第13話 新しい世界
痛みがほしいと願った彼は、初めてにしては淫らで、痛みを感じる姿も、下肢を絡める姿も、すべてが愛しくて仕方なかった。
「せんせ……好き…………」
蓮は意識を手放した。返事をしたくても、できなかった。
どちらの体液かも判らないほど、特に下肢は濡れている。
後始末をし、かずとは横になった。火照った肌に触れ、そっと唇を重ねた。
起きると、隣に寝ていたはずの蓮はいなくなっていた。
ベッド脇の棚にはお札が置かれていて、少し多めのホテル代だ。
熱もゴミ箱の残骸も残っているのに、彼は颯爽と消えていった。
いかに彼が本気だったのか痛感した。だからこそ、何も残そうとしなかった。
しばらくベッドで放心のままでいると、ロビーから電話がかかってきた。
何時に彼は出ていったかと尋ねると、一時間以上も前らしい。
寝たふりをして、かずとが眠った後で一人で出たのだ。
虚しく着替えている間も、悲しみが背中に突き刺さる。
彼はいつもこんな思いをしていたのだ。連絡先の交換もせず、家族や暮らしも何も話していない。向こうからすれば、何も知らないのと一緒だ。
「なんてひどい男なんだ……俺は」
謝罪しても彼にはもう届かないし、むしろ謝罪なんて求めていないのかもしれない。
狸寝入りを決めた彼でも、まぶたを閉じる直前に「好き」と言ったのは、本心であると信じたかった。
大学四年生になり、桜吹雪が身体を包んだ。
春は別れの季節でもあり、出会いの季節でもある。一番仲良くなった小泉は卒業し、彼女は教師という道を歩んだ。面倒見のいい彼女なら、きっといい先生になれるだろう。
──お互い、良い出会いをしようね!
がっしりと握手をして、彼女と別れた。
彼女が負った傷も大きいが、卒業式では笑顔だった。思いやりのある先輩と出会え、蓮にとっては宝物だ。
「れんれんって、卒業したらどうすんの?」
「やりたいことはあるけど、いろいろ困ってる」
久しぶりに母親から連絡が来た。大学を入り直して医者を目指さないかという地獄の誘いだった。彼女も病院へ通い、ノイローゼが治ったのかと思いきや相変わらずだった。
母親は家族が医者の家系だというブランドにしがみついている。蓮は早く抜け出したかった。
「時間ないけど、お互い頑張ろうな」
「うん、そうだね」
天文サークルの同僚とは、すっかり打ち解けている。秋になれば忙しくなるので、蓮も紅葉の時期にはほとんど顔を出せなくなるだろう。
「その前に文化祭かあ。喫茶店続いてて別のものをやりたいって思うけど、評判いいからまたやりたいんだよな」
「僕は喫茶店でも全然良いけど。クッキー作ったりするの楽しいし」
小泉たちもいなくなった今、後輩を引き連れて頑張らなければならない立場だ。どちらかというと楽しみよりプレッシャーが大きく、就職も控えているためにのしかかるものも大きい。
蓮は家へ帰ると、庭から音がした。祖父が古くなった鹿威しを新調している。
「おじいちゃん、ただいま。すんごい良い音になったね」
「おー、おかえり。こーんこーんって、良い音だろう? おじいちゃんが作ったんだ」
得意げに言うと、祖父の目尻に皺が寄る。
「うん、とっても素敵だよ。毎日聞くの楽しみなんだ。おじいちゃんか作ってくれたんだし、すごく嬉しい」
「そうかそうか。よかったなあ。中に入って、お茶でも飲もうか」
人の命を救い続けた手は、今は傷と泥だらけになっている。
父も母も祖父も医者だ。祖母は看護の仕事をしていた病院で、祖父と知り合った。二人が言うには昔にしては珍しく恋愛結婚だったらしい。穏やかな二人は誰が見てもお似合いだ。
「おじいちゃんって、医者になるの嫌じゃなかった?」
「人を救う仕事に嫌もないよ。生きることも食べるものも必死だったからなあ。みんなが感謝してくれて、手術した人が長生きしてくれて、こんな嬉しいことはない」
今日のお茶請けは春らしく、桜餅だ。しっかりと二種類用意されているのは、祖父が選べなかったためだろう。和菓子コーナーで唸る祖父の顔が浮かぶ。
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