第4話 溢れる想いは伝えられない

 かずとに腰を抱かれ、蓮は無言のまま近くの公園へやってきた。

「目、どう? 見える?」

「いきなり見えなくなって……僕っ……先生……」

「落ち着いて。側にいるから大丈夫。しっかり息をして、吐いてごらん。薬は何か飲んでる?」

「今日、眼科に行って目薬を……。でもビタミン剤の目薬で、治すものじゃないです」

「鞄開けていい?」

「はい」

 かずとはファスナーを開け、処方せんの袋を取り出した。

「目薬差してあげる。上向いて」

 目の中に数滴の液体が流れてきて、蓮は目を瞑った。

 だがすぐに目を開ける。瞑っている間にかずとがいなくなったりしたらと思うと、目の前が真っ暗になる。

「飲み物買ってくるから待ってて」

 かずとはベンチから立ち上がった。蓮はとっさにかずとの服を掴む。

「ここにいるから」

 一度立ち上がったが、かずとは座り直す。服を掴む手を離せなかった。夢が夢でなくなった瞬間だが、いつ夢に戻ってしまうのか。それは彼がまた自分の前から消えたときだ。

 徐々に視界が広がっていき、街灯の明かりに集る虫も見えるようになった。

 かずとは何も言わなかった。ぼんやりとベンチに腰掛け、遠くを眺めている。

 心がここにないようで、蓮は不安に駆られる。

「目、どう?」

 かずとと目が合った。彼が話すと、暖かな風と時間が流れる。話し方や声質から、彼は人に好かれるタイプだ。先ほど一緒にいたマサは、あからさまな不機嫌な舌打ちをしたところを聞くと、彼もまたかずとに想いを寄せているのだろう。

「見えるようになりました」

「そっか。良かった」

「いろいろと……すみません」

「謝らなくていいよ。蓮君が無事で良かった」

 またもや視界がぼやけてくる。今度は病気とは関係なく、意図せず溢れる涙のせいだ。

 彼は名前を覚えていた。彼からすれば顔も見えていただろうが、不思議な感覚だ。同じ地球上にいても、見えている世界が違う。

「さっき鞄を開けたときに学生証が見えたんだけど、蓮君はこっちの大学に通ってるんだね」

「はい、そうです。先生のおかげで、母から離れて暮らすことができました」

「ああ……俺は何もしてないよ」

「そんなことないです。今は祖父母の家から通っています。編入した高校でも友達ができたし、楽しい想い出もできました」

「それはよかった」

 違う。言いたいことはこんなことではなかった。

 もっともっと伝えたいことがあるのに、意気地なしのせいか肝心の言葉が出てこない。

 かずとは腕時計に視線を送る。

 いても立ってもいられなくなった。

「先生、夏に文化祭があるんです」

「文化祭?」

「来てもらえませんか? 八月なんですけど……」

 どうしても次に会う約束を取りつけたかった。これでさよならはつらすぎた。

「いいね、文化祭。懐かしいなあ」

「先生……」

「ん?」

「かっこいい……」

「あははっ、顔見るの初めてか」

「そうです……初めてです」

「蓮君は愛らしい顔をしてるよ」

「ありがとうございます……」

 女顔と言われるのは好きではないが、かずとに言われるのは平気だった。

 刻々と時間が過ぎていき、ベンチに座っている間も影と外の色が同化していて、別れを意味してた。

 口から出るのは顔のことばかりで、気の利いたことを一言も言えず、もどかしくて焦りばかりが生まれる。

「送っていくよ」

 かずとは立ち上がった。蓮も小さく頷き、後ろをついていく。

「ごめん」

 何に対してなのか、かずとは消え入りそうな声で呟いた。

 聞いてはいけない気がして、蓮は聞こえないふりをした。

「おばあちゃんの家はどこ?」

「ここから四つほど離れているところです。もう遅いですし、送ってもらわなくて大丈夫です。先生も遅くなっちゃうし」

「そっか」

 かずとは弱々しく返事をする。

 どこか上の空で、心配でやはりもう少し一緒にいたい、とわがままばかり心に残る。

「じゃあ、またね」

「はい。おやすみなさい」

「おやすみ」

 行ってしまう。先生と別れてしまう。

 蓮は瞬きよりも早く、かずとの袖を掴んだ。

「……文化祭へ必ず行くよ」

 指の力が抜けていき、蓮はそっと腕を離した。

 彼が小さくなるまで見つめ続けた。

 別れはやはり寂しいが、「また」と言った言葉はお守りになり、心の奥にしまい込んだ。




 蓮は大学に入学して、天文サークルへ入部した。

 入院中にもぼんやりと興味を持っていた程度だったが、真っ黒な夜空を眺める世界は、目の見えなかった蓮にとって夢あふれる世界だった。

 活動の内容は、天体について語り合ったり、研究したり、夜に天体望遠鏡を持って出かけたりするが、夜の出歩きは参加していない。万が一見えなくなったりしたら、事故に繋がる恐れがある。

 メンバーの小泉がいた。一つ上の先輩で、長めのネイルで器用にキーボードを打ち、ブログに写真を上げている。

「れんれん、お菓子食べる?」

「れんれん……」

「遠慮すんなって。ほら」

 テーブルを滑ってきたのは、パフが入っているチョコレート菓子。

「イチゴが良かった?」

「いえ……ありがとうございます。これ、この前行ってきた写真ですか?」

「そう。ちょっと見てよこれ。月にウサギがいるって言うけど、ほんとにいるんだって証明されたから」

 どや顔で端末を差し出され、蓮は覗いた。

「おお……これはすごい。耳もちゃんとあるし、ウサギが駆けているように見えますね」

「でしょ? 海すごい。ウサギが住んでた」

 地形のことを海と言うが、水があるわけではない。

「国によってワニだったり女性だったりするのよね。月に行ってみたいわ」

「宇宙旅行は民間でもあるみたいですけどね」

「何億かかんのよ。……アンタ、目大丈夫?」

「おかしいですか? 見えてますよ」

 目の病気を患っていたとサークル内には話してある。突然参加できなくなることもあるためだ。

「目元真っ赤だし腫れてない? 泣いた?」

「昨日、ちょっとだけ」

「どうしたのよ」

「好きだった人に偶然再会して、おかしくなってました」

「恋の悩み? もう好きじゃないの?」

「……………………」

 小泉は蓮の隣に座る。鞄からもう一つチョコレートを出し、蓮へ渡した。

「連絡先は交換した?」

「してないです。聞くのが怖かった。でも文化祭は来てほしいって伝えたら、必ず行くって言ってくれました」

「それなら良かったじゃん。何やるかいろいろ決めないとね」

 一つ年上の小泉は、蓮の頭をわしゃわしゃと撫で回す。

「れんれんって弟みたいなんだよね。可愛がってやりたくなる」

「兄弟いないので、嬉しいやら複雑やらです」

「そこは嬉しいって言いなさい」

 もう一人、天文サークルの部長である鳴瀬が入ってくる。蓮と同じ一年の西森も続いた。

 他にも数人いるが、幽霊部員だ。

 自由気ままでマイペースだが、頼れる先輩だ。

「うっす。今日は文化祭の出し物決めるぞ」

「去年は何やったんですか?」

「撮ってきた写真を展示したり。わりと評判良かったんだよね」

「そうそう。天の川の写真とか売ったりして、完売したんだよね」

「俺、カフェやりたいです」

 西森はパソコンから顔を上げた。

「それは第一候補だったんだけど、どう?」

「僕もカフェやってみたいです。宇宙や天体にちなんだものを作ってみたいんです」

「可愛い彼女候補にあげるの?」

 小泉はにんまりと笑う。

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