠ざかっていった。
『お月様はね、ずーっと遠くにいるんだよ。だからね、近くには行けないんだよ』
疲れて立ち止まった俺は悲しくて泣いていた。ひいお婆ちゃんが頭を撫でてくれた。年寄りなのに、頑張って追いかけてくれたんだろうな。荒い息をしていたことを思い出す。
ひいお婆ちゃんはあの後暫くして亡くなった。もう顔もあまり覚えていない。けれど、しわしわの手の感触は、手の平のどこかに残っている気がする。
無性に、ひいお婆ちゃんに会いたくなった。その思いは急激に広がり、涙が溢れそうになった。
『ひいお婆ちゃん』
無意識にそう呟いていた。
彼と繋いでいる手と反対側の手が、じわりと温かくなった。湿っていて、緩んだ皮膚の下に細い骨と血管が浮き上がっている。その手の感触が、右側の手にはっきりと蘇ってきた。
感触を辿り、驚いた。俺の右手は、ひいお婆ちゃんと繋がれていた。真っ白な髪を肩で切りそろえ、白い割烹着を着たひいお婆ちゃんが、俺と手を繋いで走っている。
『走るのは、年寄りには辛いねぇ。立ち止まってくれないかい?』
にっこりと笑ったまま、そう言う。口は動いていないのに、懐かしい声ははっきりと聞こえた。俺は慌てて立ち止まろうとした。しかし、足は止まらない。左の手が、強く握られた。そちらの方を見ると、彼は酷く怒った顔をしていた。
『邪魔だな。あっち行け』
険しい声で、ひいお婆ちゃんに向かって言う。
『仕方が無いねぇ』
ひいお婆ちゃんが呟いた。次の瞬間、お婆ちゃんの手から皺が消えた。手だけではない。顔から皺やたるみが消えて、髪は黒い艶を取り戻した。背筋がしゃんと伸び、力強い足取りで併走する。ひいお婆ちゃんの若い頃の姿は知らない。けれど、隣にいる人はひいお婆ちゃんであって、少し違うような気もした。
ひいお婆ちゃんは若い頃、プロポーションが良かったんだな。走る振動で胸がふかふか揺れている。
『手を離しなさい』
若い女性の声でそう言われ、俺は左手を離そうとした。強い力で握られて痛かったし、一度立ち止まってゆっくりひいお婆ちゃんの顔を見たかった。けれど、手は別の意思を持っているみたいに言うことを聞かない。
『僕たちは、もう離れない』
彼はそう言って、にっこりと微笑んだ。更に強く手を握る。思わず呻き声をあげた。そんな力で握ったら、潰れてしまう。
『ねえ、名前を教えて』
『名前?』
そうだ、ずっと名前を聞かれていた。友達なんだから、名前くらい教えてあげないと。もっと彼と仲良くならなければ。そうしなければ、走り続けていられない。
『教えちゃ駄目よ』
ひいお婆ちゃんが言った。
『名前を教えるという事は、あなたの存在を相手に委ねるという事。そいつに名前を呼ばれたら、あなたはあなたじゃなくなる』
口調がひいお婆ちゃんのものと少し違う気がした。意味がよく分からなくて、首を傾ける。お婆ちゃんは俺に優しい眼差しを向けて、頷く。
『うるさいババアだ! 邪魔だ! 消えろ!』
彼が怒鳴った。真っ黒な目が吊り上がり、口が大きく開かれる。どれもこれも、底が無い真っ暗な洞窟みたいだ。何故こんなにも、怒っているのだろう。不思議に思う。
彼は、何者なのだろう。
ふと浮んだ疑問は腹の奥に落ち、熱を持った。夢がさめる直前、現実と混ざり合うような感覚。今自分は何をしている?ここはどこだ?隣にいる彼は、何者だ?
カラカラに乾いたスポンジが水に落ちて急激に膨らむように、疑問が大きくなっていく。
左手が痛んだ。
彼が鬼のように怒った顔でこちらを睨み付け、手を握っている。
『名前を教えろ』
彼が言う。肉食獣のうなり声のようだ。怖い。
怖い。
立ち止まりたい。怖い。
彼は速度を上げた。左手が強く引っ張られる。しかし、右手を繋いでいるひいお婆ちゃんは足を止めていた。口元に微笑みを浮かべたまま佇み、俺の手を握っている。身体が、右と左に強く引っ張られていく。
このままでは、身体が二つに裂けてしまう。
『思い出しなさい。あんたはもう、走れない。そうだろう?』
微笑んだまま、ひいお婆ちゃんは諭すように言った。今度の声は、耳に馴染みのあるひいお婆ちゃんの声だった。俺は自分の足を見た。右足が、
『足は失ったけれど、大切なものに気付いたろう? それを、思い出してごらん?』
『大切なもの?』
問いかける。ふわりと、コマ割りの中の絵が浮んだ。
自分を支える、新しい夢。でもそれは不確かで、頼りなくて、現実味のないものだ。サッカー選手になるという夢とは全く存在感が違う。今の自分にはそんな、曖昧でささやかな夢しかないのだと、絶望的な気持ちになる。
身体の中心が、ミシミシ音を立て始めた。
『どんな頼りないものでも、生きていくのに夢は必要だ。足を失った時は、絶望しかなかったろう? そのあんたが、ささやかでも夢を見付けることが出来たのは、誰のお陰だろう?』
まん丸な顔が鮮明に頭に浮んだ。
小さな時から傍にいて、いつでも応援してくれていた。漫画家になろうかな。思いつきの冗談を真に受けて、絵の描き方を一から教えてくれたんだ。
『その子の名前を、呼びなさい』
毎日毎日、体調に合わせて食べるものを選んで、学校帰りに届けてくれた。甘口のボンカレーが好きだと覚えていて、食べさせてくれた。
『拓』
俺の、大切な友達。
空間から手がにゅっと突き出てきた。その手が、俺の左手首を掴む。ぽっちゃりとした白い手。拓の手だ。
『帰ってこい!』
拓の声が、胸に直接飛び込んできた。帰りたいと、強く思った。拓と過ごす日常に、帰りたい。大きなものを失ったけれど、別の何かを掴めるんだ。
拓と一緒なら。
俺は繋がれていた手を振りほどき、拓の手を取った。
『どうしてだよ……』
彼はこちらを見つめたまま、走り去っていく。冷たい雫が頬に当たった。彼の涙だと思った。
赤い月が、彼と共に遠ざかっていく。
『私にはあなたを助ける力は無い。でも、一つヒントをあげる。あなたは誰? 何故走っているの? それを思い出せたら、行くべき場所に辿り着けるよ。そこには、あなたを大切に思っていた人たちが、待っているよ』
拓の手が俺を赤い月と反対方向へ引っ張っていく。どこからともなく聞こえた声が誰のものなのかは、分からなかった。
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