後篇

 師匠のマキシムは山の向こうで定期開催される会合に出ていて帰りは今晩遅く。

 午後になり、従者を引き連れてふたたび崖縁に姿を現したのはシェラ・マドレ卿だった。

「鼻の孔をさらしながら貴人と喋りたくないな」

 俺は首をもたげて笑顔をみせた。事情が分かるまでは様子見をしようとあえてぶら下っておいたのだ。

 平気な顔をして垂れ下がっている俺の様子に、卿の従者たちは愕いているようだった。種明かしをすると、崖に落下する前に俺は蔦に魔法をかけている。空から生えろと命じたのだ。

 つまり、俺は吊るされているようでいて、蔦の上に立っている。

 ややこしいから深くは追及しないで欲しい。とにかく逆さまになっているようでいて、なっていないのだ。さすがに長時間同じ体勢なので気を抜くとすぐに頭が崖下を向き、砂時計を返すようにして慌てて修正を繰り返しているが。

 俺がこうなっている理由はすぐに知れた。卿は俺を人質にしてシーナを呼び出したのだ。

 卿の狙いがアルフォンシーナならば、姉弟子が来る前に、ここは何とかして男同士で決着だ。

 遠い氷河から谷間に吹き付けてくる強い風。崖際からシェラ・マドレ卿が俺を睨んでいる。

 ぶらぶらしている両手を俺は岩肌に伸ばした。いまの場合、崖の底は俺の頭の上にある。切立った天井に向けて俺は魔法をかけた。卿の声がした。

「寡黙で長髪。狩人の機敏さと兵士の強靭さを兼ね備え、危機に陥れば何処にいようとも駈けつけて救い出し、ただ一途に女を愛する男」

 突然なにを云ってるんだあいつは。崖に向かって訊いた。

「なんですか、卿」

「それはお前のことか、テオ」

「俺じゃないよシェラ・マドレさま。それはほら、あれですよ、物語本における、女の望む騎士像ですよ」

 男の腐った脳が想い描く妄想が可愛い女の子に集約されるのならば、女の願望のほうも、十二世紀の女詩人マリーが書き残したレー(詩)の時代から一歩たりとも変わらない。女の子の夢はいい男に護られ、溺愛されること。

 それは俺じゃない。

 風に揺れる蓑虫みたいに谷間でふらつきながら、俺は意識を集中した。卿はなにか勘違いをしている。俺と誰かを間違えている。

 確かに俺の髪は後ろで一つに束ねているが、これだって師匠を真似したものだ。シーナの王子さまは俺じゃない。

 卿の従者が愕きの声を上げた。谷底が砕けると、岩盤が舞い上がり、瞬きする間に跳ね上がった破片が直列になって空中に並んだのだ。崖から繋がる石橋となったその上に、蔓をほどいた俺は宙返りして降り立った。 

「シェラ・マドレ卿」

 卿に向かって俺は声を放った。

「決闘を申し込みます。俺が勝ったら姉弟子のことは諦めて欲しい」

「わたしが勝ったらどうする」

 怖れることなくシェラ・マドレ卿は空中に浮いている石橋に踏み込んできた。「危険です卿」追いすがる従者たちが卿の指先の動きひとつで背後の森に転がっていく。

 橋の上で俺と卿は睨み合った。突風が崖に吹きつける。シェラ・マドレ卿の手には魔法杖が握られていた。俺は上着を脱ぎ捨てた。卿もそうした。上着は風に飛ばされてすぐに風下の岩陰に消えた。

 魔法杖を取り出した俺は吼えた。

「いつでも来い」

「わたしが勝ったらアルフォンシーナを嫁にもらうとしよう」

「させるかよ」

 物語ならここで、『次号に続く』だ。



 詳細は省略する。俺と卿は魔法杖からあらゆる術を繰り出して空中に浮いた細い橋の上で闘った。ただのお貴族さまの遊蕩者かと想っていたシェラ・マドレ卿は強かった。何度か俺は天高く飛ばされたり、崖肌すれすれまで墜落して肩をこすった。

 魔女と魔女の闘いでは、「高そうなドレス」「あの真珠の首飾りはもったいないわ」と互いに衣裳を値踏みして損壊を惜しむそうだが、男同士の闘いにそんな優雅な遠慮はない。卿のジレやベネチア麗糸の高価な絹シャツは俺の波状攻撃を受けてびりびりに裂けていたし、俺の方も散々に卿にやられて、三回転宙返りをして岩橋を後退した時には、シーナが縫ってくれた上衣の片袖が肩から取れかけていた。

 なんでこうなったのかと云えば、アルフォンシーナに手酷く拒絶された卿が、シーナの持ち物をネロロに盗ませてシーナをおびき出そうとしたからだ。魔女ならば遠くにあっても自分のものを感知する。

 ところが、たまたまその水晶珠に俺の姿が映っていた。姉弟子は一緒に暮らしている俺を疑い、真っ先に俺の処にやって来たというわけだ。

 結局ネロロの奴はシーナから何を盗んだのだろう。

「それはこれだ」 

 いつの間にか戻ってきたネロロが旗を振っている。

「ここだ、ここだ。テオが危ないぞ」

 ネロロが合図を送って掲げているその旗をよく見れば、葡萄酒で汚れたシーナの前掛けだ。外に干していたらいつの間にか庭から無くなったのだ。やっぱりお前かよ。

 卿の従者がネロロを追いかけた。シーナの前掛けを握りしめたネロロは身をかわして崖の突端に立った。

「ネロロ。シェラ・マドレさまを裏切るつもりか」

「だって俺、どちらかといえば幼馴染のテオとシーナの味方だもん」

「よく云ったわ、ネロロ」

 箒乗りの巧い魔女のことを魔法使いたちは『針山を抜ける銀の糸』と讃えるのだが、森の樹々をすり抜けてやって来たシーナは針よりも鋭く箒で修羅場に切り込んできた。

 箒を地面に突き立てたシーナは名乗った。

「テオの姉弟子、アルフォンシーナ」

「シーナ見て、ネロロの奴が持っている旗を見て」

 橋の上から俺は必死でシーナに訴えた。

「君の前掛けだ。ネロロが犯人だ」

「そんなの今はどうでもいいわ。マキシムが来るわよ」

「えッ」

 俺はびくっとした。なにも師匠の登場に弟子の俺がびくつくことはないのだが、それでもその意味するところは緊張をはらむのだ。

「ネロロから事情を聴いて、マキシムに使い鴉を送ったの」

 誇らしげにシーナは眸を輝かせた。

「マキシムはわたしの危機に応えてくれたわ」

 はたして、マキシムはやって来た。天から遣わされた黒鳥というものがあるのならばまさにマキシムがそれだった。

 普通の魔法使いならば安全を考慮した手順を踏んで着陸する。しかし師匠は違った。一閃が上空を過ぎたかと想うと、飛び去る箒から何かが下りてきた。それは空中を滑空してくると外套の裾をはためかせて俺の前に風の神のように降り立った。

 上空からは蜘蛛の糸ほどにしか見えない狭隘の橋めがけ、唸りを上げて吹き上げる谷の風をものともせずに師匠は降下を果たしてのけたのだ。

「師匠」

「アルフォンシーナを頼む、テオ」

「分かった」

 俺は頷いた。師匠のマキシムが来た以上、俺の出番はない。それでも俺は動けなかった。師匠の闘いを間近で観たかった。俺の眼には兄貴としか映ってないが、いつとはなしに魔族たちの噂話を通して、実は師匠はかなり高位の魔法使いなのだと俺も知るようになっていた。それがなんで辺境の片田舎で俺やシーナと牧歌的な暮らしを送っているのかは知らないが、師匠の素性は知る人は知っているらしい。

 シェラ・マドレ卿が呻いた。

「マキシム・フォン・ザヴィエン選帝侯」

「領内での魔法使い同士の決闘は禁じられている」

 師匠の長髪が谷風になびき、首に巻いた白いクラバットが風をはらむ。マキシムの手に魔法杖が現れた。

「しかし弟子が危機に瀕した際はその限りではない。シェラ・マドレ卿。不躾ながらただ今より師匠のわたしが卿のお相手をつかまつろう」

 痺れるぜ師匠。

 闘いに臨むマキシムの男らしい横顔は常よりも引き締まっている。俺たちの師匠はやる時はやるんだよ。

 マキシムは外套を脱ぎ捨てた。魔法使いの円卓会議に出席していた帰りということもあり、手袋をはめた師匠は伊達者のシェラ・マドレ卿にも劣らぬ正装姿だった。

 橋の上でぐずぐずしていると、

「ぐずぐずしないで、テオ」

 姉弟子に叱られた。渋々俺は空中に架けられた橋から退いた。先手を取ったマキシムの放った稲光が獅子の咆哮を上げてシェラ・マドレ卿を横殴りにする。手加減しているとすぐに分かった。防御魔法を押し戻された卿は魔法杖を掲げたまま耐え切れずによろけていた。勝負はすぐにつくだろう。

 崖沿いの森に退いたこちらでは、卿の従者たちが束になって俺たちを追いかけてきた。

「アルフォンシーナ嬢を捕らえろ」

「毒の棘よ、目覚めよ」

 シーナが杖を茂みに向けて振った。野生の茨が立ち上り、茎についた堅い棘がばらばらと外れる。茨の棘は音を立てて集合すると狂暴な蜂となって従者を襲った。

「危ないシーナ」

 従者の中にも魔法使いがいた。箒に乗って頭上から襲い来るそいつと俺が杖と杖を合わせて文字どおり火花を散らしていると、潜んでいた別の魔法使いが谷底に向けて呪文を唱えた。崖下に散らばっていた獣の骨が持ち上がる。骨は骨格標本のように生前の姿に復元すると崖を這い上がってシーナ目掛けて跳び掛かってきた。

 閃光が走った。

 師匠が卿と戦いながら魔法杖をふるい、獣の骨を粉砕してシーナを救ったのだ。 

「マキシム」

 シーナは尊敬のまなざしで崖際から橋の上のマキシムを見詰めていた。そうさ、うちの師匠は女との約束は絶対に守る男だからな。こんな俺の胸の痛みなんかどうってことない。

 痛い。

 痛いのは脚だ。

 シェラ・マドラ卿にやられた脚の傷から血が出ている。

「テオ」

 シーナが膝をついて、白い布を取り出し止血してくれた。その布はクラバットだ。クラバットは、妻や恋人から贈られたスカーフをクロアチア兵が首に巻いていたのが発祥だ。女が愛する男に贈るものだ。俺の血がついてしまう。

「ねえ、シーナ……」

 シーナ。それは好きな男の為に用意していたものだろう。誰かに贈ろうとしていたものだろう。

 俺なんかに使っちゃ駄目だシーナ。

「わたしの水晶は精巧に出来ているの」

 シーナは血止めの布を俺の脚に巻き付け終わると、片手の掌を俺に向かって差し出した。出しなさいテオ。

「なにを」

「前掛けではないわ。あなたが持っているはずよ。何か小さなもの、わたしの髪の毛かしら」

 俺は天を仰いだ。

 懐から天鵞絨ビロウドの小袋を取り出し、暗く俯きながらシーナに渡した。シーナは小袋をひったくると中を探り、取り出したものをその場で塵へと変えてしまった。ネロロが俺の肩を抱いて支えた。

「泣くなテオ」

 泣いてない。泣いてませんが、精魂込めた手作りの贈り物を眼前で砕かれたような惨めな気分だ。

 羞恥心に打ちひしがれながら俺は訊いてみた。

「マキシムのことが好きなのか、シーナ」

 相手が師匠なら俺も納得する。俺なんかよりもずっと男前で頼れるからな。いつの時代であっても女が男に求めるもの、それは、女の為に闘い、尽くす騎士。

 アルフォンシーナは黙ったままだった。

 箒で離陸する時にはその魔法使いの性格が出るという。じりじりと垂直に昇っていって高度をとってから発進する者、低空飛行を続けて徐々に加速を加えていき、長い助走をつけてから無理なく飛び立つ者。

「マキシムが好きなのか、シーナ」

 アルフォンシーナのつま先が大地を蹴った。インクで線でも引くようにして姉弟子の箒は仰角の直線を描き、すぱっと空に消えていった。男の中でもやるものが滅多にいない最速始動で弾丸のように飛んで行った。去り際にシーナは用の済んだ天鵞絨の小袋を俺に投げ返した。

 俺とネロロは袋を受け取ろうと両手を伸ばしたが、小袋は風に巻かれて何処かに流れ去ってしまった。

「彼女怒ってるぞ。お前ほかにも何かやったろ、テオ」

 俺もそう想う。でもその理由が分からない。

 口のあいた天鵞絨の小袋から、緩衝材として小袋に詰めていたりんごの白い花びらが降ってきた。花びらは吹雪のように俺の顔を掠めて過ぎた。

 ぱちん。

 入浴を終えたシーナが暖炉の前で洗い髪を乾かしながら床に座って爪を切っている。小さな月のような爪。床に落ちた小指の爪を見つからないように真夜中にこっそり拾い上げて、小袋の中に大切に納めたのだ。袋に魔法をかけておいたから、まさかバレるとは想わなかった。水晶珠すごいな。

 俺は君が好きなんだ、アルフォンシーナ。勇者のお供をする可愛いエルフにも興味津々ではあるけれど。

 マキシムは傷ついたシェラ・マドレ卿が従者に担がれて立ち去るのを見送っていた。知らない間に決闘が終わっていた。

 師匠が俺を呼んだ。

 主に忠実な師匠の箒が、師匠の外套を柄に巻き付けて回収してきた。黒い外套を肩に羽織ったマキシム・フォン・ザヴィエン選帝侯は、傷ひとつ負わず、何事もなかったかのように喉元のクラバットを整えて立っていた。帰るぞテオ。

 家に帰っても姉弟子とはしばらく口を利いてもらえそうにない。

 地面に散り落ちたりんごの白い花びらを見つめて俺は溜息をついた。



》第二章

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