第29話 愉しい想い出

 男が去ってからしばらく立ちすくんでいたが、奥のフロアから盗まれただの当たり屋だと声が聞こえたため、蓮は声のする方角へ足を早めた。

 女性が一人倒れていて、店員が集まっている。

「ここから走っていった男がいたでしょう? その人に鞄を盗られたのよ!」

「すぐに警察を呼びますね。救急車は必要ですか? 立てますか?」

「え、ええ…………」

 胸の辺りがざわめき、そっと押さえる。心臓が全力で階段を駆け上がったときのような状態になっている。初めて大学合否に立ち合ったときにも似ているが、似て非なるものだ。

 やがてやってきた警察官に対し、女性は必死で訴えている。

 一人の警察官がこちらに気づき、近づいてきた。

「一連の流れを見ていました?」

「いえ……その……ただ…………」

 確証はない。ただ、胸がざわついて仕方ないのだ。

「すみません、探しているラーメン屋があるのですが、」

 蓮は何が起こっても、すべてを背負う覚悟を決めた。


 彼──嵯峨順平という男は、クラスの大将気取りの男ではあったが、教師を取り入るのも格段にうまい、というのが蓮の印象だ。いわば世渡り上手なのである。

 学園でも可愛いと評判だった女子に告白し、うまくいったとかなんとか風の噂で聞いたことがある。とにかく注目されたがりの男子だった。

 ちょうど出入り口から一人の男が出てきた。嵯峨純平だ。昔よりも肉付きがよくなり、面影が少しだけしか感じられない。彼もこちらを見て、一瞬固まってしまった。その硬直は、いろんな意味が含まれている。お互い様だった。

「……久しぶりだな。驚いた」

「うん。久しぶり。嵯峨君の家って、こっちに引っ越してきたの?」

「入れよ」

 嵯峨は質問には答えなかった。いろいろあったのだろうと、蓮も深くはつっこまない。

 営業時間にはまだ早かった。ラーメン特有の魚の匂いと、壁には手書きのお品書きが貼られている。流行りのラーメン屋というより、昔ながらのラーメン屋だ。

 嵯峨は椅子に座るよう促した。

「チャーハンでいいか? まだラーメンの準備整ってないんだよ」

「あ、うん……ありがとう」

 嵯峨は慣れた手つきで材料を切っていく。

「お母さんとお父さんと営業してるんだよね?」

 一瞬、材料を切る音が乱れた。

「死んだ」

「……そうだったんだ」

「そっちは? もう社会人だろ」

「いや……まだ大学生」

「ふうん」

 現状を聞きたいわけではない。いわば探り合いだ。何をしにここへきたのか、と向こうは聞きたい。蓮が一番聞きたいのは「今までどこで何をしていたのか」だ。

 醤油の焦げた香りとネギのつんとした香りが食欲を刺激した。あまり腹は空いていなかったが、レンゲが進む。

「すごく美味しい」

「それはよかった」

 目に入ったのが、彼の左手の薬指だ。銀色に光るといえば聞こえはいいが、くすんでいて年季が入っている。長い間、家族を守り続けた証だ。

 ゆっくり食べて時間稼ぎをしたつもりだったが、最後のひと粒すらない。蓮はレンゲを置いてお礼言い、財布を出した。

「金はいい。俺が勝手に作っただけだ」

「……ありがとう」

「宮野」

 蓮は顔を上げた。彼の顔は固まっていて、表情筋がまったく動いていなかった。

「見逃してくれねえか?」

 鈍い色の指輪は、光に当たり眩しく光る。家族を引き合いに出されているようだった。

 彼もまた気づいていた。デパートで女性の鞄を盗んだとき、目撃したのは蓮だということを。

「見逃してくれ」

 もう一度、嵯峨は言う。家族が大切だからこそ、お互いの言い分は譲れないのだ。




「災難だったね」

 警察からの長い長い長い聴取を終え、連はやっと解放された。

 緊張からか喉が渇き、ふたりでファミリーレストランに入った。二杯目のお茶を飲んだところで、ようやく落ち着いた。

「懐かしい学生時代の夢を見たんです。デパートでひったくりを目撃して、まさか同級生だったなんて」

「すごい偶然だ。一つ言えるのは、通報した蓮は正しいし、間違ってないよ。たとえ家族が壊れても蓮のせいじゃない」

「そう言ってもらえると、気持ちが楽になります。通報することに躊躇いはなかったんですが、罪のない家族に対しては罪悪感がありました」

「それも感じる必要はないよ。責任を取るのは嵯峨君だ」

 不幸中の幸いだったのは、鞄を奪われた女性は大きな怪我がなかった点だ。

「中学生の頃はどんな大人になるんだろうって絶望してましたけど、将来は判らないものですね」

「目の件があったから?」

「それが大きかったです。一生包帯を巻いた人生を送るのかもって考えていました。嵯峨君は……僕と違ってつねに光が当たっている人でした。マイホームなんかのCMで使われるような家族を持つタイプだと思ってました」

「具体的だねー」

「どうしてあんなことをしたんだろ……」

「お金が目的なら、困ってたって可能性もあるし。道を外したのなら理由はどうであれよくない。さあ、そろそろ帰ろうか」

 口を開くままに話したおかげか、ずいぶんとすっきりした気がした。

 胃の中の液体がたぷたぷと揺れていて、おかしくてスキップしてみたら、隣にいた薫もなぜかスキップをする。しかも足音はスキップとは思えない。

「なかなか個性的ですね」

「うまい言い回しだ。大人になれば、はっきり言わずに濁した方がいい場面があるからね」

 薫は少し得意げに言う。

「覚えておきまーす」

 駅からの帰り道、公園へ寄った。寂れているが、子供だった蓮にとっては宝が埋まった秘密基地のような気持ちで遊んでいた場所だ。

「あ……そういえば、ここは母親に連れてきてもらったんでした」

「そうなの? おばあちゃんとかおじいちゃんじゃなく?」

「ふたりより、母さんに連れてきてもらってたことが多かった気がします」

 砂場では、子供が母親に手を引かれている。名残惜しそうな姿は過去の自分と重なった。

「母親と遊んだ記憶ってほぼなかったんです。でも僕が忘れていただけなんですね。砂場で汚れた手でも、母さんは嫌がらずに握ってくれました」

「良い想い出もあって安心した」

 ふとよぎったのは、母から預かった手紙だ。恐怖でしかなかったが、昔を思い出したからか中を開けてみたいという気持ちも芽生えた。

「母って偉大ですよね。僕だけじゃないのかな」

「どこの家庭でも、親の存在は大きいよ」

 初めて逆上がりができるようになったとき、褒めてくれたのは母だった。やけに嬉しくて何度も披露した。暖かな想い出だって、ちゃんとあったのだ。

 蓮はベンチから飛び跳ねて、鉄棒を握った。昔よりも低く感じる。一度地面を蹴ってみるが、宙を舞うことはなかった。

「薫さん、できます?」

「これ以上、俺に恥をかかせる気?」

「あははっ」

 帰り際の子供たちが見ていた。

 できるできないを気にしているのか、それとも大人が公園にいて奇妙に感じるのか。

 足首を持ってもらい、蓮は一周して着地した。蓮より薫が手を叩いて笑っている。じんわりと胸が暖かくなる。祭りで買ったりんご飴を家で食べたときと似た感情だ。

「薫さん、だっこしてー」

「はいはい」

「普段と立場が逆ですね」

「こら」

「足上げるの手伝うよ」

「すごい。学校の先生みたい」

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