中篇(下)
アルフォンシーナを嫁に出すと師匠から伝えられた時、俺はすぐに、師匠の友人のベルナルディの顔を想い浮かべた。
家に遊びに来るベルナルディはいつも俺とシーナにお土産を持って来てくれた。シーナへの贈り物は最初のうちは陶器の人形なんかだったが、ここ数年の品々は、男が妙齢の女に贈るにしてはちょっと色気がありすぎた。
「それは明確に口説いてるだろ」
みんな同じ意見だった。
「フランドルの織物、フィレンツェのマーブル便箋、ベルギー刺繍の手巾だろ?」
「それから仏蘭西の石鹸、香水、首飾り、手鏡、宝石箱」
「どう考えても財力にものを云わせて女の気を惹こうとしてるだろ」
邑を流れる小川に木橋から釣り糸を垂れながら、俺は年長の友だちに打ち明けていた。街の女将さんたちが既にあんなにも大っぴらに噂話をしている以上、隠す意味もない。
「愛人にするつもりじゃないのか」
「ばか。そんなのマキシムさんが許すわけないだろ」
「ベロベロ、ベルベルディ……」
「ベルナルディ・フォン・ホーエンツォレアン」
「その人ならいいんじゃないの。昔からの知り合いだしさ」
「魔法界にも階級があるんだな。俺たちはてっきり、お前の姉弟子はマキシムさんの嫁になるんだとばかり想ってた」
俺もそう想っていた。そうであって欲しいと望んでいた。
師匠とシーナが大好きだ。俺のシーナを他の誰かに奪われるのならば、それは師匠であって欲しかった。それなら俺は潔く身を引くし、心から祝福できる。
本当はいつまでも今のままでいたかった。子どもじみた夢だとは分かっているけれど、俺はこのままずっと三人で一緒に暮らしていたかった。
なぜなら失うことが分かっていたからだ。
遅かれ早かれ俺はいつか独立して師匠の許から出て行かなければならない。師匠もどこかの貴族の女と結婚して家庭を持たなければならない。シーナだってそうだ。みんなばらばらになる。そしてそれは早いほうがいいのだ出来るだけ。俺よりもシーナよりも、師匠のマキシムの為に。
俺たちの面倒をみる為に今まで一緒にいてくれた師匠。もう十分だ。俺なんかは元々雑草だから、家を出ても自力でちゃんと生きていけるよ。
でも、アルフォンシーナは違う。
森の中の庵で薬草を煮込んでいるような孤独な魔女になるよりは、ちゃんと屋根のある明るい家で、何不自由なくシーナは倖せに暮らして欲しい。女児の棄子は人間界でも魔法界でも珍しくはないけれど、その多くは悲惨な人生だ。シーナをそうしたくない。
シーナのことが好きだった。大好きだった。恋情など意識したこともないほんの小さな頃からずっとだ。
その一方で、俺はこうも願っていた。シーナは師匠と結婚して欲しい。あの二人が夫婦になって欲しい。お似合いだ。この世に耀くような倖せというものがあるのならば、それはきっとあの二人が結婚することだ。
俺がこんなことを望む理由は分かっていた。マキシムに負い目があったからだ。俺たちの為に師匠の人生を犠牲にしている、そんな気がずっとしていたからだ。
一緒においで。
路上に転がっていた俺をマキシムが抱き起こしてくれた時から、師匠はずっと俺の親がわりだった。
師匠がシーナと結婚してくれるのならば、俺はああ良かったと、俺の負い目や罪悪感ごときれいに失恋して、二人の倖せを見届けて旅立つことが出来るはずなんだ。とても自分勝手な俺の希い。
そういえば師匠の親族は、辺鄙な田舎に引っ込んで俺たちと暮らしているマキシムのことをどう想っているんだろう。貴族なら魔都か、ベルナルディのようにしかるべき所領の大邸宅に暮らしているものだ。かなり変わってるよな。執事のホルストさんの他には誰にも一度も逢ったことがないけれど。
「テオ、引いてるぞ」
釣り糸の先で魚が跳ねていた。
シーナはベルナルディに嫁がせるつもりなの?
俺は想い切って直接的に訊いてみた。師匠は愕いた顔をして即座に否定した。
「まさか」
「街の人たちはそう云ってるよ」
師匠が説明するところによると、あれらの土産の数々はベルナルディの女友達が選んでいるのだそうだ。どうりで、男にしては細々と行き届いて趣味がいいと想った。疑念はあっさりと氷塊した。
「今、ベルナルディにも協力を仰いで、アルフォンシーナの花婿候補を絞っている」
師匠じゃ駄目なのか。
もう少しで俺は本当に口に出してそう訊きそうだった。
貴方では駄目なのか。師匠が大貴族だから。シーナが棄子だから。
そんな俺に、師匠はぶっ飛ぶようなことを云い出した。
「確かにベルナルディとの縁組を考えていたが、それはお前を養子にする話だテオ」
「え、俺」
通信教育の宿題を取りに行こうとしていた俺は愕いて脚を止めた。通信教育は遠隔地にいる魔法使いの子女の為の教育制度で、僻地にいても基礎から高等課程が学べる。
「ベルナルディは養子縁組の話を二つ返事で引き受けてくれた。いつでもお前を迎え入れてくれるそうだ。テオはベルナルディの弟になる。テオフラストゥス・フォン・ホーエンツォレアン」
「嫌だよ」
慌てて俺は云った。
もちろんベルナルディのことは嫌いじゃない。想いあたることは沢山ある。俺ひとりだけで領地に滞在することも多かったし、友人の養い子だからという以上に彼にはよくしてもらった。性格も好きだし、もう一人の兄みたいに想ってる。だけど、俺にとっての兄貴は師匠だよ。
「複雑なんだってさ」
邑の子どもたちが云っていた言葉が脳裏によみがえる。
「マキシムさんの実家は複雑で高貴で歴史が重いんだって」
「アルフォンシーナはどうなるの」
動揺したまま俺は口走った。アルフォンシーナはどうなるんだ。
「まだ先の話だよ、テオ」
でもそれは俺たちの巣立ちが近いことを告げていた。この生活の終焉。俺たちは二人とも、師匠の許にはいられないのだ。
シーナの心はきっと俺と同じだ。師匠の許に居たいはずだ。シーナの気持ちはどうなるんだよ。そういうものなのかもしれないが最初からこの話、シーナの気持ちは完全無視だよな。
「有利な縁談にするには、アルフォンシーナにいずれかの家名を付けなければならない。ティアティアーナ伯爵夫人は未亡人だしご高齢だから、アルフォンシーナを養女にして頂くには残念ながら少し弱い。伯爵未亡人には保証人になっていただくとして、後ろ盾となる後見人を他に探さなければ」
俺がシーナのことを好きなことくらい師匠はとっくの昔にお見通しのはずだ。
「しかしそちらの方はあまり急いでいない」
俺の顔を見つめながら、マキシムは付け加えた。
「男がアルフォンシーナを気に入れば、その男は何処からでも有力な養子縁組先を用意して婚礼を勝手に進めてくれるだろう」
それでいいのかマキシム。俺には何も出来ないのか。
「アルフォンシーナの幸福だけを祈っているよ」
俺が突っ立っていると、俺の心を読んだかのようにマキシムは云った。
昔から男たちはシーナを放ってはおかなかった。
或る日、邑を訪れていた旅の行商人の男がシーナに眼をつけ、連れて行こうとして失敗した。シーナはその場で魔法を揮い行商人の荷を水浸しにしたのだが、話はそれだけでは済まなかった。
それを知った俺はすぐに動いた。報復としてその男を攫ってくると夜の森の中で炙ってやることにしたのだ。
樹の枝から吊るした行商人の男を火傷しないぎりぎりの熱で炙ってやった。
こういう際には俺は魔法使いなのだなと想う。シーナに悪戯をした男の泣き声を聴いても俺はまったく同情しなかった。人間とても顔見知りのご近所さんを平気で火刑台に送るようなことをするのだから、どちらがより残忍な本性を有しているのかは分からないが。
その男は荷物をまとめてすぐに邑から消えた。
付添いのマキシムは俺の背後で俺のやることを見ていた。そろそろ赦してやるかと想った時、マキシムが進み出てきて、ひと際高く蒼い焔で男を炙り始めた。
悲鳴を上げている人間の男を見つめるマキシムの両眼は、炎影よりも昏く、森の奥よりも冷えていた。
「師匠」
魔都から帰る朝、紫水晶の塔の一室でようやく師匠と再会できた。
「ブラシウスと仲良くなったんだ。このまま一緒に帰ってブラシウスをうちの家に泊めてもいいかな」
師匠に訊くと、あっさり許可が出た。
しばし待つようにと云われて待っていると、マキシムからの伝言を携えて召使がやって来た。
師匠がツォレルン家に正式にお伺いを立てたところ、ツォレルン家の方からも許しが出たそうだ。
ブラシウスの許にも父親のクラウディウスからの伝言が届いていた。
「父上からだ。田舎の暮らしを見学して来いだってさ」
そういえばシーナの花婿候補のバルトロメウスとは一度も逢えなかったな。いいか、べつに。
帰りは列車を使おうということになった。ガリレオ滑降で無理をさせた箒を休ませたかったからだ。
「ブラシウスさま、お気をつけて」
魔界から出るまではツォレルン家の召使が付いて来たが、送り出された後は、俺たちだけで人間界を歩いた。目立たない路地奥の魔法使いの家から俺たちは人間界に出てくると、午後の便で帰ることにして、休日の古都をしばらく散策することにした。
「魔法使いだわ」
背中に箒を背負っていると街の人々が振り返る。畏怖と好奇心。女の子の視線がとくに心地よい。声を掛けてくれたら魔法を見せてあげるのに。
俺がホーエンツォレアン家と付き合いがあると知ると、ブラシウスがすぐに反応した。
「ホーエンツォレアン家の源流はツォレルンなんだ。中世に分岐した」
へえ。
「だから両家は縁戚のようなものだ。テオの姉弟子とバルトロメウス兄上の縁組が出てきたのは、その縁だろう」
「俺とシーナは棄子なんだ」
「それはきいた」
「師匠は俺をホーエンツォレアン家の養子にするつもりみたいだ」
「いいじゃないか。そうなったら俺とも親類だ」
ブラシウスは嬉しそうに笑ったが、しかしシーナの縁談に話が及ぶと、ブラシウスは歯切れが悪くなった。難しいのだろうかやっぱり。
「うん、そうだな」
護岸の上から流れる大河を眺めながら、ブラシウスは言葉を選んだ。
「バルトロメウス兄上は三男だし、父上母上もそんなに気難しい人たちではない。何といっても選帝侯の養い子だ。そこは悪くない。仮にその話が具体化するのであれば、家名の釣り合いを整えて、それでという感じかな」
ふうん。
駅舎近くの屋台で飲み物や軽食を買い込み、俺たちは列車に乗り込んだ。箒は対面座席の背凭れに立てて、すぐ前の席をとる。
「君の姉弟子は、どんな人なの」
「シーナ?」
シーナは俺の首を絞めたりするよ。
ちょうど一番端のホームから出発しようとしている機関車があった。蒸気を立てている。その機関車に駈け込むようにして乗り込んでいく一団がいた。その中に外套を羽織った少女がいて、深くボンネットを被っているのでよく見えないが、姿がやさしく、人混みの隙間から遠目にちらりと見えた顔がアルフォンシーナに似ていた。出発を告げる汽笛が鳴る。少女は抱え上げられるようにして客車の中に消えた。
俺は車窓越しにその少女をブラシウスに教えた。
「あんな感じ」
「へえ。可愛いね」
アルフォンシーナの美貌は都のどんな貴婦人にも引けを取らないと、シーナ贔屓のティアティアーナ伯爵未亡人が自慢気に請け合うが、澄ましかえっている時のシーナしか知らない人が云うことだからな。
「こちらも出発だ」
機関室から伝わる動力が大きな音を立てて車輪を回し、俺たちを乗せた列車が動き出した。
冴えない顔をして俺は最寄りの駅舎に降り立った。シーナに頼まれていた品を買い忘れていたことを想い出したのだ。
魔都のなんとか薬局の、何かの調合の、複雑怪奇な名の香水だ。その店にはそれしかないので求めれば出してくれるそうだから、名称をろくに憶えてない。
「大丈夫だって。後から俺が送ってやるよ」
箒にまたがったブラシウスが気楽に請け合った。こいつはシーナの怖さを知らない。
あの時になんで声を掛けなかったんだろう。あんなにも似ていたのに。あれはシーナだったのに。
陽が落ちてから辿り着いた家の中は小型の嵐が吹き抜けたかのようだった。いろんなものが壊れていた。暖炉の薪は敷物の上に出て散らばって砕け、椅子は倒れ、瀬戸物は卓から落ちて床の上で粉みじんになっていた。
そして、アルフォンシーナが消えていた。
「誘拐されたな」
家の中をひと目みて、ブラシウスが顔つきを厳しくした。
「ほら、ここに魔女が遺した伝言がある。危機を告げている」
床に転がった水晶珠は大きなひびが入って曇っていた。拾い上げると、シーナらしき影が大勢の影に取り囲まれて家から連れ出されるところをぼんやりと映し出した。ブラシウスは室内を見廻した。
「闘った形跡はあるが、多勢に無勢で君の姉弟子は押し包まれてしまったようだ」
師匠に知らせないと。俺はうろたえながらそう想った。師匠は所領地に寄ってから明後日帰ると云っていた。今頃マキシムは領地の屋敷に居るはずだ。領地。師匠の領地って何処にあるんだ?
考えてみれば師匠のことを俺はほとんど何も知らない。
「テオ。彼女を見かけた駅だ」
動揺している俺よりもブラシウスの方が頭が回っていた。
「出発地点の中央駅に戻ろう。そしてあの時刻にあのホームから出た機関車の行く先を調べよう」
ブラシウスは行動が早かった。俺の襟首を掴んで立たせると、ブラシウスは箒を押し付けた。
「追跡するぞ」
「とっくに車庫だろう」俺は項垂れた。
「いや、あの番線から出るのは外国行きだ。何処かで下車しているかも知れないが、魔女ならば何か手がかりを遺しているはずだ。略取誘拐の追尾は時間との戦いだぞ。それともこのまま家の中で項垂れておくのか」
ブラシウスの言うとおりだ。俺は箒を握った。そこへ、客人が訪れた。
》後篇(上)へ
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