むかうのさと

桑鶴七緒

第1話

その夜、僕は知らない名前の冷たい魚を抱いた。


僕のほてりは常に芯から帯びていてアクセラレータをかければいつでも突進できるのに、その魚は色がなく鱗が酷く錆びついてえらで呼吸をするたびに苦しそうに身体を反らす。水槽に浸そうかと自分の指を濡らして秘部を弄りかけてみると、何かを感じたのか僕の身体に手足を絡みついて痙攣を起こしていた。


花嵐はなあらし朱唇しゅしんをまとった魚はこのままベッドで水浸ししていきたいと言い、上体を起こして仰向けになった僕の帯びた熱を咥えながらしばらく息を切らしては荒ぶる身体を揺らしていた。

お互いに情に更けて身体を湿らした後、僕は浴室へ行きシャワーを浴び再びベットの脇に座って背鰭を向けて眠る魚を煙草を吹かしながら見つめていた。


「今日は……ここまでなの?」


魚は目を覚ましてこちらを向いた。


「いくらほしい?」

「五でいいよ」


僕はジャケットのポケットから財布を取り出して万札を出すと魚はシーツを覆いながら、起き上がり札の匂いを嗅いでバックにしまった。その後衣服を着て僕にまた会いたいから連絡すると告げた後、玄関で靴を履き手を振って出ていった。

数時間が経ち気がつくと黎明れいめいの時になって太陽が顔を三分の一ほどのぞかせていた。ベランダの窓の隙間から入ってくる風が冷たく毛布を被っていても身に染みてくるので少し早いがヒーターをつけた。


いつの間にか敷布団が乱雑によれているのを見て誰かと一緒に寝ていたのかと疑い出していた。起床して水を入れたやかんをガスコンロで温めている間スマートフォンに届いていたメールをスクロールして読んでいき、昨夜に食事をした女性から次に会う日程を教えて欲しいと書いてあったが、忘れないうちに返信をしてもいいと思い、沸騰したやかんの音を聞いて火を止めた。


朝食を摂り身支度を整えスーツ一式に着替えて自宅を出た。中央線快速の電車に乗り市ヶ谷駅で降りると駅近くに小学校や大学がある分通学路に学生の波が溢れるように引き立っている。

しばらく歩いていくと麹町駅の手前にあるビルの中の就業先の会計事務所に着いた。出入り口玄関から中に入るとすぐ隣の給湯室に二人の女性社員が朝から賑やかに会話に花を咲かせていた。


「おはようございます」

「おはようございます。今日早くないですか?」

「いつもより早く目が覚めたんで、たまには余裕持って出社しようって来たんだよ」

「尾花さんなんか顔色良くないね。昨日飲んだとか?」

「いや、飲んでいないです」

「棚の中に三橋さん持ってきてくれたデトックスのお茶あるから、あとで試しに飲んでみて」

「じゃあ、あとでいただきます」


僕がこの会社に来てから三年が経ち事務全般の仕事を任せられている。ここの社員たちは人懐こい柄なのか、横柄に人を扱うことをしないように一丸となって社訓を立てているようだ。

所長の父親が創業者ということもあり設立から五十年以上は経っているらしく、クライアントにも親しみがあり長年税理関連の依頼を任せられることがあるので、先月の決算期までは深夜近くまで残業もあったくらいだ。

朝礼後、僕は上司で税理士の箭内やないから声をかけられたので彼の席に行くと、勘定科目書のファイルのチェックを頼まれた。


「尾花さん、今日退勤後時間ある?」

「ええ。どうされました?」

「この間話した四谷の小料理店、付き合ってもらえるかな?」

「あああれか。わかりました。じゃあご一緒させていただきます」

「そこで働いている知り合いの人を紹介する。尾花さんに会わせたいんだ」

「そう……ですか。楽しみにしてますね」


昼休憩をはさみ午後になり外勤から戻ってきた他の税理士が依頼分のクライアントの書類の整理をしていき、試算表に不備がないか確認をしながらパソコンの入力作業が続いていった。

その後退勤時間になり、箭内とともに四谷へ行き駅から近くのところにある小料理店に着いた。


「いらっしゃいませ。箭内さんお待ちしていました」

「先日の書類ですが、全て出来上がりましたので後日送付しますね」

「毎年ありがとうございます。いつも本当に助かっています。あの、ご一緒の方は事務所の?」

「はじめましてこんにちは。尾花と言います」

「この間話した彼だよ。新潟から来た人だって」

「そうでしたか。はじめまして、店主の橘と言います、よろしくお願いします」

「今日入っているメインのものは何ですか?」

「金沢の香箱蟹こうばこがにです。生醤油漬けにしたものです」

「今時期がちょうど良い食べごろですね。じゃあそれを。尾花さん日本酒いけるかい?」

「ええ。いただきます」

「じゃあお任せの日本酒と併せてお願いします」

「かしこまりました」


店内の雰囲気からにして客席は料理店よりは狭い方だが天井の照明が温かさを感じるので和むような空間だ。料理が出てくると早速いただき、蟹の身のコクが引き立ちさっぱりとした卵の甘さも良く純米吟醸の酒に程よく口に合う。

店主と三人で会話をしていると、ある女性の店員が皿を片付けにきて店主が彼女を引き止めるとその人は僕たちに会釈をしてきた。

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