魔女とりんごの花(統合版)
朝吹
第一章◆物語のはじまり
前篇
野原に寝転がり、十五歳の魔法使いにふさわしい取るに足らない妄想に耽りながら雲の流れる青空をぼけぼけと眺めていたら襲われた。
空から飛んできた矢のようなものは箒だった。地上に触れた尾が草花を蹴散らして半円を描き、緊急着陸の勢いを殺す。きれいに弧を掃いて箒は停止した。
箒にまたがっているのは若い魔女だ。
「アルフォンシーナ」
「テオ」
俺の姉弟子のアルフォンシーナだ。何かあったのかと問いかける俺に向けられたのは、アルフォンシーナの冷ややかな軽蔑の視線だった。すけべ変態。何故かその眼はそう云っていた。男のくず、死んでしまえ。
おかしいな、俺の妄想がこの人に伝わったわけじゃあるまいし。
若い娘の中でも、とりわけ姉弟子のアルフォンシーナには冗談がまるで通じない。男たちの罪のないひやかしが耳に入るだけでもその魔法杖からは怒りの焔が噴き出すのだ。死ね、汚らわしい。
「盗んだものを返してテオ」
「え。何か持ってたかな」
「とぼけないで」
アルフォンシーナのことを俺はシーナと呼んでいる。裾をさばいて姉弟子のシーナが箒から降りてくる。乗馬用ペティコートと生の足首がちらりと見えた。
シーナ。俺のアルフォンシーナ。
夜ごとの夢に出てくるのは君のことばかりだと、シーナに伝えることが出来たらどれほどいいだろう。その手でそんなに全身をまさぐらないで欲しい。痛い痛い、耳を引っ張られるのはかなり痛い。
「わたしの箪笥から何か盗ったわね。それが肌着だったら絞めて殺すわよ」
「シーナの下着なんか盗らないよ」
「遠くにわたしの一部がはぐれている気配があって気になって水晶珠に訊いてみたら、テオの姿が見えたのよ」
姉弟子の手が俺の喉を締めている。すっかり痴漢扱いだ。心が痛い。シーナの眼がマジだ。
嫌われてるのかな、俺。
「テオ」
眼を白黒させている俺の顔に顔を近づけてアルフォンシーナは凄んだ。普段はおしとやかだが、あれは俺たちの師匠の前でだけ見せる特別製なのだ。可愛い顔が怖かった。
「街の広場にいるあなたの背中が、水晶珠にはっきりと映ったのよ」
シーナのあかい唇は朝露に濡れる葡萄のようだ。
雲の影を落とす野原にぶんぶんと羽虫が飛んでいる。ぶんぶんと音を立てて、独楽のように素早く
テオ。
シーナが俺を呼び留めた。木漏れ日に包まれたシーナの髪や顔の輪郭がかがやいて美しい。明日は師匠が会合から帰ってくる日、そして、わたしたちが三人で暮らし始めた記念日ね。明晩はご馳走よ。裏の納屋から封蝋のついた葡萄酒をひと瓶持って来て、ここで味見をしてみましょう。
りんごの白い花が春の風に揺れている。黄昏の空に昇るのは半透明の新月だ。女の爪のように薄い月。儚い月は空からひらりと零れ落ち、りんごの白い花びらと混ざり合って、氷飴のように今にも大地に消えてしまいそうだった。
なにを見ているの。
横顔に見惚れていたら、シーナの麻の前掛けに葡萄酒を零してしまった。布に葡萄酒のあかい滲みが広がる。
「俺が洗ってくる」
汚れた前掛けをシーナからあずかると小川に持って行って、せせらぎの中に漬けた。雪解け水に両手がすっかり冷え切ってしまうまで
「そういえば」
シーナは悲鳴をあげた。
「あの前掛けも昨日から行方不明だわ。まさかテオ」
女が、今どんな想像してるか分かる。すっかり変態扱いだ。泣ける。だが、ちょっと待てよ。水晶珠には街の広場が映っていたと云ったな。
「獅子の噴水がある街の広場か」
「そうよ。何処に行くのテオ」
「疑いが晴れるまで家に戻らない。師匠が戻って来たら師匠にもそう伝えておいてくれ」
切り株に置いていた箒にまたがり、俺は大地を蹴った。
俺は魔法使いだ。アルフォンシーナは魔女。俺とシーナは共に
「カッコいいよね、師匠」
師匠といっても俺たちと十歳しか違わない。少年少女の眼にも師匠のマキシムは男前だった。自慢の師匠だ。
路上から拾われた俺は少し大きくなった頃、師匠から新しい名を授けられた。
パラケルスス……。
それは本当に人名なのかよ。
その名を聴いた俺は笑ったものだ。師匠のマキシムは笑っている俺の頭に手をおいて微笑んだ。兄貴。心の中では師匠マキシムのことをそう呼んでいる。五歳で拾われてから十年間、俺とシーナを魔法使いに育ててくれた恩人のマキシム。
「
「その名を、テオフラストゥス」
「長いな師匠」
「テオでいいんじゃない?」
真珠色の月が窓の外に昇っていた。俺よりも一年はやく、新しい名をもらった姉弟子のアルフォンシーナ。アルフォンシーナも師匠が名付けた。由来は知らない。
あの子には魔法使いの天分があるわ。きっと両親も魔法使いだったのよ。師匠、家に連れて帰りましょう。
路上で死にかけていた俺を拾ってくれたのは兄貴とシーナだ。俺はまったく覚えていないが、地面に落ちていた麻紐を、紐に触れることなく、いろんな形に結って俺は遊んでいたらしい。
後で知ったがパラケルススというのは十六世紀前半に活躍した実在の錬金術師だった。
箒を飛ばして獅子の広場に急いで戻ると、目当ての男はまだそこにいた。
「ネロロ」
空から大声で呼んで箒で降下する。ネロロはぎょっとした顔をして、いそいで俺から逃げ出した。
「待てネロロ」
「なんでお前が来るんだよ。用があるのはアルフォンシーナなのに」
どういう意味だ。
「おいネロロ。お前がシーナのものを何か盗んで持っていることは分かってる。すぐに返せ」
手の中で魔法の杖をくるくると回して脅してやる。ネロロの逃げ足は速かった。近くの屋台にとび込むと、店の箒を奪って屋台から飛び出してきた。
自前の箒でないと巧く乗りこなせない奴もいるが、ネロロや俺はそうじゃない。特に俺とシーナの師匠のマキシムはエニシダの枝を使った箒だけでなく、どんな箒でも扱えるように厳しく俺を仕込んだものだ。
「アルフォンシーナは怪我をしない程度でよいが、お前は箒乗りになっておけ」
なんで。
暴れ馬ならぬ暴れ箒から振り落とされて腰をさすっている俺にマキシムは云った。師匠の返答は明快だった。
「男の武器は多いほうがいい」
お蔭で俺は界隈ではちょっと名の知れた箒乗りなのだ。しかしネロロも負けてはいない。競争に必要なのは、高度よりも速度への恐怖心を忘れることだ。
やるじゃないかネロロ。
俺は口笛を吹いた。逃げ足が速いのはこいつの特技だな。他の魔法についてはまるで駄目なくせに、意外な才能だ。
ネロロを追いかけ街の屋根を超え、川沿いの農地から黒い森を抜けた。鼻柱が風圧で折れるかと想うほどの追跡を続けた果てに、ネロロが急に下がっていった。俺もそうした。それが罠だった。
樹と樹のあいだに張られた網に箒がひっかかり、柄が真下になった。立ち上った箒は俺を乗せたまま熊が背中から崖を転がり落ちるようにして縦回転すると、ばきばきと枝葉にぶち当たりながら森に突っ込んだ。
「アルフォンシーナでは、ないではないか」
襟首を掴まれて茂みから引き出された俺を見て、貴人が顔をしかめた。衝突寸前に魔法をかけたので大樹の幹に激突した俺に怪我はないが、切り傷は負った。
「こいつは誰だ」
「確か、マキシム門下の若者です。シェラ・マドレさま」
捕まった俺はネロロを探したが、ネロロは既に姿を消していた。
シェラ・マドレ卿。この地方一帯を治める領主の分家の男で、美男で独身だがあまりいい噂を聴かない。
アルフォンシーナに何の用だ。
魔法界と人間界は重なり合っていて、一部を共有している。でも俺は、第三の異世界に行きたい。今ほどそれを切望したことはない。可愛いエルフが「ご主人さま」と俺の前に膝をついてくれるのなら文句ない。
好みとしては可愛いよりも美人のほうでお願いしたい。願望が反映されるのならば駄目もとで色々と注文をつけたい。俺はつんつんした気位の高い美人が好きなんだ。
つまり、シェラ・マドレ卿と同好の士ってわけだ。愛嬌のある女よりも、男に媚びないアルフォンシーナに卿も心を奪われたんだ。ネロロからきいて後から知ったが、何年も前からシェラ・マドレ卿はシーナに云い寄り、しつこく口説いていたそうだ。
「シェラ・マドレ卿は一度は空中馬車にアルフォンシーナを乗せて、お二人で散策にまで行ってるんだぜ」
そんなことが姉弟子にあったなんて、俺は全く知らなかった。魔女は秘密主義だからな。
頭に血が昇ってきたのは気のせいではなさそうだ。疲れた。そろそろ限界かもしれない。異世界いいね、ぜひ行こう。
そんな感じで、ただいまの俺は全力をあげて違う世界に飛び去りたいわけだ。そこが異世界であって何故悪い。この状態の俺が行かないと他に誰が行くわけ?
お前らだって今の俺みたいに谷間の空中に逆さまにぶら下げられてみれば考えが変わるよ。はるか下の岩場には崖から落ちた獣の白骨なんかも見えている。異世界に行きてぇ。
俺は魔法使いだ。だからこうして谷間の狭隘に逆さまに放置された状態であってもある程度は平気だ。
閑だったから時々、俺は吊るされたなりで吹きっさらしの風に身を預けながら出来るだけ格好いい自己紹介の仕方なんかを考えていた。初対面の印象は大切だからな。渋くキメたい。
「はじめまして。俺は魔法使いだ。俺の名は高名な錬金術師パラケルススの本名から取られたもので」
やっぱり駄目だげらげらげら、パラケルススゲラゲラゲラ。
俺の名はテオ。
「魔法使いです」
名乗った途端、シェラ・マドレ卿の指が毒蛇の鎌首みたいに持ち上がったかと想うと、音を立てて俺の両足首に頑丈な蔓が巻き付いていた。そのまま背後に引きずられて崖から飛び出し、転落するかと思いきや、谷間の中央で逆さまにぶら下げられた状態で宙に浮いていたのだ。巻き付いた蔦の余った先は俺の足許から空に垂直に伸びている。魔法だ。蔦が何かと繋がっているわけではない。
「悪く想うなよ、テオ」
現れたネロロが崖から箒で飛んで近寄って来ると、逆さまになっている俺に水をくれた。革袋に入った水を呑ませてくれるのはいいが、口端からだらだら零れて眼や鼻の奥に入ってしまう。
「シェラ・マドレさまは領主の分家だ。領主家の人間に逆らったら魔女狩りが始まっちまうよ」
「莫迦野郎」
咳き込みながら俺はネロロに云い返した。なにが魔女狩りだ。シェラ・マドレ卿本人が魔法使いじゃないか。
魔女狩り。
それは近代初期に大流行した集団狂気だ。魔女の嫌疑がかかると異端審問にかけられて片っ端から火炙りにされた。本物の魔法使いの多くは黒い森や山脈の中に逃げ込んでおり、犠牲者の大半はその辺りにいる鈍くさい農婦農奴だったのも胸を悪くする。無知蒙昧な人間が引き起こした濡れ衣の数々。その中には現代でも語り伝えられている魔女の悪業なんかもあって閉口だ。俺たちは赤子を煮込んだり、山羊と性交なんかしない。
吹き過ぎる谷風の冷たさに俺は身震いした。魔女狩りでは男の魔法使いも犠牲になるが、最初に糾弾されるのは決まって美しい女なのだ。男の眼を惹く魅力そのものが、悪魔の力だと見做されるからだ。
アルフォンシーナ。
暖炉の灯りが二人の影を夕陽の色で照らしている。或る晩、マキシムは美しく成長したシーナの肩に両手をおいて想い遣り深い声音で云いきかせていた。
それは一人の
アルフォンシーナ。
師匠は兄の仕草でシーナを抱き寄せた。
もしそうなったとしても、このマキシムがお前を護り、誰にも渡さないよ。お前が刑に処される時には何処からでも空から駈けつけて、青光りする神の雷を撥ね退け、お前を厭わしい苦難から救ってみせよう。
死ね、汚らわしい。
いつものようにアルフォンシーナは吐き捨てることはしなかった。安心しきった小鹿のようにマキシムの胸の中でシーナはおとなしく眼を閉じていた。
》後篇へ
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