第83話 恐ろしい笑顔でした


 豊としばしの別れを告げ、恵花市に帰ってきた私は自宅の扉を静かに開く。そっと玄関に入っては扉が音を立てぬ様、最後までドアノブを離さず極力静かに閉めると耳元でない限り聞こえないレベルの小さな声で帰りを知らせた。


「た、ただいまぁ……」


 源さんはまだ出張中、もしいるとしたら昨日両親が再び仕事で北海道を発ち、1人で過ごしているであろう杏だが、どうやら家に誰かいる気配は無い。

 そうわかると安堵からほっと息を吐く。今彼女とは顔を合わせづらい。何も言わずに豊に会う為、遠く離れた釧路へ行ってしまった事を彼女は怒っている。 


 杏が怒ったらそれはもう怖い。

 以前、本気で怒られた時は恐ろしさのあまり危うく、ちびるかと思うくらいに。

 遅かれ早かれ杏とは顔を合わせるし、怒られる事には変わらないのだけれど心の準備が出来ているとの出来ていないのではかなり違う。

 だから気配が無いからといって油断してはならない。警戒を解くのは目視で家中を確認してからだ。


 そーっと……そーっと……。


 息を殺して、忍足で廊下を歩く。時折、床が軋んで私の帰りを家中に知らせる度に鼓動が高まる。そしていつもよりも何倍も時間をかけてようやくリビングに前に辿り着いては室内を覗く……人影は見えない。


「……リビング、クリア」


 第1関門のリビングにも人の気配は無い。

 ここにいないとしたら可能性が残っているのは私の部屋か豊の部屋の2択だろう。

 

 次の偵察の為にリビングに背を向けて2階へ繋がる階段の方へ振り向く。

 

 しかし私の目の前に階段は映らなかった。

 その代わりに私の目に映ったのは数センチの距離に見慣れた顔。


 透き通った肌に綺麗な黒髪、そして私が出会った人々の中で1番美しい女性——間違い無く杏だった。


「ぴゃあああぁぁぁ!」

 

 悲鳴をあげて尻もちをつく。腰が抜けて立てない私を見下ろす杏のにっこり笑顔に恐怖が増す。


「おかえり……どうしたのかな? そんなお化けでも見た様なリアクションをして」


 お化けならどれほど良かったかと内心思ったがそんな事を口にしたらそれこそ私の人生最後の時になるかもしれない。


「あ、あああ杏! たったただいま! いるならいるって言って欲しかったなぁ……」

「あら、それはごめんなさいね」


 笑顔崩さない杏の言葉は表情とは真逆。彼女が一言発するたびに、まるで冷蔵庫を開いた時に流れ出る冷気ようの様なものを感じる。


 これはまずい……なんとかしないと……。


「杏……あのね! お土産買ってきたの! 一緒に食べよ! ……ね?」

「……ありがとう。でもね白花?」

「ひゃい!」

「お土産を食べる前にちょーっとだけ聞きたい事があるの。大丈夫、すぐ終わるから……ちょーっとだけ話をしましょうか?」

「ひ、ひいぃぃぃぃ!」


 しかし杏は嘘をついた。

 すぐ終わるって言ってたのに彼女の説教おはなしから解放されたのは2時間後の事だった。


「……あらもうこんな時間。そろそろ晩御飯の支度しよっか!」


 説教が終わり、いつもの雰囲気に戻った杏がキッチンに向かうと、髪を後ろで束ね始めた。


「白花ー! 今日は何食べるー?」

「ま、待って杏……足が痺れて……立てない!」


 2時間以上も正座の姿勢が続いた私は足から根っこが生えたようにその場から動く事ができなかった。


「もう……ほら、手伝ってあげるから手を貸して」

「ありがとう……」


 見かねてキッチンから戻ってきた杏から差し伸べれた手を私は掴む。すると、杏はすぐに私を立ち上がらせようとはせずに掴んだ私の手のあたりをじっと見ていた。


「……杏?」

「白花……その手首についているのって……」


 杏が注目していたのは私の手首につけられたブレスレットだった。


「あっこれね、豊が『文化祭の時の約束をまだ果たせてなかったから』って、プレゼントしてくれたの!」

「……豊が?」

「うん! 可愛いでしょ!」


 このブレスレットは大好きな豊がプレゼントしてくれた私の宝物。正直な所、会う人皆に自慢したいくらい気に入っている。

 そんな私の宝物をまじまじと見る杏。

 すると、事態は思わぬ方向に傾いた。突然杏は先程の様に、それはそれは不気味な笑顔を浮かべたのだ。


「あ、杏……? どうしたの……?」

「ん? なにか?」


 杏の反応からどうやら再び彼女の機嫌を損ねる事をしてしまったらしいが、今回ばかりは身に覚えがない。


「わ、私、また何かやらかした?」

「うーん、とんでもない大罪を犯した事は確かかもね……」


 微笑みながら、不吉な事を言う杏に思わず「ひっ」と声を出すと彼女は私の手を離し、ゆっくりと私の背後に回った。


「あ、杏? どうしたの?」


 足が痺れてその場を動けない私は背後の杏の行動を言葉で探る。


「白花……足辛い?」

「え……う、うん……全然動けない」

「そう……」


 なぜ杏がいきなりそんな事を聞くのか見当もつかなかったが、彼女が人差し指をピンと立て、徐々に私の足裏は近づけると、徐々に嫌な予感がしてきた。


「杏……? まさか……」

「ふふふ」

「ねぇやめよ杏! それはやっちゃいけない事だと思うの!」


 しかし私の必死な言葉も虚しく、杏は指先を足裏に……ツン。


「みゃああぁぁぁぁぁ!」


 ――家中に私の悲鳴が響いた。

 

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