ある絵描きの創作論

長崎

第1話 白と黒、是か非か

 白い紙に黒い描線を引いていく。

 当然だが白い部分は黒くなく、黒い部分は白くない。

 モノクロ画とは白と黒の、画面上の領地の取り合いである。


 まともな育ちを受けてないというのは何かと不都合なもので、私は若い頃、非常識さを露呈しては顰蹙を買うことしばしばだった。

 「これはいけない」ということを、前もって教えて貰える機会が無かったものだから、外の世界に出て粗相をやらかして思い知るしかない。「こんなことも知らないのか」という非難の目を向けられるのは、辛いものだ。

 そんな私は、物事の是非について考え、吟味する時、ひたすら白黒の絵を描いていた。モノクロ画は0か1かの二元論の世界だ。カラー画よりはシンプルな思考で済む。ここにこう線を引けば正しい、こうだと正しくない。その繰り返しだ。

 まっとうな社会生活は正しい選択の積み重ねである。

 私はこの作業を延々と積み重ね、表向きは常識的な社会人として振舞えるようになった(ようだ)。


 描く上で「正しい」と判断する基準は「美しい」と感じる心だ。

 「美」は衣食住と違い、特に意識しなくても生活できるはずだ。しかし無駄なものではない。「美」は人を正しい方向に導く非常に強い力がある。

 美的感覚を磨くことは、正しい生き方を構築することでもあると思う。

 そして「美」はどんな境遇の者でも、平等に愛でたり嗜んだりできる。私は美しいものが昔から好きだ。


 描き上がった白黒の世界は、私が「こう描けば正しい、美しい」と感じた選択の集成だ。仕上がった絵は粗相して落ち込んでいた私を奮起させた。それは「私はちゃんと正しさを選択できる」という証明なのだから。


 イラストの学校で線画の指導をするとき、私は生徒たちにはあくまでオーソドックスなテクニックを教えている。「一番外側の輪郭は太めに」とか、「カケアミ線は細めに」とか。「こうすれば見栄えが良くなる」という、いたって合理的な観点に基づく指導だ。

 しかし私はそのオーソドックスな描き方は特にしない。正しいからって何なんだ。見栄えが良くなるからって何なんだ。正しくなくたって、見栄えが良くなくたって、いいじゃあないか。かつて「社会の正しさ」に苛まれたため、私は不平等な社会に対して未だに少しばかりの反骨心がある。絵くらい自由に描くのだという気持ちで線を引いている。


 私の線画は法則性が無くバラバラなので、真似ができないとよく評される。


線画「背天 -ガルーダとラクシュミ-」

http://agdes.net/gallery/garudasenga.jpg

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