拝啓、シュレディンガーのあなたへ
南雲虎之助
拝啓、シュレディンガーのあなたへ
「シュレディンガーの猫って知ってる?」
藪から棒に――いや、もはや丸太なのではないかと思う程、唐突に君はそんな事を言う。
「まぁ、何となくなら」
僕は数学の問題を解きながら簡素な相槌を打つ。
今は動点Pの軌跡を追いかけるので忙しいのだ。
冷房の効いた図書館。
静けさに包まれた知識の迷宮で、囁く様な君の声が伝わる。
「とっても簡単に言うとね、人が観測するまでは箱の中の猫が死んでいる状態と生きている状態が重なり合っている事らしいよ」
自慢気に語られる量子力学の話。
「へぇ」
炭酸の抜けたサイダーよりも腑抜けた僕の返答。
動点Pに追い付くまであと少しという所だ。
猫の生死など今はどうでもいい。
「それでね……」
より一層、声量を抑えた声。
その言葉が妙に感情が籠っていた様な気がして、僕のシャープペンシルは思わず動きを止める。
「今の私は、シュレディンガーの私だよ」
何故か得意げな君。
一体、それはどういう意味だろうか。
文系選択であるにも関わらず、僕は言葉の意図を読み取れない。
さざめく環境音が空白を満たした時。
「問題。私は君を好いているでしょうか、それとも何とも思っていないでしょうか?」
それは今世紀最大の難問。
今となってはもう動点Pの行方などいざ知らず。
ペンは手元を離れ、自由落下。
君と視線が交わった。
深い黒を湛え、理知的な光を帯びた瞳。
しかしながら何処か猫の様な好奇心が見え隠れしていて。
室内は空調で涼しいはずなのに、薄く紅潮している君の頬。
煩い心臓の鼓動が厭に耳に張り付く。
小首を傾げ、口元には悪戯っぽい微笑み。
狡いまでに可愛らしいその仕草。
そんな君の姿が、僕の脳裏に深く刻まれて離れはしない。
ああ、シュレディンガー。
僕はこの箱を開けて見ても良いのだろうか。
拝啓、シュレディンガーのあなたへ 南雲虎之助 @Nagumo_Tora_62
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