第121話 誰かに見られたら大変でした


 いつもより騒がしかった1日の学業を終え、クラスメイト達が帰りの支度を進める中、席に座ったまま窓の外を眺める俺に近づいてきたのは東だった。

 

「おい豊、お前今日チョコなんこ貰った?」

「……6個くらい」

「ひゅー! 凄いな!」


 去年の東であればこのリアクションはあり得なかっただろう。理由は単純、東には彼女が出来たから。雅陽絵という婚約者と再会できていなければ、きっと嫉妬心から般若のような形相で俺に飛び掛かってきたに違いない。

 

「東だって、雅からもらえるじゃないか」

「ま、まぁそうだけどよ……」


 歯切れの悪い返答に違和感を覚える。しかし思い当たる節はあった。


「……まさか、雅の手作りチョコなのか?」

「……」


 東は静かに頷く。雅の料理は常識の遥か先を行っている。先日身を以て体感した俺はそれがどれだけ凄まじいことかを十分に理解しているのだ。


「大丈夫なのか?」

「……あいつが心を込めて作ってくれたんだ! 俺にとってはこの世で一番のチョコレートになるはずさ!」


 顔の前でぐっと拳を握る東の声は震えていた。


「さてと……陽絵が待ってるし、そろそろ行くか。豊はまだ帰らないのか?」

「あぁ……白花と杏が委員会の集まりでな」

「そっか。じゃあまた明日……」


 そう言葉を残して背中を向けて手を振りながら教室を後にする。その姿はまるで死地へ向かう戦士のようだった。


 東……生きて帰って来いよ……。


 教室に1人残った俺は休んでいた分を取り戻すべく、机に教科書を開き、担任から特別に用意してもらった課題を解いていた。

 しばらく没頭していると、静かな教室に控えめにドアが開かれた音が聞こえる。先に委員会を終えたのは杏だった。


「お待たせ」

「委員会お疲れ、白花は?」

「もう少しかかるみたい」


 何気なく杏が俺の向かいの席に座ると、机に開かれた教材と課題を覗き込んだ。


「勉強してたんだ」

「あぁ……遅れた分を取り戻さないとな」


 再び課題にシャーペンを向け、課題の内容を理解しようと問題文を目で追う。再び時計が秒針を刻む音だけが聞こえる2人きりの教室で、再び口を開いたのは杏だった。

 

「ねぇ豊?」

「ん?」

「豊は私からチョコ貰えたら嬉しい?」

「え?」

 

 思いがけない質問に俺は思わず顔を上げる。

 目線の先には頬を赤く染めた杏が鞄から小さな箱を取り出し、俺に差し出した。

 綺麗に梱包された長方形のそれは杏からのバレンタインチョコだ。


「杏……これって……」


 本命チョコか? そう尋ねる前に杏は俺の質問を見透かしたように微笑んだ。


「どうとってくれてもいいよ。はっきりしてるのは……豊は私にとって1番特別な人だから」


 1番特別な人? その一言でこのチョコが持つ意味が余計にわからなくなった。

 彼女がチョコに込めたのは恋心か、それとも幼馴染への日頃からの感謝か……それ以外か。

 杏からのメッセージを探る為、俺はチョコを真剣に見つめた。


「ふふ、相変わらずなんだから」

  

 くすっと笑った杏が席を立つと俺の目の前でくるっと背中を向けると、すぐにスカートがしわにならないように腰を下ろしたのは俺の膝の上だった。


「よいしょ!」

「お、おい杏! こんなとこ誰かに見られたら……」

「いいもん」

「え?」

「べつに見られていいもん」


 杏が俺に体を預ける。美しい黒髪から漂う甘い香りと彼女の温もりが俺の思考力を奪っていく。


「豊……」

「な、なんだよ?」

「そばにいてくれて……ありがと」

「急にどうしたんだよ?」


 またクスッと笑った杏は1度立ち上がり、体をくるっと回転させる。すると、今度は俺の足を跨ぐように座り、両手を俺の首に回した。


「あ、ああ杏!? 本当にどうしたんだよ!?」

「どうしたも何も……私はいつも通りだよ?」

「いやいや! 普段のお前はこんなこと……!」

「うるさいよ、ばか豊」


 慌てふためく俺に杏はぎゅっと抱き着く。高鳴る鼓動はきっと彼女にも届いているだろう。


「ねぇ豊?」

「今度はなんだよ?」

「私ね、誰にも負けるつもりないから」

「……は?」

 

 一体なんのことだ? 誰かと勝負でもしているのか?


 杏の奇行の意図は何1つ理解できなかった。しかし抱き着いたまま俺の胸に顔をうずめながら目を閉じる杏の顔はとても幸せそうに感じた。


「なぁ杏、教えてくれよ。お前は何を……」

「ねぇ豊?」


 俺の質問を遮るように杏が口を開いた。


「私ね、誰にも負けるつもりはないけど正々堂々戦うって決めたの。だから……白花からも、ちゃんとチョコを貰ってあげてね」

「え? 白花も俺にチョコを用意してくれたのか?」

「当たり前でしょ? 普段あんなに豊に夢中なあの子が用意しない訳ないでしょ」


 それはまぁ……確かに。


 杏の言う通り、白花は事あるごとに俺に好意を伝えて来る。以前はその好意も家族に向ける類と大差ないものと思っていたが、ここ最近は彼女から向けられる好意は俺を異性として意識しているようにしか思えない。


 もしそうだとしたら……いずれその思いにも応えなければならない日が来るのだろうか……?


「白花、きっと自分からチョコ渡せないと思うから……お願いね」

「な、なんでだよ? あいつに限って恥ずかしいから渡せないとかは無いだろ?」

「そういうことじゃないの。とにかくお願いね……じゃあこの話はおしまい。あとは白花が来るまで、私だけを感じてて」


 そう言って杏は更に俺を強く抱きしめる。

 

 教室には時計が秒針を刻む音しか聞こえないというのに高鳴る心臓が静寂を忘れさせる。

 外は氷点下だというのに、俺の体は自分でも信じられない程に火照っていた。

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