―Joker―

目を開けると俺は、回転ずしのレーンを眺めていた。ここは現代だろうか。店内はお客で賑わい音楽はジャズが流れている。レーンに流れている寿司はどれも新鮮で美味しそうだ。レーンの中に職人さんがいて目の前でサク取りした身を切って握ってくれている。ロークラスのハレの日や、ミドルクラス狙いだろうか。店内は高級感と大衆向けが違和感なく見事に調和していた。テーブルに目をやると箸と醤油皿が置いてあった。あれ、また服が変わっている。俺は薄緑のジャケットに白のスラックス。ハートのシャドウが入ったワイシャツにノーネクタイ。胸元には太陽車輪のネックレス、靴は茶色のローファー。さっきよりは落ち着く。気に入ったかも知れない。ドミナは首もとがレースアップになっている緑のワンピースに茶色の革ベルト。黄土色の薄手のロングベストを羽織っていた。天秤のピアス、天使のネックレス、色とりどりの宝石が散りばめられた腕輪をしてはいるが、さっきよりは地味な恰好で落ち着いた雰囲気だ。ドミナは二人分の緑茶を作るとひとつを俺によこしてきた。ありがとう。指には獅子の指輪が煌めく。俺は、有料の生ワサビを三つ注文する。俺と寿司を一緒に食べると誰しもが仰天する。わさびを大量にのせて食べるからだ。ドミナが、タッチパネルをピッピッとスライドしながら注文をしていく。足元はやはりサンダル。薄茶色のナースシューズのようなサンダル。美人が履けばなんでも絵になる。

「あなた、鯛好きかしら、茶わん蒸しは食べるでしょう?注文しておいたわ。あとはご自分で注文されるかしら?」

タッチパネルを手渡してきた。メニューを見ると一貫から注文でき、寿司以外の一品ものも充実している。一貫から注文できるのは有難い。俺は、ヒラの細造りとカツオのたたき、ウツボの唐揚げ、どんこのフライ、大根おろしの乗った雪見ぶりの握りを注文した。またドミナがタッチパネルをピッピッピッピッと小気味よくタッチしている。神もたまには降って寿司を食べに来たりするものなのか―緑茶を飲みながら先ほどドミナが言っていたことを小宇宙で、逆再生で聴いてみる。

「鯛は日本では、めで鯛って云うのよね。よろこぶ、菜をあげる、そういうのは大変、良い事。するめは験が悪いと敬遠するのではなくあたりめとして良いものに転化する。素晴らしいことだわ。消す力、転化する力っていうのはとても大切なの―」

突如、脳のスクリーンパネルにトランプが現れてカードがシャッフルされる。ドミナが俺に繋がってきた。

「ねえ、お寿司食べながらカードをして遊びましょうよ?ダメかしら?何して遊ぶかしら、ページワン、ポーカー、セブンブリッジ、大富豪、ババ抜き、ジジ抜き、神経衰弱、ぶたのしっぽ、51、なんでもいいわ―」

俺は、なにかよそよそしく周りの目を気にする。

「大丈夫よ、この暇を持て余した神々の遊びに誰も気付くわけないわ。」

そりゃあ、気付くわけない。当然か―

注文した料理がレーンに乗って運ばれてくる。ドミナは、茶わん蒸しと鯛の握り、俺はヒラの細造りにワサビをたっぷりつけて頬張る。うまい。ヒラは焼き物、揚げ物、刺身、酢漬け、煮つけ、どんな調理で食べても美味しい。古くは天皇に献上される程に食味が良いとされているが人気がなく安いのは骨の多さであろうか。こんなに美味しいものを安く食せるのは良い事だ。うまい。茶わん蒸しと鯛の握りは俺の分もある。鯛の握りにワサビをのせて頬張る。うまい。茶わん蒸しには餅が入っている。うまい。銀杏、椎茸、かまぼこ、海老、うまい。

「茶わん蒸し、とても美味しいものなのだけれど、日本人以外では馴染みがない食べ物よね。外国人はプティングだと思って食べて不味いってなるみたいよ―」

逆に、プリンを茶わん蒸しと思って食べても不味い。

さて、トランプは、何をするか―大富豪は、なんかもうしたくない―

「ポーカーにしよう。俺はメシの時はメシ。マルチタスクは嫌いだけど、初めてで面白うそうだから、ドミナに乗るよ。さあ、どんとこい―」ドミナは相変わらず美しい微笑をつくりこちらを見つめてくる。やはり、あなたは美しい。

「オーケー、スートの強さはスペード、ハート、ダイヤ、クラブの順でよいかしら。ジョーカーは無しでしましょう。食べ終わったら一度家に帰るから負けた方が、水汲みと洗濯、掃除。勝った方がお昼寝ね。よろしいかしら?」

「deal」

そういえば、赤ん坊はほったらかしで大丈夫なのか―ひとつ、気にするとふたつ目も気になる。支払いはどうするのだろう?―

ドミナがカードを配ってきた。ちょうど、全部の逆再生を聴き終わった。

ウツボの唐揚げを食べる、うまい。

「大丈夫よ、何も心配いらないわ。人間の物差しで測ってもあまり意味ないことよ。あなたがたは時間に囚われているし“もの”に縛られている。人間は“あるもの”とゆう概念が先にあって、そこから考えたり作ったりするわけだけれども、わたしは全く逆なのよ―」そりゃあ、確かにそうだ。人間が神を心配するなんてどだいおかしな話だ。よし、大船に乗った気分、何も気にしない。目の前の食事とポーカーに集中しよう。とは、言いつつ俺は、さっきのドミナとの会話が気になっていた。俺が、よく人から話を聞いていないと言われるのは、考え事をしてるからだ。気にして無い様を装うが叱られたのは、応えた。自分の優柔不断な態度を恥じていた。

カツオのたたきを食べる。うまい。やっぱりニンニクをきかせて食べるのが、うまい。ビールが飲みたくなってきた。そう思った瞬間、もしくは同時か少し早くにドミナはにっこり微笑んでタッチパネルで注文をしてくれた。

「光の性質をよくよく理解してほしいわ。最初から終わりを知っている。だからこそ最短ルートを知っているし、物質世界に縛られていない。これが理解出来たら、そもそも時間など存在するのかって事を感じて欲しい。考えてはダメよ。迷路から抜け出せなくなるわよ。」

時間とは、厄介な問題だ。刻一刻と刻んでいく絶対的な時間と、同じ時間でも長く感じたり、短く感じる体感的な時間―

「あなたが小説を読むとする。一ページ、一ページ、ハラハラドキドキしながら読む。ここは、こういう意味だろうか、ここは理解できない、こうした方がもっと良かったのではないだろうか。だけれども作り手は、どういう意図か意味かを知っているし、どうしたってはじまりも結末を知っているし決まっている。読み手の特権としてそこに十人十色の解釈があり作り手のそれを上回るものもある。だけれども読み手はどんな悲劇や喜劇も内容も結末も変えることができない―」

確かにあらすじ読んで想像した小説の方が、面白い時があるが、どんな内容も変えられない。

俺の手札はバラバラ、全部総取り替えするかクローバーのキングを手元に残しておこうか。ドミナは二枚取り替えた。

「あなたが映画を見るとする。だけれども作り手は、どういう意図か意味かを知っているし、どうしたってはじまりも結末も知っているし決まっている。鑑賞者の特権としてそこに十人十色の解釈があり作り手のそれを上回るものもある。だけれども鑑賞者はどんな悲劇や喜劇も内容も結末も変えることができない。何が言いたいか分かるかしら?」

確かに予告編見て想像した映画の方が、面白い時があるが、どんな内容も変えられない。運ばれてきたビールでドミナと乾杯する。ドミナもビールを飲む。あー、うまい。どんこのフライにレモンを絞ってタルタルソースをつける。どんこは自分より小さいものなら何でも食べる。イヤなやつだなあ、そして、俺に食べられる。うん、うまい、うまい。


「あなたがゲームをする。ジャンルはRPG、コンシューマーゲームにしましょうか。小説や映画との最大の違いは、プレイヤーにある程度の自由がある。イベントでAを選ぶ、Bを選ぶ、はたまたCを選ぶかはプレイヤーの自由だ。隠しダンジョンなどもある。クリアしてやりこむこともできる。これをソーシャルゲームにしてみましょうか。もっと自由度が広がる。あなたはいまこの感覚に近いのではないかしら?“book”を知るあなたは?」


“book”それを知って自由度が広がったのか?一手の疑問手も許されない予断ならない局面ばかりのような気がするが―大体が、局面が複雑すぎて、どう指せばよいのかさえ分からない。

「どの創作物にもプラス点とマイナス点がある。どれにも共通しているのは臨場感。よき創作物は臨場感を生む。その臨場感はプレイヤーの知識や想像力に帰結する。ノンリニアな時間概念を持ってほしい。それが、時間の本質―」

“ノンリニアな時間概念”ノンリニアとは、非直線―

夢の世界、幻の世界、見つけた幻の大地、正にそれらはノンリニアそのものだ。昨日、今日、明日と時間軸通りに進まない。俺は、幻の大地ではじめ青年であった。そしてピカに会ったのだけれども、俺は幻の世界から抜け出せなくなり天の声に従って出口を見つけた。だが、やっと見つけた出口をこじ開けれないで無益に何年も過ごした。中年になり、そのまま何年も歳月が流れ、老人になった。そして幻の世界のピカも死に、俺はそれを毛皮にして自分の衣とし寝袋とした。幻の世界の出口が閉じる時がきて、魂が先に起き上がるくらいに老いさらばえた俺は這う這うの体で、間一髪でやっと出口の鏡から脱出できた。脱出の瞬間、ピカの毛皮を忘れたことに気づき気力を振り絞り念力でピカの毛皮をたぐい寄せた。毛皮の下にはアカの毛皮があった。アカとはピカの姉妹だ。その瞬間に俺は全てを思い出した。幻の世界の少年時代を―何のことだが分からない。俺も分からない。いや、分かってはいるがうまく説明できない―


「あなた、ワサビをそんなにのせて頭、バカにならないかしら?あら、失礼、もうなってたわね。」

バカって言ったものがバカだって小学生で習うだろ、まったくもう―

美人に言われるバカくらい嬉しいものもない。

ドミナは箸を器用に使いマスノスケの握りと俺の注文したどんこのフライを食べていた。こちらに美味しいのサインを送ってくる。気に入ったようだ。

手札をオープンした。俺はキングのスリーカード。ドミナの手札はフルハウス。

あら、負けた。捨てられたカードを見る。すごい引きの良さだ。ワンペアだけ残してフルハウスにしたのか。10が三枚、クイーンが二枚。強いな。

俺は、気持ちの切換えが早い。水汲み、洗濯、掃除。はい、喜んで―

「やった。わたしの勝ちね。カードは良くできた代物よ。黒が夜。赤が昼。スートそれぞれにも意味がある。スペードは冬、ハートは秋、ダイヤは夏、クラブは春。数札四十枚は民、絵札十二枚は、それぞれにモデルがいてキング(王)クイーン(女王)ジャック(家来)で十二か月を意味し全部のカードで四季を通して一年を表している。それぞれ十三枚は13週、ひとつの季節の期間。13×4で52週。1から13までの数字を足すと91。1つの季節が91日で季節は4つあるので、91×4=364。あら、ひとつ足らないわね?」

「ジョーカー」

「正解。さすがね。プラス1で365。閏年があるからエキストラジョーカーを入れて366―ほうら、よく出来ているでしょう。52週プラス1日で“53”―さらにプラス1日で“54”トランプ54枚の出来上がり。日本ではカードをトランプっていうわよね。トランプとは切り札って意味、ジョーカーのことよ。ジョーカーはタロットカードの愚者がモデル。死を意味するスペードのエースだけ数札で柄がついているのは、昔はこの札だけ政府が刷っていたの。業者はスペードのエースを刷ることは許されず、政府からこの一枚だけは買っていたのよ。闇で製造した者は死刑。まさに死の象徴ね。すべてのものは数から出来ている。面白いでしょう―」

ダンのゲマトリアは、“54”(4+50=54)

“すべては数”“数や形には、パワーがある”“5は重要な数字”“5は、10の半分”―俺は、さっきのドミナとの会話を改めて考えていた。ゲマトリアとは、盲点だった。―

俺は、雪見ぶりにワサビをのせて醤油を少しつけて食べる。うまい。さらにビールで胃に流し込む。うまい。追加注文した鉄火巻は五等分の細巻。五等分が一番うまい。ワサビをきかせた鉄火巻をパクつく。うまい。そして、ビールで胃に流し込む。うん、うまい、最高だ。ドミナも鉄火巻を頬張ってビールをあおる。白ひげが可愛く、それを舌でペロリ掬う。今度、生まれてくる時があるのならばビールの泡になりたい。うん、そうなろう。ドミナがカードを渡してくる。あれ、まだやるのかい。

       

「もう一度、しましょうよ。今度はあなたがシャッフルして配ってちょうだい。わたしが勝てば終わり。あなたが勝てばもう一度。それでおわり。坊や、“グノーシス”は、ご存知かしら?」

“グノーシス”―それらはキリスト教では、異端とされている。

イワシの握りをパクつく。うまい。

「グノーシスとは知識、“知っている”って意味だ。」

キリスト教や仏教にも教えや考えが異なる宗派があるようにグノーシス主義、グノーシス派も様々なものがあって、これがグノーシスだとは、一概に言えない。一般的に同じなのは反宇宙論的二元論で、地上のあらゆるものが“悪”なのは、悪の神が創造した“悪の宇宙”であって“悪”(偽の神)が創造したのだから“善”(真の神)がどこかにいるはずで“善の宇宙”“真の神”それらを認識して求める思想、立場、宗教を云う。

「そう、その通り。それは、一体何を知っているのか、それは、何なのかしら?―シュメールの神々は宝物“メ”を求め、争奪戦を繰り広げる。その宝物こそが“叡知” ―」

「ある日、シュメールの女神イナンナは全てのものを捨てて七つの“メ ”だけを持って冥界に臨む。これが“イナンナの冥界下り”。まず“冥界” これは“異界”や“異邦”の意味もあり、もともとの意味は“山”

また“下る“のシュメール語には“上る”という意味もある。

冥界には七つの門があってイナンナはそこでひとつずつ“メ ”を引き剝がされる。イナンナが全てを捨ててまで欲しかったものは何だったのかしら?聖書には、商人が全財産を投げうって見つけた高価な真珠を買うたとえ話がある。何か似てないかしら?」

天の御国のたとえ話だ―カルト教団は、多額のお布施を信者から盗み取る為に好んでこのたとえ話をする。よし、エースのスリーカードが出来ている。きたきた。よし、エースのフォーカード。これは、さすがに俺の勝ちだろう。

「収穫の働き人が報いを受けるのは、当然よ。だけれど、多額のお布施がいるようなのは宗教でも救いでも何でもないわ。ただのインチキよ。神は、物質的なものは一切要求しない。

グノーシス派は必ずしもキリスト教徒ではなかったけれども、グノーシス派が隆盛を誇った時期があった。 “グノーシス”もこんにちでは無残にも盗っ人のおもちゃになってしまった。盗っ人は教養も高く社交的で親切、それで身なりも良いから、心得なきものはすぐに騙される。坊やもくれぐれも用心しなさい。とは言ってもそれだけ疑い深いのなら大丈夫でしょうけれど―」

いや、騙される時はどんなバカでも猛者でも騙される。盗っ人には、用心に越したことはない。

手札をオープンした。ドミナは、ダイヤのストレートフラッシュ。7、8、9、10、J、―

綺麗だ。俺のエースのフォーカードが負けた。これが本当の神引きというのであろう。フットワークの軽さが俺の強み。水汲み大好きです。ドミナのズロースを洗えるだけで嬉しいです。赤ん坊のおしめもごしごし洗います。掃除は大好きです。片付けをする為に生まれてきたようなものです。

「わたしはズロースなんて履かないわよ。坊やは相変わらず頭の中がお花畑ねえ、そのピンクの絨毯でどこに行こうっていうのかしら?

ねえ、もう一度だけしない?あなたが勝てば勝負はあなたの勝ちでよいわ。わたしが勝てば、わたしの言う事をひとつ、きいてもらう。ダメかしら?トランプのモデルは聖書の人物が多いのよ。ハートのクイーンは気高き未亡人ユディト、スペードのキングはダビデ、これが、ヤコブの妻、ラケルよ―」

スクリーンパネルでダイヤのクイーンがひと際、大きくなる。ラケルと言えばレアとの恋なすび争奪戦だ。大の大人二人が、妻同士、姉妹同士が真剣そのものでなすびを取り合うのだ。俺が人生において出会った手練れの女も茄子が一番だって言っていた。秋茄子は嫁に食わすなって云うのはそういう意味なのであろう。きっとそうだろう。違うか―

いなり寿司にワサビをきかせて食べる。うまい。


  

「わかった。やろう。負けて何を言ってくるのかは、あえて訊かないでおこう。あと、少し教えて欲しいんだ。俺の冒険が、ゲームや今まで見た映画や漫画に似ているのは、なぜなんだい?」


「そうこなくっちゃ。やりましょう。それは、“book”よ。人は、創作や発明など何かに熱中して取り組むと、知らぬ間に“book”にアクセスする。そして、同じものを見る。あなたの住む世界を見てみなさい。創作品や発明品など異なる場所で、異なる人物が同じ時期に、同じものに取り組んでいる事が分かるはずよ。そして、それは人から人へ伝わるの。共振、共感、伝播。風邪というのは、菌の感染ではなく人々の持つそれらの能力で起こるように思考や感情も同じように伝わる。偶然の一致、“シンクロニシティ”というのはごく必然的に起こるものよ。」

カードが配られた。負けたらなにを言ってくるのだろう。ドミナが、日本酒を呑んでいる。うまそうだなあ。俺も注文しよう。


「“神は細部に宿る” って云うでしょう。それは聖書に限らず、あらゆる書物や、映画や漫画などの作品などに神はいるわ。それとも、いないかしら?あらゆる時代のあらゆる絵画やあらゆる書物、それらは時を超えて見るものや読むものに呼びかけ、語りかけてくる。過去だけでなく未来からも。それは、愛―無の愛―無の愛が運ぶ音色―“無愛(ノア)の運ぶ音”もちろんヘブライ語のノアの方舟(ノーアハテヴァー)に、そのような意味は無いわ。だって、これはいまわたしが作った造語ですもの。だけれど、まったくのウソでもないの。思った事、言った事、書いた事、それらが現実を作り出す。想像が世界を創造するのよ。」

想像が世界を創造する―

イカの塩辛を肴に日本酒を嘗める。うまい。


「“盗”とは、“次の皿” “石とは、意志” “無愛の運ぶ音”なんで、こんなに語呂合わせなんだい?言葉遊びが好きなのかい?聖書は、元々ヘブライ語やアラム語、それにギリシャ語だ。日本語とは全く関係がないじゃないか?」ドミナはサーモンのオニオンマヨネーズを頬張っていた。マヨネーズが唇につく。それを舌でペロリ掬う。今度、生まれてくる時があるのならばマヨネーズになろう。うん、そうなろう。

「あら、言葉は元々ひとつではなかったかしら?バベルの塔の時まで人々は、同じ言語を話していたのではなかったかしら?違うかしら?言葉遊びとは、随分な言い草ねえ。まあ、いいわ、赦しましょう。言葉遊びといえば確かにそうだもの―」

バベルの塔―ニムロデ―その意味は“われらは反逆する”世の権力者となった最初の人物。

「人は、今日とゆう日しか生きれない。今日とゆう日の為にすべてが揃いだす。だからあなたは、日本に生まれたの。だから日本語なの。それがあなたの国語でしょう?」話が複雑化した。何が言いたい?―

「例えば、聖書の章や節、これらは後世で作られたものだけれど、その数字がまた後に重要になってくる。誕生日、電話番号、国民年金番号、住んでる番地、クレジットカードナンバー、クレジットカードの請求書、お買い物のレシート、待合番号の整理券、それらって一見、なにの関係もないじゃない?だけれど、それらを通して未来や過去からメッセージを送っているの。」

誰が、誰に?

ドミナは、一枚だけ変えた。手が出来ているのか。また、俺の負けか。


「言葉には、パワーがあるの。第一に、直接的に響く言葉、それは、人を鼓舞したり、あるいは落胆させたりする。第二に、ワインが熟成されて美味しくなるように言葉も年月をかけて意味が分かり本質が見えてくる。つまりワインは作られたその時は、完成していない。アイスクリームとコーンのもっともらしい組み合わせは最初からあったわけではないでしょう?言が言葉になり、言葉も文字とゆう形になる。はじまりとおわりは同時なの。原語や元の意味を調べたりはとても大事、だけれど、元の原語よりも日本語や他の言語に訳されてはじめて分かり、はじめて見えてくるものがあるわ。それは、ちょうどワインが熟成されて美味しくなるように―」

数や形には、パワーがある―

言葉には、パワーがある―

何にでもパワーがあるのか?

「まさしく、その通りなのよ。すべてにパワーがある。数は、すべてよ。どの国、どの言語でも数の本質は、決して変わらない。数とは、“言”なのよ。だから言葉にも同じようにパワーがあるわ。日本では言霊と云うでしょう?」

ワンペアができている。よし、三枚、変えよう。箸休めにガリを食べる。うまい。     「あらゆる生き物が正の電荷と負の電荷のエネルギー波で引き寄せ合うように、すべてのものに正と負がある。それは、光と闇。昼の日差しが影を作るように、夜の暗闇が星明りを見せるように、それは別々ではなく同時に存在する。言霊とは、負の側面では、呪詛なのよ。意味は“忌み”になる。人は、意味あるお話が好きだけれど、それは、“忌み”でもある。何気ない口癖、良かれと思って使っている言葉やしている事、知らずにつけている子供の名、なぜかしら?人は、知らずに “忌み”を好むわ―」

俺は、ついさっきのあることが気になり、それを追って考えていた。バベルの塔、ニムロデ―

ニムロデの誕生日は十二月二十五日の日曜日、それは、バビロニアの大安息日でもある。実はクリスマスはイエスではなく、ニムロデの生誕を祝う日とされる説がある。元々、宗教行事で十二月二十五日を祝うのは、太陽神ミトラの“征服されることなき太陽の誕生日”がはじめと云われる。十二月二十五日とは、冬至を過ぎて太陽が少しずつ勢いを増し始める日であり、古来より多くの民族がこの日を「年の始め」「新生の日」として祝っていた。古代ローマに融合したゲルマン民族にも、冬至に最も近い満月の晩にモミの木を使い、盛大に祝うユール(冬至祭)の風習がある。こんにち十二月二十五日といえばクリスマス、クリスマスといえばイエスの生誕祭だが、元々は関係が無い。キリスト教でクリスマスが取り入れられたのは、古代ローマでキリスト教が国教となったニケーア公会議からであって、そのローマ以前の古代オリエントでは十二月二十五日は、“悪魔の誕生日”とされていた。悪魔とは、バビロンの支配者、ニムロデである。このニムロデのシンボルが“X”「Merry Xmas」の“X”の文字は、Xristos(クリストス:救世主)の略と云われているが、merry Xmas は「Magical or Merriment Communion with Nimrod」とされる説がある。

“X”は反逆者のシンボル―

『 “V”それは、“X”のひとり―” 』

意味は、忌みなのか―      


「 “X” は、ローマ数字の10番目、イングリッシュアルファベッドの24番目の文字―あら?奇遇ねえ、これってあなたの誕生日ではなかったかしら?時を超えて意味が分かってくる。それは、ただの偶然かしら?それは、“忌み”なのかしら?もう一度言うわ、光と闇は同時に存在するの。どんなものにも必ず良い意味と悪い意味がある。だけれども、どんな意味にしようと本質は、決して変わらない。十戒、ノアは、アダムから数えて十代目、消えたイスラエル十支族、“X”とは、とても大切で、重要なのよ。それと、教えてあげる。イエスの降誕の日は、ユリウス暦紀元前6年5月20日木曜日、昇天の日は、ユリウス暦28年4月9日金曜日―」

そして、考え事を一気に中断せざるを得ない事を挟んでくる。

「ちょっと待ってくれ、いまなんて言った?イエスの誕生日?」

「あらあら、そこはすぐに食いついてくるのね。まあこれは、またわたしがいま適当に作った話かも知れないですけれど―」

なんだそれは―

そして俺は、周回遅れでまた違う事を考える。意味は“忌み”―

新しく男ができた彼女が別れ際に言う「あなたもいい人見つけて幸せになってね」は正しく呪詛だ。もう、いい人とか幸せというワードがこの日の不幸をイメージさせてしまう。こんな忌み言葉も中々ない。京都人が、「早く帰れ」を暗に言う「ええ時計してはりまんな」や「うるさい」を遠回しに言う「元気ええどすなあ」も、忌みだ。そういう事だろう。違うか―

俺は、牡丹海老の握りをパクついて赤だしを啜る。うまい。頭の唐揚げを頬張ると日本酒を嘗める。うまい。ドミナは錦糸巻を食べて日本酒を嘗めていた。

手札をオープンする。俺は、5のスリーカード。ドミナは、3と7のツーペア―あれれ?あれ?勝ったぞ。いいのかしら?よし、勝ったぞ。いや違う。やっぱり違う。あー、勝ってしまった。せっかくのドミナの服を洗えるチャンスをふいにしてしまった。相変わらず、俺は馬鹿だなあ―


「あらら、わたしのツキも三回は続かなかったわねえ、いいわ、坊やの勝ち。帰ったらゆっくりお昼寝しててちょうだい。」まあ、勝ったんだ。喜ぼう。なんで勝っても勝ちは勝ち。〆に二人で玉子焼きを食べてほうじ茶を飲む。ああ、美味しい。こんな美人と会食できるなんて俺はラッキーだ。“人あらざるもの”だから美神か。美しい女神。ドミナが紙ナプキンで口元を拭く。今度、生まれてくるときは紙ナプキンになろう。

「さあ、行くわよ、坊や、stand up.」

ユングは何でも性に結び付けるフロイトを快く思っていなかった。快く思っていないどころか明らかに嫌っていた。だが、性から真理を見出したものはそうなるであろうし、カエルから真理を見出したものはカエルによって表現をするだろう。

言葉とは、

“言”と“端”の複合語が語源だと云うが果たしてそうなのだろうか?朝、目覚める時に、“言”がポロッと葉っぱが落ちてくるように俺に、落ちてきた。言葉とは、これか―朝のお告げとは、これかと妙に納得した。

ドミナはバーコード決済で支払いを済ませて、振り向くといたずらっぽく微笑を投げてきた。俺は、見た。ただ手をかざしただけなのを。まあ、いいか。ごちそうさまでした。ドミナとお店の外に出て通りの車を見る。ドミナが急に抱きついてくる。ああ、いい、その感じ。この感じ。通りの車が超高速で動き出す。なにもかも消える。風景がマーブルになり白黒になり光になっていく。嗚呼、世界が回る。目が回る。ひゃっはー


  



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る