第13話 『名前』

 知っている匂い。

 湿ったナニかが顔を舐めている――


 グレイシャルが目を開けると、そこには自分の上に乗ったサリーがいる。

 どうしてサリーが乗っかっているのかわからなかったが、とりあえず頭を撫でた。


 するとサリーは屋敷全体に響くような大声で、


「あおおおおーーーーん!!」


 と叫んだ――!



 ――――



「まったくもう! 朝は静かに起きなさいっていつも言っているでしょサリー! このおバカ!」


 気持ちの良い朝だから遠吠えをしただけなのに……。

 怒られたサリーはしゅんとしていた。


 気がつくと朝になっている。

 グレイシャルがカーテンを開けると眩しい朝日が差し込み、一瞬だが目が眩む。

 外を見ると雪は既に止み、晴れてはいたが、昨日降った雪は未だに積もっていた。


「ゆき、とけないね……」


「何言ってるの。夏ならともかく、冬なんだから融けるわけないじゃない。まあでも、しばらくお外で遊べないのは悲しいわね」


 二人は同じ感情を抱いていた。

 外で遊べない。それは子供にとっては致命的な問題だ。

 そしてそれは、サリーも例外ではなかった。


 サリーも窓から外を見て、悲しそうな声を上げる。


 二人はサリーを慰めるついでにもふもふを堪能した。


「そういえば今、何時だろ」


 リリエルが部屋の中を見回す。

 左、右、前。どこにも時計はない。

 この部屋にはないのだろうかと思ったが、一箇所だけ見ていないことに気がついた。

 

 後の壁だ。


 振り向いて上を見ると、そこには時計がかけてあった。


「えーと、今はぴったり朝の7時……。昨日寝たの何時だっけ。それに、いつグレイの部屋に来たのかしら」


 リリエルは昨日の記憶を辿るが、いくら遡っても食堂でクッキーを食べたところまでしか覚えていなかった。

 それはグレイシャルもだ。

 サリーは覚えていたが、人間の言葉は理解出来ても喋れないので伝えようが無い。


「ていうか、そもそもなんでグレイの家に私は居るんだったっけ」


 それすらも曖昧なリリエル。

 その間ももふもふは継続。


「あー……。あー? あ!! 思い出した!」


 リリエルは勢い良く立ち上がる。

 その反動でグレイシャルはベッドの上で転び、サリーは驚いて飛び降りた。


「なに? どうしたの?」


「どうしたの、じゃないわよ! 忘れちゃったの!? アリス様の出産! 赤ちゃんよ!」


 そこまで言われてグレイシャルも思い出す。

 そうだった。

 自分は昨夜アリスの出産の為に、教会にホルムとリリエルを迎えに行ったのだと。


「じゃあ、あかちゃん。どうなったんだろ!?」


「分からないから行くわよ! アリス様の部屋、向かいでしょ?」


「うん! いこ!」


 二人はグレイシャルの部屋を出て反対側のアリスの部屋に向かう。

 遅れてサリーも渋い顔しながら、トボトボと歩きだす。


「あかちゃん! どこだ!」


 勢いよくドアを開けると、そこには異様な光景が広がっていた。


 仰向けで白目を剥いて気絶しているカール。

 テーブルに倒れる様に寝ているサレナ。

 何かを抱いてベッドに座ったままのアリス。

 

 そして散らかったタオル。

 所々血も付いていた。


「おや、目覚めたか。昨日は随分と大変だったみたいだね。イサークから聞いたよ」


 一番近くに倒れていたカールを、落ちていた本で突いていたグレイシャルとリリエルに、後ろから声がかけられる。

 

声をかけた者、その人物は――


「ほるむおじいちゃん! おはよう!」


「お父さんおはよう!」


「あぁ、おはよう。赤子に用かな?」


 廊下をトボトボ歩いていたサリーを抱っこしている男。

 ホルムは二人が、朝早くからアリスの部屋にいる理由を見抜いていた。


「そうなの! 赤ちゃん何処? 生まれたんでしょ?」


 ホルムは短く「あぁ」と返事をする。

 そしてアリスの隣まで歩き、二人に近づいて来るように手招きをした。


 二人が近づくと、アリスの抱いていたモノの正体が明らかになる。

 腕の中に抱かれていたのは、両手を伸ばして何かを求めるかの様に声を出している赤子だった。


 カールと同じ緑色の瞳。

 アリスと同じ、金色に近い茶色の髪。


 そして――


「このこが、ぼくのいもうと……!」


「かわいわねー!」


 二人は赤子を見て興奮していた。

 柔らかいほっぺを指で突いたり、少し手で引き伸ばしてみたり、逆に押し潰してみたり……。

 赤子は嬉しかったのか、二人に触られて笑っていた。


「赤子はか弱い存在だ。親の庇護が無ければすぐにその生命の灯火は消えてしまう。二人とも、優しく大切に接するんだぞ」


 二人の頭を撫でながら、ホルムは扱い方を教える。


 さて、サリーを抱っこしていた筈なのに、ホルムは何故両手で二人を撫でられるのか。

 それは撫でる直前にサリーが、ホルムの腕から離れたからだ。


 そのサリーは今、三人の隙間を掻い潜りベッドに前足を置いて二本足で立っている。

 サリーも生まれたばかりの命というものに興味があるのだ。


 大切なにしてあげるように、サリーは優しく優しく、舌で赤子の顔を舐めた。


 その姿はまるで、赤子に「自分は怖くないぞ!」と伝えている様にも見えた。


 しかし、赤子はサリーの意思とは真逆に、口の中に見えた鋭い牙に恐怖してしまう。

 少しずつ震えだし、それは次第に大きくなった。


「あっ! 大変、泣いちゃいそうだわ!」


 リリエルがなんとかあやそうとするが時すでに遅し。

 赤子は大きな声を上げて泣いてしまう。


 サリーは驚きと申し訳無さを感じて「くぅーん……」と鳴き、いつもの悲しそうな声を出しながら、腹を見せるように寝転がった。

 彼なりに誠意を見せたのだろう。


 悲しきかな、赤子はそれでも泣き止まない。

 その声を最も近くで聞いていたアリスは、眠りから目が覚めてしまう。


「んー……。え? どうしてこの子泣いてるの!?」


 必死にあやすが泣き止まない。

 起きたらリリエルとグレイシャルが直ぐ側に居たことから、この二人が何かをしたのだとアリスは問い詰めた。


「ちょっと二人とも。赤ちゃん触るの良いけど、いじめてないでしょうねえ?」


 二人は首をブンブンと振って否定する。


「ぼくじゃない!」


「そうよ! サリー見なさい! 犯人よ!」


 濡れ衣を着せられカッとなり、アリスに敬語を忘れるリリエル。

 指を差し、真犯人はあいつだと言う。

 アリスがそっちを見ると、そこにはをしている狼がいた。


「えー……? ほんとなの?」


 にわかには信じがたいが、狼や犬が腹を見せるのは反省や降伏の意味がある。


「ほんとよ! 赤ちゃんのほっぺ見てよ!サリーが舐めたから濡れてるでしょ!」


 見てみると確かにサリーの唾液らしきものが付いていた。

 状況証拠は揃っている。


 ホルムは悲しんでいるサリーの元まで歩いた。

 そうしてしゃがみこみ、撫でながら慰めていた。



 ――――



 中々泣き止んでくれない赤子。

 三人は頭を悩ませていた。


「どうすれば泣き止んでくれるのかしら……」


 赤子を腕の中で揺らしながらアリスは困り果てる。

 

 とりあえず母乳を飲ませようとするが、赤子は全く飲む気配がない。


「空腹ではない。私は君たちが寝ている間にも世話をしていたからね。魔術を用いてではあるが、一応栄養は与えた。それも一時間前だ」


 サリーを撫でながらホルムが答える。

 それならばと、三人は再び考え始めた。


「あっ! ぼくわかった! なまえだよ! このこ、なまえがないからないてるんだ!」


「違うわよグレイ。赤ちゃんが泣いているのはサリーが怖がらせたからよ」


 リリエルに即答される。

 名案だと思っていたのをすぐに否定されて、グレイシャルは肩を落とした。


「いや、違くないかも知れないぞ。泣き始めた原因は確かにサリーだが、泣き止まない理由は恐らくサリーではない。なぜなら、恐怖の対象であるサリーはもう遠ざけたからね」


 再び口を挟むホルム。

 今度は寝そべるサリーを、床の上でグルグル回していた。


「自分の名前を呼ばれて君達は初めて、という存在を認識することが出来る。それはつまり、という証拠だ。それが無いから、その子は泣いているのだろう」


「そう! そうなの! あかちゃんはじぶんをにんしきして、しょうこなの!」


 支離滅裂で言葉にすらなっていないが、味方を得たりと意気揚々なグレイシャル。


「お父さんの言ったこと難しくて全然分かってないじゃない! 私も分からないけど!」


 リリエルは「えい」と言い、グレイシャルのお尻を優しく叩く。

 黙ってみていたアリスがホルムに問う。


「でも、赤ちゃんがそこまで考えられるとは思えないんだけど……」


「なに、難しく言いはしたが簡単なことだ。要は『』というだけのこと。原初的な欲求だ――」


 ホルムは寂しげに笑い、それ以上は言わなかった。


 その言い分にも一理あると考え、アリスは名前を付けることにする。


「そうね……。どっちにしても名前は必要だし、いい機会だし付けましょうか。二人とも、手伝ってくれる?」


 アリスは部屋の中でお尻を叩かれまいと逃げているグレイシャルと、それを追うリリエルに手伝いを求めた。

 二人は争いをやめ、赤子を抱くアリスの元に駆け寄る。


「まずお母さんから言うわね。こういう名前はどう? 優しく強く、美しくなってほしいという願いから、サーへレオ・アラデ=アラル・ファーガリン……」


「ながいよ!」


「長いわね」


 アリスの提案は一瞬にして却下される。

 渾身の名前を否定され、溜息を付きながら俯く。


「じゃあ次は私ね! でも、そうねえ……。女の子だからやっぱり可愛くなって欲しいわよね。じゃあ、ソフィーなんて名前どう?」


「私の妹の名前がソフィアで、似てるから却下」


「なんでよー!!」


 ベッドをバンバンと叩き悔しがる。

 アリスはしたり顔をして悪そうな目つきをしていた。


「つぎはぼくだ! ぼくはもうきまってる! おんなのこだから、されな!」


「それサリーのときも言ったでしょ! ダメよ!却下却下!」


「グレイ、真面目に考えなさい!」


 二人に両頬をつねられてグレイシャルは涙目になる。


「ふえぇ……」


 涙をこらえながら両手で両頬を抑える。


 その後三人はあーでもない、こーでもないと言い合った。


 ホルムはというと……。

 我関せずという感じで、寝そべるサリーを吸うかの如く、自らも横になり毛に顔を埋めていた。



 ――



「もー、なんならいいのよ、グレイのお母さんは!」


 三人は言い合いに次ぐ言い合いで息を切らしていた。


「ぼくのときはなんですぐきまったの?」


「グレイの時はカールが決めてくれたからよ。私も『これだ!』って思って、特に反論とかしなかったし。でも今あの人は……」


 アリスが見つめる先を、同じように見る二人。

 そこにいたのは、未だに白目をむいて倒れているカールだった。

 事情を知らない人が見れば領主暗殺事件かなにかと勘違いするかも知れない。


「起こした方がいいんじゃ……?」


 リリエルは提言するが、アリスは首を横に振った。


「カールはサレナと一緒にすごい頑張ってくれたから、今は寝かせてあげて。それにいつも仕事ばっかりであまり寝れてないもの」


「そうなんだ……」


 それならば仕方ないと、リリエルは納得する。

 どうしたものかと悩んでいた時、グレイシャルがあることに気づく。


「ねえ、ぼくわかっちゃった!」


 何に、とは言わずにグレイシャルの話を二人は聞く。


「このこ、ぼくのなまえと、おとうさんのなまえと、りりえるのときだけはんのうしてたの」


「「そうだっけ?」」という顔で二人は首を傾げた。

 が、グレイシャルは気にせず続ける。


「それでね。ぼくかんがえたんだ。ぼくたちのときだけ、なんではんのうするかって。それでわかったんだ」


 何がわかったのだ。何をわかったというのだ。

 早く言葉を続けろ言う顔で、無言の催促をする二人。


「そのこ。なまえに『る』がはいってるときだけ、ちがうはんのうをするんだ。みてて」


 グレイシャルはそう言うと、ベッドに上がり赤子を見下ろす。


「るるるるるー!るるるー!」


 グレイシャルが一音だけを発声し続ける。

 なにも変わらないじゃないか――


 二人がそう言おうとしたその時だった。


「あーうー! あ……」


 赤子が泣き止んだのだ。

 さっきまで何をしても泣き止まなかった赤子が『る』と言っただけで、だ。


「ほらね! このこは『る』がすきなんだよ! だから、こんななまえはどう?」


 グレイシャルは赤子に告げる。

 大きく息を吸い込み、呼吸を整え、満面の笑みで。


「きみはるる! るる・ふりーどべるく! どう?」


 それに呼応するかのように赤子は笑ったのだ。

 先程まで泣き声で包まれていた部屋は、今や赤子の笑い声で満たされていた。


「きにいった? きにいったでしょ!」


 赤子は……。

 いや、ルルはその名前を気に入ったようだった。


「よかったわね、ルル。お兄ちゃんが名前つけてくれたわよ?」


 アリスはルルを愛おしそうに抱きしめた。


「あ! ちょっと! 私にもルル抱っこさせて! 私もお姉ちゃんよ!」


 アリスだけずっと触っててずるいと叫びながら、リリエルもベッドに上った。


 サリーを枕代わりにしてその光景を眺めていたホルムは、白目を剥いて倒れて男に話しかける。


「変わった名前だね。私が知る限りルルという名前は彼女以外、君の娘の他に誰も持ってないだろう。しかし、とても可愛らしい名だ。偉大なる山の名前を授かりし兄と、何者とも被らない唯一無二の名を持つ妹。実に、君の血縁らしいよ。カール」


「そいつはどうも、ホルム大司教サマ。僕のことも、いつもそれくらい褒めてほしいんだけどねえ」


「君は甘やかすとダメになるタイプだからな。まあ、考えておこう」


 男は笑い、女たちは喜んでいた。

 吹雪の後の、嘘のような晴天の日。


 ルル・フリードベルクはこの世に生を受けた。

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