第16話 心の奥に眠る本音

 かずとは強い人間ではない、と思った。

 頬を伝う涙は、いろいろなものを背負ってきたのだろう。

 蓮は鞄からハンカチを取り出し、彼の頬に当てた。

「ありがとう。ヒロを奪い取ろうとか、そういうのはなかった。アイカとお似合いだったし、どっちも大切な幼なじみだったのは変わりなかったから」

「マサさんはかずと先生の気持ちは知ってたんですか?」

「うん。俺がいつも誰を見てたのか、全部知ってた。知った上で誰にも言わずにそっとしてくれてた。ふたりは高校を卒業して、すぐに結婚。子供ができた。大学は東京だったから、二人とは疎遠になったんだ。妊娠したって聞いて、本当に入る隙がないんだと思ったら、離れるべきだと思ったから、東京で就職も決意した。ヒロの顔を見るとつらくなるし。アイカはミカを生んで、三人は出かけた帰り、交通事故に遭った。ヒロとアイカはそのまま亡くなった」

「亡くなった……?」

「ミカだけは傷一つなく、生還できたんだ。俺は東京で就職を考えてたけど、京都に戻ることを決心した。白状するけど、アイカの子供というよりヒロの忘れ形見と側にいたくてね」

「僕がまだ中学生で入院してたとき、先生は京都に戻ってたんですか?」

「そうだよ。中学生だった蓮君は、俺の子供の頃によく似ていた。目が見えなくなる苦しみも、よく判る」

「先生も経験があるんですか?」

「ヒロとアイカが付き合い始めたとき、目が見えづらくなった。原因は勉強のストレスってことになったけど、あのときはそんなに勉強してなかったんだ。そういう経験もあって、眼科医を目指そうと思った」

「それは知らなかった……」

「蓮君と偶然に会って、偶然とは思えなかった。デートするたびに蓮君からの好意も嬉しくて、今までろくにデートしたことがなかった俺のデートプランにいつも楽しんでくれて。蓮君と会うたび、ヒロのことも思い出さなくなった。人が亡くなると、呪縛のようにずっと心が鎖で縛られる。誰かに解き放ってほしくて仕方なかった。でもミカは俺を求めてる」

「先生は身動きがとれなかったんですね」

「そうだね。アイカのお母さんにも、自分の幸せを考えてほしいって何度も言われてる。彼女はアイカの忘れ形見としてミカの面倒を見てくれるって今の今まで思い込んでたから、驚いたと思う」

「アイカさんのお母さんに、なんて話すんですか?」

「全部話すよ。ミカといたのも、ヒロの忘れ形見だからってことも、本当は男性が好きだってことも。……蓮君の話を聞きたい。マサが京都へ行ってほしいって言ったの?」

「かずと先生がお酒に溺れてるって言ってました。マサさんははっきり言わなかったんですけど、多分マサさん自身じゃどうしようもできなくて、嫌だったでしょうけど僕のところに来たんじゃないかと思います」

「プライドの固まりだからね、あいつは」

「目の下も、けつこうひどいです」

 蓮はそっとかずとに手を伸ばした。黒く痣のようになっている隈を撫でる。

 蓮はかずとに抱きしめられると、ソファーに押し倒された。座っていた箇所に熱がこもっていて、すぐにじんわりと汗が吹き出る。

「ごめん……寝てもいい?」

「この体勢で?」

「うん……よく寝られそう」

 そう言いつつ、すでにかずとは寝息を立て始めてしまっている。

 今まで見た中で子供っぽく、わがままを言いそうな顔だ。本当のかずとを見た気がした。気さくで爽やかで大人びた人だと感じていたが、実際は過去に縛られた弱い大人。愛や居場所を求めている。

 髪を撫でつけると、頭皮がしっとりと濡れていて、よりいっそうかずとの匂いを堪能できた。




 薄暗い闇の中、蓮は目を覚ました。

 どこにいるのかも思い出せず、しばらくタオルケットに潜ったまま考えていると、ドアの開く音がして顔を出した。

「いもむし」

「……いもむしです。可愛がって下さい」

 いもむしごと力いっぱい懐抱された。かずとの甘い匂いが、なぜか今はすっぱい香りがする。

「何の匂いですか、これ……」

「お寿司屋さんいたんだ」

「寿司!」

「好き?」

「大好きです!」

「良かった。夕飯はお寿司にしようと思ってテイクアウトしてきた。あとはみそ汁作ったから食べよう」

「いつ起きたんですか?」

「眠ってから三時間くらいかな? 久しぶりにこんなに眠れたよ」

「それは良かったです。隈も薄くなってます。本当に眠れてなかったんですね」

「蓮君が側にいてくれたから眠れた。いつもすぐに起きてしまうんだ。今日、泊まって行くよね?」

 かずとは蓮の持ってきたボストンバックを見やる。

「かずと先生と一緒にいたいです」

「俺もいたい。ずっと会えなかったから、積もる話もたくさんあるし」

「先生、ちょっと子供みたい」

「そうだね。かなりはしゃいじゃってる。蓮君いるし、お寿司食べられるし」

「最高の日ですね。ちなみに好きなネタはなんですか?」

「いなり寿司」




 翌日、部屋で待っていたかったが、かずとは連も一緒についてきてほしいと言った。

 すでに話はつけていたようで、アイカの家に行っても母親は驚かなかった。

「どうぞ中へ」

 女性は優子と名乗った。蓮を見ないようにし、声が強張っている。

 標準語ではあるが、京都出身なだけあって声の抑揚の訛りが交じっていた。

「るーちゃん?」

「ミカ、昨日ぶり」

「ぶりー。きのうのひと」

 ミカはぬいぐるみを抱えたまま、蓮を指差した。

「こんにちは。昨日の人です」

「これねー、おもちゃ」

「ミカ、後にしなさい。部屋で遊んでて」

「やー! ミカもるーちゃんといる!」

「先生、ミカも一緒に」

 優子はやや迷った様子を見せたが、かずとがなだめると四人分のお茶を持ってテーブルへ置いた。

 優子の座る席の反対へかずとは座り、蓮は隣へ座る。ミカはかずとの横に座りたそうだったが、折れないかずとの様子を見て渋々母親の横に座った。

「何から話そうかねえ……」

 優子は首を振り、眉間を揉みほぐした。

 蓮には現実を受け入れられない、という顔に見えた。

「優子さん、まずは俺から話をさせて下さい」

 かずとは姿勢を正したまま、深く腰を曲げた。

「アイカさんの気持ちを利用していました。本当に、本当に……申し訳ございません。俺は昔から、アイカさんは幼なじみで、ずっと兄弟のように想ってきました。ただ……少しも特別な感情を持ったことはありません」

「……一度も?」

 優子は声が震えながらも、聞き返した。

「はい。一度も」

 かずとはきっぱりと告げる。

「特別に想いを寄せていたのは、ヒロです。アイカさんを含めて、俺は女性を一度も好きになったことはありません。ミカのことは本当に可愛いと思っています。ただそれは、ヒロの血が入っていると思うと愛しくて仕方ないんです」

 かずとは昨日蓮に話したように、言葉を選びながら紡いでいく。

「それで、そちらの方は、恋人?」

「はい」

 心臓が飛び出るほど跳ね上がった。

 恋人になってとも、お互いに気持ちをはっきり伝え合ったわけでもない。それでもかずとは、きっぱりと断言した。

 夢見心地になるような温かな雰囲気ではないが、気持ちの上では誰にも負ける気がしなかった。

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