第5話 種明かし
建物の二階には、外側の階段から上ることができた。
今牙人の目の前にある、安っぽい金属の扉。随分使い古されているのか、ドアノブの塗装は剥げかかっていて、下の方には小さなへこみもある。
この先には、栞と同じ能力者とやらが複数人いるという。
この世の法則から外れた力を持つ者たち——。
……この某探偵漫画のような小さな事務所のせいで、あまり恐ろしさは感じないが。
「それじゃあ、開けるぞ。まあ、狼谷のことはみんなには
「そうか、それは助かるな」
そう口にしたところで、ふと疑問に思う。
——栞は、道中連絡をするそぶりは見せていただろうか……。
しかし、牙人がそれを尋ねる前に、扉は手前に開かれていた。蝶番が小さく呻く。
「ただいま」
「おかえりなさい、寺崎さん」
開いた扉の中から、少し無機質な女性の声が飛んでくる。
鈴のような可愛らしい声だが、抑揚が少なく機械的だ。
「大変でしたね。ご無事のようで何よりです」
「ありがとう、りこさん。少しわき腹を痛めたんだけど、あとでお願いできるかな?」
「はい。お任せください」
扉の前で栞と話していた声の正体は、中学生くらいの少女だった。
というか、服装は中学の制服そのままだ。夏用の白いセーラー服に、膝下まであるスカート。
少し茶色がかった髪を可愛らしく小さめにツインテールにしていて、少し幼さの残る顔は表情が薄く、冷たい印象を受ける。
「彼女は……」
「初めまして、
栞の紹介を遮って、少女——りこが前に出る。
「狼谷さん。寺崎さんを助けていただき、ありがとうございました」
りこはそう言うと、深々と頭を下げた。
初対面の少女からの突然のかしこまったお辞儀に、少し面食らう。
「……別にいいよ。俺はやられそうだったからやり返しただけだし」
なんだか体がむずがゆくなって、牙人は視線を逸らした。
「それでも、心から感謝いたします」
「……」
「しかし、申し訳ありませんが規則は規則ですので、狼谷さんには能力者届を提出していただきます」
「やっぱりそれは決定事項なんだな……」
わかってはいたが、何となく釈然としない。
今りこの言った、能力者届の提出というのが、国に能力者として登録を行うということになるのだろう。
「他の方々は奥でお待ちです」
やはり表情筋をぴくりとも動かさないりこに連れられ、牙人と栞は木製の扉の前に立った。
目の高さのあたりに、銀色のプレートに黒い明朝体で「会議室」と綴られている。
中からは、少し話し声が漏れている。
「えーなになに、じゃあ、身体強化系の能力ってこと?」
「いや、そうとも限らねえぞ。……ま、そいつが来たらわかることだ」
前者は甘めの女の、後者は渋い男の声だ。
部屋の中にはもう一つ気配を感じるが、声は聞こえてこない。
どうやら、話題は牙人についてのようだ。
自分の話を盗み聞きするのは、腹の奥がどうも落ち着かない。
そう思っていると、栞が扉を二回、手の甲で叩いた。
「お、帰ってきたか。入れ入れ」
先程の低い男の声が言ったのを聞いて、栞はドアノブをひねって手前に引いた。
適度に冷やされた部屋の空気が腕に薙ぐ。
まず目に入るのは、なるほど会議室にふさわしい大きな長机とパイプ椅子。
当然、椅子には三人の人影が腰かけていた。
正面には少し黒い汚れの残るホワイトボードがあって、全体的に簡素な印象だ。
「ただいま」
「栞ー! 無事でよかったよー!」
「わぷっ」
栞が部屋に足を踏み入れた瞬間、ガタリという音とともに大きな声がして、何かが勢いよく栞の胸元に飛び込んできた。
その何かは、栞の背中に腕を回して熱烈なハグをした後、これまた俊敏な動きで肩をつかんで顔を上げた。
「おっきいけがもないみたいだし……あいつらに襲われたって聞いたときは、心臓止まりかけたよ! 救急搬送だよ!」
「……ああ。すまない、
結論から言えば、その正体は中から聞こえていた声の女性の方だったわけだが、突然繰り広げられた熱い抱擁の光景に、牙人はあっけにとられていた。
クールで背の高い栞とは対照的に、小柄な体にぱっちりとした大きな目。
染めているであろう、うっすらと赤みがかった髪はセミロングにカットされていて、悪戯好きの猫のようなオーラを感じる。
そんな彼女の後ろでは、パイプ椅子が哀愁を漂わせて床に横たわっていた。
先程の音の正体は、この椅子を蹴ったことによるものだったらしい。
「あっ、君が栞を助けてくれた人か!」
「うおっ」
栞に千春と呼ばれていた薄い赤髪の女性が、今しがた牙人の存在に気がついたといったふうに叫んだ。
牙人の前まで来ると、ずいっと顔を近づけてきて、牙人は思わず後ろにのけぞった。
ふわりと柑橘系の甘い香りが鼻腔をくすぐる。距離が近いタイプだ。
何がとは言わないが、体のすぐ近くに大きなものが揺れている。
これは……何というか、もう凶器だ。
思わず、男の
「ありがとうね、
「人狼?」
「うん、狼みたいになったって聞いたから、人狼くん」
「はあ……」
なんだか妙なあだ名をつけられてしまった。
確かに、“狼怪人”なのだから、人狼という認識は間違っているわけではないのだが。
「わたしは
千春は少し芝居がかった調子でそう言ってから、ひまわりが咲くように笑った。
「なんかもう知ってるみたいですけど、狼谷牙人です。……てか、なんでもう情報が伝わってるんだ? 寺崎が連絡してたのは見なかったんだが」
「ああ、それはねえ……」
「——そりゃあ、こいつの異能力だ」
牙人の素朴な疑問に答えようとした千春を、低い男の声が遮った。
「隊長~。わたしの台詞盗らないでよぉ」
「ははは、すまんすまん」
声の主は、最奥の椅子に腰かける、四十歳くらいに見える大柄な男だ。
目つきの鋭い、いわゆる強面で、黒い襟付きのシャツの合間から、鍛え上げられたしめ縄のような筋肉が覗いている。
たばこのにおいと、ほのかに混ざる砂のにおい。
腕から首筋にかけて赤っぽく変色した大きな傷跡があり、街中で会ったらまず間違いなくヤのつくおっさんだと思うだろう。
「俺はこいつらをまとめてる
有悟が指し示した先には、横長の四角い眼鏡をかけた青年が座っていた。
長い前髪が目元にかかりそうになっていて、自信がなさそうに眉が下がっている。
よれよれのグレーのジャージを着ていて、なんとなくネズミのようだ、と牙人は思った。
「あ……ど、どうも、はじめまして」
牙人に視線を向けられた渉は、おどおどと目を逸らしながら、小さな声で早口にそう言った。
「五十嵐の異能力は、“
なるほど、それで合点がいった。
抱えていた違和感が解消され、パズル完成時の満足感が体を包む。
おそらく誰もが一度は夢見た力だろう。
彼の異能力を通して、栞から彼らに牙人の情報が伝えられたと。
なかなかすごい力だと思うのだが、当の渉は胸を張るでもなく、むしろ自分を世界から隠そうとするかのように縮こまっている。
白い机の上に視線をさまよわせ、やがて突っ伏してしまった。
「……とまあ、それが種明かしってわけだ」
「——隊長、彼を」
「ん? ああ、わかってるよ。悪いな、狼谷。ちょいとこっちの部屋に来てくれや」
栞の言葉に応じて、有悟が向かって右側を親指で示す。
——その先に見える怪しげな黒い扉の上には、「ラボ」の文字があった。
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