Ⅵ 後篇(下)

 

 繭の中の俺はアルバトロスに投げ出され、壁にぶつかって円盤の隅に落ちていた。無理なガリレオ滑降を繰り返したせいで箒は折れてしまい使い物にならない。箒や魔法杖は消耗品でとくに想い入れを持つようなものではないが、粗末な扱いをして折ってしまったことにはかわりない。次からはもっと箒を大切にしよう。空を飛べる未来が俺に遺されていたらの話だけど。

 アルバトロスに遊ばれた俺は手も脚も骨が折れている上に肉を削がれて全身から血が流れ出ていた。失血のせいか、ひどく寒い。

黒金くろがねの子」

 アルバトロスは円盤の床から空中のアロイスに親し気に呼び掛けた。馴れ馴れしい調子で、仲間扱いをしていた。

「わが息子。アロイス」

 アロイスは即座に云い返した。

「母はルクレツィアだ。そして父はお前ではない」

 俺と師匠が壊した硝子の蓋の隙間からは、極光のたなびく空が見えた。アロイスは夜空を背にして揺りかごの内部を見下ろしていた。星座や銀河が少年魔法使いの登場を讃えて瞬き、月光もひれ伏しているようだった。

 アロイスは繭の中には降りてはこなかった。その必要はないと云うかのように、蓋の上に留まっていた。その態度に屈辱を覚えるのか、下にいるアルバトロスは虚勢を張る笑みを浮かべた。アロイスは冷たくそんな父親を見返した。

 偉大な魔法使い対偉大な魔法使い。同時代に二人現れることはないと云われているその二人。前代未聞のものを眼にしているのだ。

「黒金の血を紡いでいく者よ」

「誰のこと」

「『偉大な魔女』の血を引くルクレツィアを母にもつわが息子。お前は黒金の魔法使いの祖となるだろう」

「そんなものになる気はない」

「黒金に二世がいたことはないのだ。お前は強い血を持っている」

「じゃあぼくが最強で最大の魔法使いってことでいい?」

 心底興味がなさそうに、アロイスは長い魔法杖を持ち上げた。かつてシーナに悪戯をした人間の男を俺が森の中で炙ってやった時よりも、その時の師匠の眼よりも冷え切った、魔法使いでも人間でも獣でもないような、出来れば二度と視たくない眼つきをアロイスはしていた。眼というよりは宇宙の空洞で、その奥には久遠の刻が途切れることなく凄い情報量で流れている。

「魔都でこの魔法杖をくれた師匠の師匠が云うことには、ぼくは王さまだそうだ。魔法使いと魔女の王にして、黒金と白銀の王。ハンスエリを返せ。こういう際には何と唱えるのかな。その魔法を知らないが、ぼくが真に王ならば、ぼくの想うままにすればよいのだろう。二度は云わない。ハンスエリを返せ」

「アロイス。わたしはお前の父だ」

「消えろ。黒金の魔法使い」

「アロイス。お前はようやく得たわが子だ。黒金を繋ぐ後継者」

 アルバトロスの言葉は途中で途切れた。黒金の魔法使いをこの世から滅ぼしたその光を俺は視ていない。既に意識が朦朧としていたし、あまりにも眩しくて眼を閉じたからだ。何かすごい衝撃が上から下へ落ちてきたことしか分からない。脳が光で灼かれて背骨が背中から飛び出した気がした。硝子の天井が爆ぜて粉々になって崩れ落ち、天井だけでなく揺りかごそのものが激震し、熱線の茨を引き千切り、内から外へと破裂して割れていった。

 これがアロイスの力。

 繭は高圧の力で押し潰され、潰れた果実が果汁を飛ばすようにして地平の果てまで暴風と破片を氷原に撒き散らした。

 鋭い欠片が大地に降りそそぐ。マキシムがシーナを庇って地に伏せた。身を挺してシーナを護っているその背に刃のような破片が落下する。シェラ・マドレ卿が馬車を走らせ、車体を盾にして師匠とシーナをその蔭に入れた。

 俺は砕けた硝子片と共に爆風で夜空高くに吹き飛ばされた。危険を冒して箒を飛ばしたブラシウスが上空で掴んでくれていなければ、揺りかごの欠片と共に遠くに投げ出されて即死していただろう。

 繭を破壊して一瞬でハンスエリを取り戻したアロイスは、箒に跨り、まだ空中に留まっていた。アロイスは空の高みから黒金の魔法使いを眺め降ろした。

 渦を巻いて吹き荒れる魔力の豪風の中で黒金の魔法使いは両腕を伸ばし、少年を掴み下ろそうと足掻いた。その秀麗な顔が引き歪み、旋風の中で血だらけになり、その血も吹き飛んだ。

「お前はわたしの息子だ」

 黒金の魔法使いはかつて湖でその手にかけた魔女よりも、もっと細かくなって千切れていった。アロイスの魔法の下に黒金の魔法使いアルバトロスの血は沸騰して蒸発し、吹き飛んでかき消えていった。

 アロイス。

 黒金の眼玉だけがまだ残っていた。

 アロイス。

「目障りだ」

 赤子を片腕に抱いたアロイスが長い魔法杖を揮った。その長い杖から放たれたものは、世界の果てまで照らすような、強く鮮烈な、気高いまでの光の柱だったそうだ。




 兄上は、偉大な魔法使いなの?


 子どもの声がしている。ホーエンツォレアン屋敷の庭だ。あれは少し大きくなったハンスエリだ。ルクレツィアさんに似てるけど、ベルナルディにも似てる。


 ぼくの兄上は、偉大な魔法使いなの?

 ──そうだよ

 どうして兄上はママと一緒に暮らさないの?

 ──時々は逢いに来てくれるだろう?

 うん。箒でひゅーんって。あっという間なんだ。この前は南の国の鳥をお土産にくれたよ。

 ──彼は偉大な魔法使いだからね



 ハンスエリに返事をしているのが俺だといいけど、多分もう違うだろうな。心配したけど、黒金の魔法使いの影響なんてハンスエリにはまるで残ってはいないようだ。

 破壊されて空高く舞い上がった揺りかごの破片が燃えながらまだ落ちてくる。破片が氷原に突き刺さる。あちこちで篝火のように燃えている。地上の火は海に浮かべた灯籠のように何処までも何処までも続いている。シェラ・マドレ卿にはまた新しい馬車が必要だ。爆風から師匠とシーナを護ったせいで、せっかくの新品の馬車も傾いて屋根がへこみ、車軸が折れてしまっている。

 花吹雪のように降りしきる金や銀の灰。

 想い切り飛んでみせて。

 最速を出してみせて。

 子どもの頃の俺とシーナが師匠に頼んだ時、師匠は離れているようにと俺たちに云った。そしてマキシムは飛び立った。飛び立つというより、姿が消えた。

「消えちゃった」

 棒状の飴を舐めながら柵に腰をかけてそれを見ていた俺は唖然となった。あんなに速く飛べるんだ。俺も早くああなりたい。その時、世界はどんな風に見えるのだろう。空は水色のままなのか、それとも星の世界に飛び出してしまうのか。

 師匠が消えた方を見詰めていると、家の裏手から箒を手にした師匠が現れた。俺たちが頼んだとおりに街まで一周して、もう戻って来たのだ。

「箒に負担がかかる」

 そう云って滅多なことでは見せてはくれなかったけれど、七剣聖の疾走ぶりは確かに俺に影響を与えた。

 マキシムが俺の師匠で、俺は倖せだった。


 あの分厚い鋼鉄の扉を一気にぶち抜いて回廊を抜けてきたアロイス。

 俺なんかでは駄目だった。黒金くろがねの魔法使いにはまるで歯が立たなかった。偉大な魔法使いとは、本当に特別な存在なんだな。

 百年に一人しか出現しないという偉大な魔法使い。確かにそれは正しかった。両雄が並び立つこともない。二人のうちの片方の黒金の魔法使いは、アロイスによって滅ぼされたからだ。

 湖を望むシャテル・シャリオンの城。新城の崖下にある崩れかけた古城を俺は歩いていた。放棄されて風雨に晒されるままになっている王国時代の廃墟。草に埋もれた瓦礫を踏んでその中を俺は探索していた。師匠も子どもの頃にここを遊び場にしていただろうと想ったからだ。

 一族の霊廟だけは今も使われていた。清掃と手入れが行き届き、高い丸天井の下には大理石の柱が並んでいる。霊廟には大昔からのザヴィエン家の祖先が眠っていた。碑だけの人もいれば、蓋に生前の姿を彫られた立体的な石棺もあった。

 パキケファロに教えてもらったお蔭で、俺は古語が少し読めるようになっていた。

----------------

再来を伝えよ

古きよりこの地にて

黄金の血はまさに

その御方こそ

----------------

 城門と霊廟に掲げられている文言。ザヴィエン家の紋章。

 畏怖され、尊敬もされてきた偉大な魔法使い。法治が行き渡る以前には、偉大な魔法使いと黒金の魔法使いの区別はなかったのだろう。

 霊廟の採光窓から差し込む厳かな光。その碑はただ、一族から生まれ出る偉大な魔法使いを称えていた。その者だけが持つ、強大なその力を。



 テオ。

 テオ、眼を開けて。

 ぱらぱらと雨が降っている。雨と想ったものはシーナの涙だ。

「テオ、起きて」

 小川に雪解け水が流れている。

 夢を見たよ、シーナ。りんごの白い花が咲いている。俺たちの家が真っ白な花に包まれているんだ。そしてシーナがね、白い衣をつけて俺の横に立っている。

「テオ、眼を開けて」

 もう少しこのままでいたい。とてもいい夢だから。花嫁衣裳のシーナ。花冠がとても似合ってる。ヘタイラの衣裳なんかよりもずっと綺麗だ。俺の為に着てくれたのかな。

 極光の揺らぎの向こう。雪冠の山脈が青空に映えている。りんごの香りが風に薫る春の邑。

 シーナ、俺のシーナ。

 アルフォンシーナ。

 相手が師匠だったら渡してもいいなんて嘘だった。やっぱりシーナのことが好きだ。だってこの夢の中のシーナは俺を見詰めて微笑んでいる。その眸でずっと俺を見ていて。

「テオ、起きて。死んでは駄目よ。テオ」

「退いて下さい」

 少年の声がした。アロイスは少し疲れているようだ。

「マキシムは救いました。馬車の中です。次はこの人だ」

「何をするの」

 倒れている俺にシーナが縋り付いた。痛いよシーナ。シーナの涙が降りかかる。

「何をするのアロイス」

 余裕がないのかアロイスは容赦なかった。

「邪魔です」

 魔法杖の一振りで、アロイスはシーナを引き剥がしてしまった。

 俺の胸に耳をつけて心臓の音を確かめたアロイスは、次に俺の瞼を指でめくった。扱いが荒いぞアロイス。ベルナルディとルクレツィアが結婚したら俺は君の義理の兄になるんだ。それと、ハンスエリに南の国の鳥を土産にする時には気をつけてやってくれ。翼の色は絵具を塗っているのだと想ってハンスエリは鳥を水に浸けようとするからな。真っ青な翼。

 白雲の森の中を、もう一度飛びたい。

「こんなことは偉大な魔法使いのやることじゃない。ぼくは父とルクレツィアとハンスエリ以外のことはどうでもいい」

 氷原のずっと向こうに落とされたシーナが「テオ」と叫んでいる。その声もだんだん遠くなっていく。すべてが消えていく。その代わりに死に際に見えるというお花畠が鮮やかな色で見えてきた。虹色の雲の上にいるみたいだ。

 シーナ、新しい花の種を庭に撒いたんだね。果樹園から聴こえる糸車の音。

「でも、ぼくはあなたを助ける」

 一緒においで。

 師匠が手を伸ばしている。傍には小さな女の子。

 糸車の糸が逆向きに回ってほどけ、紡ぎ車が逆回転する。偉大な魔法使い。

「何故ならぼくは、医者の息子だからだ」

 アロイスは杖を振り下ろした。



》終幕

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