終章◆二人の魔法使い
Ⅵ 前篇(上)
そこは氷の平原だった。星空には小さな月が二つある。よく見ると一つは金属の板だ。青や紫の銀河の濃淡には隙間なく星が耀き、時折、ゆらゆらと極光が妖しく天を揺らしている。他に大きく動くものは何もない。
静寂を映す蒼い氷の大地に、塔に似たものが地面から生えている。花から葉っぱを取り払ったような形状をしている。花部の大きさは、小宮殿くらいはあり、卵型をしている。
よく見ると花のつぼみの部分は、根のような網のような茨で何重にも覆われているのだと分かる。茨で囲まれたその奥には半透明の繭があり、繭の真ん中には円盤が差し挟まっていて、その床で繭は上と下に分かれている。
はるか遠くから見ると聖火のように見えるのは、繭がほのかに発光しているせいだ。
花のつぼみは静かにそこにある。
太古の昔、翼ある巨人族が通り過ぎた氷原。今は、寒風だけが吹いている。
箒乗りのくせにマキシムはシーナが箒に乗ることにあまりいい顔をしなかった。シーナが本格的に箒に乗り始めたのは、実は俺よりも後なのだ。
地元民が城と呼んでいた防塁の址。マキシムはその廃墟でシーナに魔法を教えた。
吹き付ける海風の中、マキシムは箒に乗りたがる幼いシーナに云いきかせた。
「ここは海が近い。風も強いし、高波に子どもが落ちたら見つからない」
まったく箒を教えないわけではなかった。防塁址を一周したり、海に続く草地の斜面から少し飛んで浜辺に降りるくらいのことはやったそうだ。
「眼を閉じて」
「はい」
「君は箒に乗って空を飛んでいる」
それでいきなり箒ごと堤防の上から投げ落とすのだが、同じ教え方でもシーナの時にはマキシムの補助つきで、落ちても怪我をしない草地や砂浜でやっていた。箒と一緒に崖下に転がり落ちていた俺とは違う。
痛い想いをしたせいで俺はすぐに箒に乗れるようになった。自由自在に乗り回している俺を見たシーナはマキシムに強く抗議した。直談判でシーナはようやく飛行範囲を広げる許可をマキシムから得たのだ。そのあたりで、俺たちは今暮らしている邑に引っ越した。北の海岸の天候は荒れ気味で風が強かったから、確かにあのままあそこで暮らしていたら、マキシムの懸念どおり俺は何度か海に落ちていただろう。
箒については、結局俺は独自の飛び方を次第に身につけていき、シーナの方が師匠そっくりの飛び方になっている。
箒に乗る姿勢だけでなく、俺もシーナも、魔法の基礎をマキシムから教えてもらったお蔭で「魔法杖の振り方がきれいだ」と褒められる。
ただ振るだけの魔法杖の振り方に綺麗も汚いもないようなものだが、師匠の振り方は掲げた魔法杖の先をわずかに横に泳がせてから十字を描くように一気に振り下ろすのだ。
冬の宮殿の庭で、
魔法杖の揮い方にはさまざまな流儀や癖がある。後頭部に一度隠してから肘から落としてくる者、投げ縄のように回してから魔法を放つもの、或いはツォレルン家のような、完全なる横振り型など。
「縦も出来ないことはないが、わが家は兄弟全員がこうだ」
ブラシウスやバルトロメウスは魔法杖を横に切る。多少の流行はあるが、魔法杖の振り方の特徴は一門を見分ける参考になるのだ。
師匠の師匠だ。
火災の片づけに使用人が奔走しているホーエンツォレアン屋敷の庭で突然、「師匠の師匠」と連呼し始めた俺を、シーナとブラシウスは狂ったのかというような眼で見ていた。
師匠が行ってしまった後、入れ違うようにしてすぐにアルフォンシーナも箒で飛んで来た。
火事と誘拐の現場にやって来たシーナは起こったことを聴いて愕然としていたが、師匠が
「相手はアルバトロスね。皇女エリーゼに頼んで
「だから師匠の師匠だよ」
不可解そうな二人に構わず、俺は繰り返した。
「マキシムの師匠だ。師匠の師匠。その人なら師匠が何処に行ったのかを知っているはずだ」
「シャテル・シャリオン領主代行を務めてくれていたという、魔法使いのことか」
「行こう。師匠の師匠の居場所は執事のホルストさんに訊いたら分かるだろう」
エリーゼ・ルサージュは、師匠の師匠は現在、海外を放浪中だと云っていた。それでも、その人の他には師匠の行き先が分かる人はいない。
そこへ向こうから誰かが歩いて来た。灰色の外套をまとった初老の魔法使いだ。痩せていて長身のその魔法使いは修羅場のようになっている辺りを見渡すと、すぐによく響く低い声できびきびと指示を出した。
「楡の木の下に倒れている魔女はすぐに屋内へ。心配はいらない。深く眠っているだけだ」
現れた魔法使いは傘のように長い魔法杖を手にしていた。初老の魔法使いは、反対側にも眼を向けた。
「そちらで気絶しているのは領主か。その怪我は魔女にやられたのだな。彼の方が難儀だ。手当を急ぎなさい。火災の方はすっかり鎮火しているようだ。ホーエンツォレアン家ならばすぐに前よりも立派なものを再建できようから、こちらも心配はいらない」
俺たちは呆気に取られて彼を見た。教授のような風貌をしている。
「あなたは誰ですか」
「メッサイアだ」
誰ですか。
「お前たちが呼んだではないか、今」
「呼んでません」
「マキシムの師匠の師匠を呼んでいたではないか」
「あなたが」
なんの予告もなく現れたな。
「左様。わたしがお前たちの師匠の師匠。メッサイア・サレレント・キュバリスだ」
初対面の師匠の師匠は、マキシムをさらにわけが分からなくしたような、掴みどころのない人物だった。メッサイアは俺たちを順番に眺めた。
「マキシムの拾った
「俺です。テオフラストゥスです」
俺は片手を挙げた。
「今はホーエンツォレアン家の養子です。こちらはアルフォンシーナ。隣りにいるのは友だちで、ツォレルン侯爵家四男のブラシウスです」
しかしメッサイアはもう話を聴いていなかった。彼の眼は空のあちこちに向けられていた。
「つい今しがた離陸したのはマキシムだな。ふむふむ。こちらでは魔女が中座した。そしてこちらは。おや、これは珍しいものを見た」
師匠の師匠メッサイアはまだ地面や空を見廻しては何かの痕跡を追っている。興味を引かれたブラシウスがその傍に行った。その間に屋敷の家人と医師団が裏庭に駈けつけて、倒れているルクレツィアさんとベルナルディを箒つきの担架で運んでいった。
「珍しいものとは」
「偉大な魔法使いが二人いる。あり得ないことだ」
アルバトロスとアロイスのことだ。
「親子だと」
「まあ、一応そうです。父親の方は黒金の魔法使いですが」
「子の母親は」
「アロイス少年の母親は、今、担送されていった魔女ルクレツィアです」
「それではあの美人には、先祖のどこかに『偉大な魔女』の血が入っているのだろう。さもなくば、黒金の子を産むことは叶わぬからな。『偉大な魔女』は絶滅したのだが、その血は薄まっても有効だったということだ」
「メッサイアさん、今はそれどころじゃないんだ」俺はわめいた。
「なんだ、弟子の弟子テオフラストゥス」
「テオです」
大急ぎで俺は起こったことを師匠の師匠に説明した。師匠の師匠メッサイアの今の言葉を聴いて、俺の頭の中で何かが繋がったのだ。母屋に火災を起こし、その隙にハンスエリを攫ったアルバトロスには明確な目的がある。
「ただの赤子じゃないんです。攫われてしまった赤子ハンスエリは、ルクレツィアさんと領主ベルナルディの息子なんです」
「ふむ」
メッサイアは長い魔法杖をぶらつかせた。
「それで」
「ルクレツィアさんは奇跡的に黒金の魔法使いの子を産むことが出来ました。アルバトロスが欲しいのはルクレツィアさんの血統です。白銀の血脈に対抗する黒金の繁殖。アルバトロスがハンスエリを攫ったのはそれが目的だ」
「では、少年アロイスとやらも攫われているのではないか?」
メッサイアは指摘した。
「アロイスは、『黒金の魔法使い』を父に、『偉大な魔女』の血を持つ魔女を母に、両者の血を引いているのだろう。繁殖用ならばアロイスを攫うほうが確実ではないか」
「それは無理!」
俺たちは声を合わせて云った。アロイスはまだ少年とはいえ、偉大な魔法使いなのだ。しかも育ての親であるミュラー医師の薫陶とルクレツィアさんの影響が強い。アルバトロスからすれば、わざわざアロイスに手を焼くよりは、御しやすい赤子を攫ってきて手許で洗脳教育をした方がはやいのだ。
俺は師匠の師匠メッサイアに説明した。
「ルクレツィアさんが偉大な魔女の血を持っていたことで、胎児が死なず、黒金の血に耐えてアロイスが生まれたのならば、赤子ハンスエリも母から偉大な魔女の血を受け継いでいます。つまり、そのハンスエリを基に意図的な交配をしていけば、黒金の魔法使いの血統が繋がります」
最も確実なのは母体となるルクレツィアさんを攫うことだが、ルクレツィアさんはアロイスを生んだ時、そしてハンスエリの出産で死にかけたくらいなのだから、黒金の次の子はもう望めないだろう。
メッサイアは首をひねった。
「そううまくは運ばぬと想うが」
傘のように長い魔法杖をメッサイアは手の中で回した。
「ハンスエリは男児だと云ったな」
「そうです」
「血統を繋ぐには、男児は遠回りだ」
そうなんだよな、とブラシウスもメッサイアに同意した。
「ハンスエリが女の子であれば、第二のルクレツィアさんになる確率が高いんだけど」
「男の子で倖いよ」
シーナが怖い顔をして眼を吊り上げた。もしハンスエリが女児だったら、あの変態野郎はハンスエリにも手を出すに違いないのだ。
嫌悪感を隠すことなくシーナは身を震わせた。
「今なら、『冬の宮殿』でヘタイラ・ベアトリーチェが襲われた理由が分かるわ。アルバトロスはアロイスの存在を知ったのよ。ルクレツィアさんで成功したことが分かったものだから、またヘタイラの中から着床を試そうとしていたんだわ」
「それについては、多分あいつが面食いなだけだよ」
横を向きながらブラシウスが小声で呟いたがそこは俺も同感だ。シーナについては保護者である師匠への意図的な厭がらせだろうけど。
「近年の舞踏会で変事があったような話はまるで聴かないから、その間、魔女狩りは他所でやっていたということなのかな」
おそらくそうなのだろう。エリーゼもそう云っていた。報告は沢山上がっていると。全ての発芽が不首尾に終わるものだから、黒金の魔法使いはあの夜、魔都に舞い戻っていたのだ。
「どちらにしても許せないわ」
潔癖なシーナは本気で怒っていた。
「アルバトロスはルクレツィアさんが偉大な魔女の血を引いていることを、どうやって知ったのかしら」
「偶然だ」
メッサイアは断定した。
「『偉大な魔女』は古代にはいたが、今ではその血は散逸してしまい、遠い孤島にのみ細々と受け継がれていたのだ。魔女ルクレツィアは不幸にしてたまたま犠牲になってしまったのだろう。本人もその因子を持っていることは知らぬはずだ。ところで、弟子は何処へ行った」
「師匠のことですか」
「わたしの弟子といえば、マキシムに決まっている」
ブラシウスが空を指した。
「七剣聖ならアルバトロスを追いかけて飛び立ちました。だから、こちらも今からそうするべきではないかと相談していたところです。メッサイア・サレレント・キュバリス。あなたは白銀の魔法使いなのでしょうか」
「ザヴィエン家に生まれた弟子は白銀だが、わたしはただの魔法使いだ」
「
「奴を完全に滅ぼすつもりならば、白銀が十二名は要るぞ」
そしてメッサイアは不機嫌な顔で同じことをまた問いかけた。
「弟子は何処に行ったのだ」
「メッサイアさんに教えてもらいたいのはそれです」
俺はほとんど叫んでいた。
「アルバトロスの行き先です。ハンスエリを奪った黒金の魔法使いの向かった場所です」
「なぜ、それをわたしに訊く」
「師匠が云い残したからです。修行の折に行った場所だと」
「何故それを真っ先に云わんのだ」
メッサイアは俺たちを叱りつけると、「早く箒に乗れ」と命じた。
「あ、そこの魔女。そなたはよろしい」
メッサイアはシーナに向かって箒から降りるように促した。
「アルフォンシーナといったな。弟子が拾った棄子の魔女。そなたは行ってはならん」
シーナは無視して附いて来るつもりのようだ。
仕方なさそうに、メッサイアは俺たちを呼び集め、手近なあずまやの柱に向かって魔法杖を向けた。柱には魔法で映像が映し出された。
「お嬢さん、これを見なさい」
箒を浮かせていた俺とブラシウスは焦れてきた。
「映画なんか観ている時間はないでしょう、メッサイアさん」
「急がなくてもよい。赤子の命は無事だ」
今にも飛び立とうとする俺とブラシウスに向かってメッサイアは片手を挙げた。メッサイアがそうすると、俺たちの箒は手から離れてぱたんと地面に落ちてしまった。
「今の話を聴く限り、黒金の魔法使いにとって何よりも護らなければならぬものは、血統の繋ぎとなる赤子の命だ」
あずまやの柱にふしぎな映像が現れた。
映し出されたのは沢山の丸い鋼鉄の扉だ。合わせ鏡のように、奥に向かって果てしなく連なっている。
「この映像では分からぬだろうが、扉の大きさは城門くらいはある」
分厚い鋼鉄の丸扉は開閉を繰り返している。どの扉もばらばらに動いていて、開けたり閉めたりは統一した動きをとっていない。
「この大門の中を通り抜けて行くのだ」
「大丈夫です」
俺は請け合った。飛ばし屋の俺とブラシウスは余裕、シーナも多分いけるだろう。シーナだって師匠の弟子なのだ。
「待て」
映像をよく見ていたブラシウスが緊張した声を出した。
「先の方を見てみろ。遠すぎてよく見えないが、奥に行くにつれてかなりの速さで開閉している」
映像では見え難くて判別し難かったが、云われてみるとずらりと並んだ鋼鉄の扉の奥の方は手前の扉よりも何倍もの速さで開閉している。瞬きくらいの速さだ。
「……テオと俺はいけるよな」
「シーナ」
俺はおそるおそるシーナに声を掛けた。シーナは「なに」という顔を返してきたが、強がっているその顔には隠しきれない不安が浮かんでいた。
「というわけだ」
メッサイア・サレレント・キュバリスは魔法杖で映像を消すと、
「ここは飛行士の彼らに任せて、お嬢さんは家に帰りなさい」
アルフォンシーナの肩に手をおいた。
》前篇(下)
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