藤宮咲良が死んだわけ

北原小五

第1話

【現在】

 眩しいスポットライトを浴びながら、藍島(あいじま)凜人(りひと)は舞台の上に立っていた。凜人は全国芸術コンクールと銘打たれた表彰状と盾を手にし、カメラの前で微笑んでいた。

「藍島くん、今の気持ちは?」

 全国区の新聞記者だという若い男性が笑いながらこちらに聞いてくる。

「頑張ったせいかが認められて、とても嬉しいです」

 記者はそれをメモすると、今度は一番背の低い小学生の受賞者にインタビューを始めた。カシャカシャとフラッシュを浴び、慣れない撮影をされながらも、凜人は嬉しいとは思えなかった。ただ、藤宮(ふじみや)咲良(さくら)のことをなんとはなしに思い出していた。

 一ヶ月前に死んだ彼女は、初めてできた凛人の恋人だった。



「藤宮咲良が死んだわけ」


              


 

【過去】

 初めて藤宮咲良と出会ったのは高校一年生のときだった。我が校は全員一律に部活動に入らなければならず、それゆえに三年間の生活の一部となる部活選びには皆が慎重だった。

 しかし幼稚園生の頃から絵画教室に通っていた凜人は周りのようにいくつか部活動を見学することもなく、美術部に即決した。部員は上級生四人だけ。同学年の人間はいなかったが、そんなことはどうでもよかった。しかし、部活動を決める最終日、藤宮咲良が入部してきた。ぱっちりした二重に、ポニーテールの髪型。すらりと伸びた手足が精巧な出来の球体人形みたいだった。

「ここが我らのアトリエ」部長が自慢げに説明する。「壁に飾ってあるのは部員の絵だよ。……どうしたの、藤宮さん?」

「この絵が気に入ったんです。こんな絵、私も描いてみたいなって」

 藤宮が褒めた絵は、偶然にも凜人の絵だった。校舎から夕方の風景を描いた、ありきたりな構図の習作だ。気に入られるような要素がどこにあるのかわからないと思ったが、藤宮は描いた張本人が傍にいるとも気づかず、真剣そうに壁に飾られている絵を見ながら、部長に語っていた。

「へえ。そんなに好きなんだ、この絵」

「なんだか寂しそうな夕焼けで……。気に入ったんです」

 その後も、別に凜人は藤宮と仲が良かったわけではない。ただ、部活動で接するうちに藤宮が学年を代表するような優等生であり人気者だということは、普段からあまり空気の読めない凜人にもわかってきた。明るく朗らかで、ユーモアがある。それでいて賢く、運動もできた。欠点という欠点がおおよそ見当たらない完璧人間。それが皆が考える藤宮咲良だった。

 けれどそんなものは彼女の外見でしかないと、後に凜人は知ることとなる。


 ***


 高校一年生の冬頃だった。遠方にある藝大専門の学習塾からの帰り道、凜人は男の怒鳴り声を聞いた。

「何するんじゃ貴様ぁ!」

「ああ!? 誰に口聞いとんじゃ、ワレ!?」

 見ると、男同士が血まみれになりながら喧嘩をしていた。といっても、戦いは一方的で、片方の男がもう片方に馬乗りになってひたすらに殴っていた。

「この女は俺の女じゃ!」

 馬乗りになっていた関西弁の男はようやく相手を殴るのをやめた。命からがらという様子で殴られた男は足を引きずり逃げていく。傍には着物姿の綺麗な中年女性と、黒いパーティードレスを着た若い女がいた。ふとそのドレスの女と目が合った。化粧をしていて、一瞬わからなかったけれど、それは間違いなく藤宮だった。藤宮は驚いた顔をしてから、着物姿の女と男に何事かを言い、すぐにこちらに駆けてきた。

「藍島くん、だよね? 怖いもの見せてごめんね」

 心底申し訳なさそうに、藤宮はそう謝ってきた。どきどきとしながらも、凛人は答える。

「……警察は呼ばない方がいい?」

 藤宮はにこりと笑う。

「当たり前じゃん。あのお客さん、やくざだもん」

 やくざをお客さんと呼ぶこと、着物姿の綺麗な中年女性、パーティードレスの藤宮。それだけ考察の材料が揃えば、さすがの凜人でも判断がついた。

「スナックか何かで働かされてるの?」

 怖々と聞いた凜人を、藤宮は笑い飛ばした。それから小さなクラッチバッグから電子タバコを取り出し口にくわえる。

「スナックって。藍島くん、渋いね。キャバだよ。着物着てる人は私の母親」

「……店の手伝いをしてるってこと?」

 慣れたようにタバコを吹かしながら藤宮は頷く。

「そう。私でも結構稼げるんだよ。もちろん、成人してるって設定だけど」

「…………」

 凜人が返事に困っていると、藤宮は妖しく笑った。

「言ってもいいよ。私がキャバクラで働いてるってこと。タバコもお酒も。好きにしなよ。どうせ、誰かにバレたらゲームオーバーにするつもりだったんだ」

 ヤケになっているわけでもなく、ほんの小さな秘密がばれたくらいの様子で藤宮は肩をすくめた。

「じゃあまた、学校でね」

 それからまた学校にいるときと同じように綺麗にニコっと笑い、こちらに手を振って男と母親のもとに戻っていく。

 凜人の頭は混乱していた。学年一の人気者の優等生の夜の顔。それはとても明るいものとは思えなかった。


 ***


 結局、凛人は誰にも藤宮の秘密を話さなかった。そもそも人間関係が希薄な凛人には秘密を共有したいと思えるような友人もいなかったし、クラスメイトに『実はあの藤宮はキャバクラで男から金を巻き上げている』なんて話したところで誰も信じないのは目に見えていた。もしかしたら藤宮はそれも見越したうえで『好きにしなよ』なんて言ってきたのかもしれない。

 悶々としていると、美術室の戸が開き、藤宮が入ってきた。今日は上級生がまだ来ていないので、自然と二人きりになってしまう。部内で課題になっていた石膏像のスケッチをしながら、藤宮が言った。

「誰にも言わなかったんだね、藍島くん」

「……僕が話しても、誰も信じない」

「ふふっ。そんなのわかんないよ」

「わかるよ……。で、でも」

「でも?」

「タバコはよくないと、思う。体に悪い。お酒も……」

 至極まっとうな意見をしたつもりだが、何が面白いのか、にまにまと藤宮は笑った。

「そうだね~。まあ、私もお酒やタバコが特別好きってわけじゃないけど」

「じゃあ、働くのも好きでやってるわけじゃない?」

 それに対しては、藤宮は首を横に振った。

「働くのは好きだよ。そもそも私は自分が好きなの。お金も好きだし。自分の価値をお金に換えるって案外、楽しいんだよ」

 そうなのだろうか。稼いだことのない凛人にはいまいちピンとこない。

 凛人が難しそうな顔をしていると、急に藤宮が内緒話をするように凛人の耳に手を当てて、囁いた。

「ねえ、私たち付き合おうよ」

「え、はっ? なに!?」

 驚いた凛人は、あやうく木でできた四角い椅子から転がり落ちそうになる。それを見て、藤宮は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべていた。

「私と付き合うと、藍島くんにメリットあるよ。だってほら、私、可愛いでしょ?」

 いったい何が起きているんだ。

 もしかして僕が秘密を知ってしまったから、下出に出てるのか?

 凛人はイエスともノーとも言わなかった。つまりは無言の肯定だった。

「よろしくね、彼氏くん」


 ***


 藝大を第一志望にしたのは父親の母校だったからだ。凛人の父親は絵を描くことで生計を立てている。母親は気晴らしついでにスーパーのパートタイマーをしてはいるが、父親の絵一枚で藍島家の家計は十分に潤っていた。

 そんな家に生まれた幼少の凛人は、父親から指導を受け、めきめきと腕を上げた。中学では地元コンクールの常連になり、絵画教室の先生には『藝大に必ず現役で受かる!』と中学生にして既に太鼓判を押されていた。

 しかし、高校に入ってから、凛人はめっきり絵が描けなくなっていた。半年以上も作品を完成させていない。そんな凛人を見て、厳しい父親は『藝大を諦めろ』と言ってきた。『お前の実力はもう伸びない』とも言われた。

 そんなことはないと思いたかった。思いながらも、そうかもしれないと思った。

「まあまあ、芸術の話はおいておいて、夕食にしましょう。今日は手作りの唐揚げよ」

 けれど母親だけはそんな両者の間に入って、仲を取り持ってくれていた。

「あのね、凛人。大事な話があるの……。聞いてくれる?」

 しかしその母親が、二か月前に癌で倒れた。余命は一年もなく、回復は絶望的だった。母親は抗がん剤による治療を拒否し、今はホスピスで過ごしている。それは凛人も父親も同意したことだった。

「凛人、厳しいことを言ってすまなかったな……。その、なんだ……。母さんの所に行くからってわけじゃないんだが、父さんを許してくれないか?」

「ううん。いいんだよ、父さん」

 母親の前で凛人と父親は仲睦まじく過ごした。母親を心配させたくなかったし、事実、そうして振る舞っているうちに、二人のわだかまりは消えつつあった。

 それと同時に、凛人は絵画の全国コンクールで賞を取りたいと思い始めた。自分がまた絵を描き始め、父親のような芸術家になるべく夢を追いかけている姿を見れば、母親もきっと安心すると思った。


 ***


 藤宮と付き合い始めて三日。クラスの変わり者だった凛人のポジションは、女王様の彼氏になり、扱いも大きく変わった。『藍島くんって、ちょっと変』が、『藍島くんはユニーク』になり、独創性や友達がいないところをクールと捉えられた。だが、凛人はそんな扱いを窮屈に感じていた。

 元来、人付き合いは苦手だし、人と喋るのもあまり好きじゃない。けれど、クラスメイトはマスコミのようにマイクを凛人に向け、言葉を交わし、女王陛下に気に入られようとする。このクラス、学年、学校の誰しもが藤宮咲良に夢中なのだと、凛人は彼女の力を思い知った。

「人と喋るの、しんどくならない?」

 美術室でデッサンをしながら、凛人は藤宮に訊ねた。

「ならないけど?」あっさりと藤宮は答える。「むしろ、人を騙すの好き。快感だね」

「理解に苦しむ……」

「あははっ」

 ふと藤宮のデッサンを見ようと視線をずらしたとき、腕まくりしている彼女の肌が目についた。そこには無理やり強い力で腕を掴まれたような青い痣ができていた。

「それ、大丈夫?」

 藤宮は慌てて袖で痣を隠す。

「気にしないで」

「でも……、平気?」

 そのとき藤宮ははたくような鋭い声で言い返してきた。

「そんな目で見ないで! 可哀想なんて二度と思わないで!」

 怒ってしまったのか、藤宮は画材や道具を片付けて帰っていった。凛人はただ茫然とし、初めて触れた彼女の怒りに驚いていた。


 ***


【現在】

 放課後、凛人は遠回りをして、藤宮が飛び降りたマンションを見上げていた。見ていて何かが変わるわけでもないのに、小一時間はたぶんそうしていた。

「藍島?」

 背後から話しかけてきたのは担任の鷹山(たかやま)だった。三十代半ばの体育教師で、学生時代はラガーマンだったらしく、教師とは思えない筋量をしている。しかしその筋骨隆々とした体も、受け持ち生徒の自殺を受けて、今はしゅんとうなだれて見えた。

「こんにちは、先生」

「……藤宮の家に行くところだったのか?」

「いえ、ただ見ていただけです」

「そうか……」

 話を聞くと、鷹山は藤宮の母親と家で会った帰りらしい。

 藤宮が自殺し、当初世間は自殺の原因をいじめなどの学校の問題だと決めつけていた。しかし何者かがマスコミに漏らしたのか、藤宮の『アルバイト』のことなどの情報が広まると、世間は母親を糾弾した。だが、真相はわからない。なぜなら藤宮は遺書を書かずに飛び降りたのだ。飛び降りの瞬間は監視カメラに映っており、彼女が自殺なのは明らかだが、その理由は推察するしかないと、凛人も警察官に教えてもらっていた。

「どうしてこんな悲しいことになったんだろうな……」

 どこか思いつめたように鷹山が声を詰まらせる。

「わかるかもしれません」凛人は小さく呟いた。「藤宮が死んだわけ」


 ***


【過去】

 凛人の描いた絵が全国コンクールへ出品され、賞を獲った。美術教諭はもちろん校長も、『本校初のことだ!』と喜び、凛人の功績を讃えてくれた。

 凛人は早速そのことをホスピスにいる母親に報告すると、母親は泣いて喜んでくれた。絵が認められたことというより、凛人がまた絵を描いてくれたことが嬉しかったのかもしれない。父親も『藝大は無理だ』なんて、厳しく言い過ぎたと謝ってくれた。いい報告ができてよかったと、凛人はほっと胸をなでおろした。

「私、本当に嬉しいわ。料理ができたら、唐揚げを作ってお祝いできたのに。まあそれは、また今度ね」

 母親の残り時間は、本当にもうあと少しだった。日に日にやつれ、元気がなくなっていく。けれど不思議と母親は幸福そうで、それは薬のせいなのかもしれないけれど、天使とはきっと母親のような姿をしているのだろうと思ったりもした。

「これが藍島くんの絵か」

「さっすが。全国で賞をとるだけのことはあるね」

 翌日、凛人が美術部に行くと、先輩たちが口々に絵を褒めてくれた。凛人は人と喋ることに慣れないながらも、それに答えていた。藤宮も例外ではなく、この絵のここがいいとか、ポイントを指摘しては笑っていた。一通り褒め終わり、あたりに人がいなくなってから、藤宮はやはりいつものようにてらいなく笑って言った。

「本当に素敵な絵。でもこの絵を描いたの、藍島くんじゃないんでしょ?」


 ***


【過去】

 絵を描こうとした。傑作を描こうとした。万人に認められたかった。

 だから凛人は諦めた。自分に見切りをつけたのだ。自分ではどうあっても傑作は描けなかった。次に凛人がとった行動は、絵画教室に通う浪人生に声をかけることだった。凛人は藝大を受験する浪人生を捕まえ、お金と引き換えに絵を描いてもらった。浪人生には不治の病の母親のためだと言った。お金を払ったこともあり、浪人生はその言い訳を信じてくれたのか、その絵をコンクールに出してもいいと言ってくれた。

 癌になった母親のため。

 そんなのは嘘だ。

 凛人はただ認められたかっただけだ。父親に、母親に、学校に、世間に。才能があるのだと思われ、ただチヤホヤとされたかった。

 二人きりの美術室前の廊下に、凛人と藤宮はいた。

「……どうしてわかった?」

 秘密を暴かれ、少なからず凛人の声は震えていた。絵を見ながら、藤宮は薄く微笑んだ。

「わかるよ。藍島くんの絵、私好きだから。大丈夫。私の秘密を黙っててくれたんだから、恩返し。私も黙ってるよ。ただ――」

 その後の藤宮の言葉を聞き、凛人は逡巡した。だが、頷いた。だって、その方がいいと思ってしまったから。

 二人の間の沈黙をかき消すように、凛人のスマホが鳴った。

「もしもし?」

「凛人、母さんの病院に来てくれ。今すぐ」

 父親だった。母親に何かあったのだ。いよいよお迎えが来たのかもしれない。凛人は美術教諭に断り、学校から病院へと向かった。

「母さん!」

「由紀子!」

 病院で母親は息を引き取った。父親と凛人に手を握られながら、安らかに旅立ち、その後、ゆっくりと葬儀屋が来た。

「学校はしばらく休むと、連絡をしておいたから……。父さん、頑張って唐揚げ作るな。母さんみたいにはいかないけどな。ははっ」

 凛人は忌引きで、学校を二週間ほど休んだ。本当は忌引きの期限は一週間なのだが、その間に藤宮がマンションから飛び降りたのだ。学校側の配慮もあり、親しかった凛人はもう一週間の休みを与えられた。

「マンションから飛び降りたと思われる女子高生は――。学校側は記者会見を開き――」

 休み中、凛人は警察からの聞き取りを受けた。高校生で被害者の恋人でもあった凛人を警察は触れたら割れるガラスのように扱った。でも凛人は落ち着いていたし、泣いたりもしなかった。ただ心にぷすりと針で刺されたような痛みがあった。それは間違いなく、藤宮咲良が残していった棘だった。

 警察は学校側でいじめや体罰などの問題はなかったか、また家庭内で暴力や精神的ハラスメントの問題を精査しているようだった。そしてやがて藤宮の『労働』が問題となり、世間の批判は母親に向いていった。

『キャバクラに女子高生!? 自殺の原因は母親か?』

 でも、本当に藤宮が母親を恨んでいたのなら、自分の死がより効果的になるように遺書を遺すはずだった。聡明な彼女がそうしなかったのなら、やはり他に死の理由があると考えるべきだろう。


 ***


【現在】

「本当か!?」藤宮の死因がわかるかもしれないと言った凛人に向かって、鷹山は声を大きくした。「なんでもいい。とにかく話してみてくれないか?」

 そこまで食いつかれると思わず、凛人は少し言うのを躊躇った。

「本当にただの推測なんですけど……。藤宮はバイトが――キャバクラで働くのが嫌だったわけじゃないと思うんです。いや、わからないですけど。でも、死ぬほど嫌、ではなかったと思います。それよりむしろ藤宮は、可哀想に思われたくなかったんです」

「可哀想に思われたくなかった……?」

 凛人は頷く。

「中島敦の『山月記』ってあるじゃないですか。同じですよ。あいつが李徴だった。プライドが高くて他人から哀れみの視線を浴びたくなかった。その上、人気者で賢くて。でも人から見下されたくない気持ちだけはは人一倍にあった。だから誰かに秘密をばらされて、見上げられる藤宮咲良じゃなくなるくらいなら、死のうと思ったんじゃないかな……」

 鷹山は理解できないという風に顔をゆがめた。

「そんな理由で?」

「そんな、笑っちゃうような理由ですよ。でも僕は笑えない。同じですから……。先生、僕の絵、見ましたか?」

 どこか憑き物が落ちたように、いっそ清々しく凛人は訊ねる。

「ああ、見たよ。朝焼けの絵だろ」

「あの絵、僕が描いたんじゃないんです」

「え、なっ。ほんとか!?」

「はい。下書きは全部、絵画教室で知り合った浪人生に頼みました。両親や周りの人に、褒められたかったんです。でも藤宮だけは、あの絵を描いたのが僕じゃないって看破していました。だから最期に美術室で会ったとき、あの絵のことを黙ってるかわりに条件を出されたんです。絵を描くのを辞めろって」

 ――絵を描くのを辞めたら、この秘密、守ってあげるよ。

 あのとき藤宮はそう言った。

 限界だと思った。凛人もとっくに虎になっていた。とっくに、もう絵筆を持つのはただただ苦痛になっていた。

「……やめるのか、絵を描くことも、藝大も?」

 もっと責められるかと思ったが、意外にも優しい口調で鷹山はこちらに聞いてきた。

「やめます。身の丈に合わないプライドに振り回されて、ますます辛くなるのが目に見えてますから」

 栄光に、未練がないわけじゃない。

 けれど、もう十分だと心の中で自分が言った。

 ――なんだか寂しそうな夕焼けで……。気に入ったんです。

 あの絵を褒めてくれた言葉だけで、凛人が絵を描き終えるにはもう十分だった。


 おわり

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藤宮咲良が死んだわけ 北原小五 @AONeKO_09

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