第1章 悪の怪人は異能力者の夢を見るか?
第1話 コンソメと予兆
静岡県東部、伊豆地域に、
三角形に近い形をした、「平成の大合併」の際に唯一の「
なお、このことについては、住民からは、「この町しか田方郡がないのに、住所書くときにわざわざ田方郡って書くのバカらしい」と不評である。
周囲には三島市や熱海市、沼津市などそこそこの有名な市が並んでいるのだが、それらに囲まれるような位置のこの町は、なぜかパッとせず、知名度はお世辞にも高いとは言えない。
特産は牛乳やいちご、すいかなど。
特にこれといって有名な観光スポットはないが、強いて言うならば北の方、
しかし、パッとしないなりに、生活に潤いを与える施設などは割と充実しており、人によってはいい場所と感じるのやもしれない。
そんなパッとしない町の交差点付近のファミレスで、これまたパッとしない青年がアルバイトをしていた。
体格は中肉中背。セットなどしていない、少し後ろ髪の跳ねた頭と、やる気のなさそうな目つき。頬には刃物でついたかのような切り傷があるが、古い傷なのか近くで見ないとあまりわからない。
店の制服であるオレンジ色の衣装に身を包んだ彼は、お世辞にも人生を楽しんでいそうな人間には見えなかった。
彼の名は
二十一歳の高卒。
主にこの店と工事現場のバイトで生計を立てる、いわゆるフリーターだ。
「狼谷くん、六番テーブルのオーダーお願い!」
「うす」
牙人は短く返事をすると、飛んできた指示通りに四人家族の座るテーブルに向かう。
時刻は十八時。客数が激増する、飲食店のゴールデンタイムである。
店内は適度な騒がしさと忙しさに包まれ、様々な人々が思い思いに食事を楽しんでいた。
しかし、そんな平和な風景でも……。
「おっとっと……おわぁ!? あっぶない……」
……ちょっとした事故の予兆は潜んでいたりする。
オーダーに向かおうとした牙人の前で、いくつもの料理を手に、今にも転びそうに危なっかしく歩くウェイターは、牙人の先輩アルバイターの
いつも目が笑っているように細められていて、地毛らしい茶髪にゆるくウェーブをかけた明るい雰囲気の女性だ。
細かいことを気にしない性格で誰に対しても優しく、彼女目当てで来る客も少なくない。
そんな明日香は今、誰が見ても多すぎる皿を一人で抱えて、ふらふらと足を進めていく。
コミカルによろけながら皿を運ぶ明日香は、さながら酔っ払いのようだ。
誰か手伝う人はいないのかと周囲を見回すが、従業員は誰もが自分の仕事で精一杯で、明日香のピンチに気づく様子はない。どうやら、近くにいる自分がカバーに入るしかなさそうだ。
「……あの」
「あ、後輩くんいいところにぃいいっ!?︎」
「あ」
突然バランスを崩す明日香。
どうやら、牙人の方に体を向けようとして足がもつれたようだ。
可愛らしい間抜け面をした彼女の体が、倒れそうな体を何とか持ちこたえる。
しかし、彼女の手にあった四枚の皿は、土台を失ったことで無情にも宙を舞って……。
「ああぁっ!」
落ち——なかった。
まず右手で、空中で大きく傾いたキノコスパゲッティを水平に戻しながらキャッチ。
次に、比較的そのままの状態で落ちたデミグラスハンバーグを左ひざで支える。
続いて、完全にひっくり返ってしまったピラフの皿を下に滑り込ませつつ左手でつかみ。
最後に、ゆっくりと落ちてきた冷製スープを……。
「……ぁえ?」
「……気を付けてくださいよ、宗像さん」
……頭からかぶって濡れねずみになった牙人が、心なしかさらに生気を失ったように見える目で言った。
「何だあれ!?︎ おい、今の見たか?」
「すっげえ、ほとんど救ったじゃん!」
「……けど、最後がなぁ」
「びっしょびしょじゃん」
「なんかスポーツやってたのかな?」
冴えない店員の突然の大活躍に、にわかにどよめきに包まれる店内。
いくつか失笑も混じっていた気もするが、気にしないことにする。
大事なのは周囲の評価ではないと、いろんな人が言っていた。たぶん。
野次馬たちの不躾な声よりも、ぼたぼたと雫の垂れるずぶ濡れの体が、なんとも言えない不快感を与えてくる。
「あ、ありがとう」
「お礼は体で」
「お、お? 後輩くんもあたしの魅力に」
「冗談です。寝言言ってないで、かろうじて救えた三つの皿をお願いします」
「ごめんごめん……って、君が言ったんでしょ!?︎」
とりあえず、明日香に三つの皿とオーダーの交代を頼んで、店長に「着替えてきます」とだけ言ってスタッフルームに引っ込む。
「うん……今日はもう上がっていいよ」
「……うす」
苦笑してサムズアップした店長に無表情でサムズアップを返し、ドアを閉めた。
「……へっくしっ」
深緑色のTシャツと使い古したジーンズに着替えた牙人がスタッフルームから出ると、ドアのそばに明日香が立っていた。
「いやー、さっきはありがとね。助かったよ」
「いいですよ。あのままじゃ大惨事でめんどくさかったし……けど」
「ん?」
「酒臭いですよ、宗像さん。そんなんだから転ぶんですよ」
そう、彼女は大の酒好きだ。今も吐く息からアルコールの独特のにおいがする。
「あれぇ? 今日もミントガム噛んできたのに……。後輩くんは相変わらず鼻が利くなあ」
「そりゃどうも。お酒はほどほどに。……じゃ、俺は上がります」
「あーい、お疲れい」
あまり悪びれた様子のない、いい加減な先輩にひらひらと手を振って、牙人はファミレスを後にする。
ほのかにコンソメの香りを漂わせながら……。
人気の少ない電車の中で一息つくと、何となくこの一年間を振り返ってみた。
特に理由はない。ただ、少し現実から意識を離したかっただけだ。
あるいは、濡れねずみになったことで、
本当にいろいろあった一年だった。初めの頃は、慣れないことばかりで苦労したものだ。
元の職場がとある事情でなくなってからというもの、もう一年近くあのファミレスでバイトしているわけだが、今日のようなことはそう何度も起こるものではない。今日は特に客が多く、忙しかった。
「まあ、夏休みだもんな」
今日は八月三日。
勉学に励む、あるいは青春を満喫する学生諸君にとっては、憩いの長期休暇の序盤である。
高卒の自分は、大学分の四回の夏休みを損したことになるのでは? と、どうでもいいことを考えながら、三島広小路駅で列車を降りる。
仕事を終えた牙人の足取りは軽く、上機嫌に鼻歌を歌いながら、自宅アパートを目指す。
しかし、途中の息継ぎでコンソメのにおいを嗅ぎ取り、乾いた笑みを漏らす。
——と。
「ん?」
ふと、人の叫び声のような音が聞こえた気がして、牙人は足を止めた。
普通の人ならば気づかないだろう、小さな声。
「……」
やはり聞き間違いではない。自慢じゃないが、耳には多少自信がある。
自分には関係ない、とも思ったが、ここでスルーして、明日の朝のニュースになっていたりすると寝覚めが悪い。一日の始まりを気分よく迎えるのは大事だ。
そう自分に言い聞かせて、しぶしぶといった様子で、牙人は声の聞こえた方向に向かうことにした。
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