あなたのおかげで
TK
あなたのおかげで
「ねー、お腹すいたよ」
猫年齢で言えば15歳のメス人間は、私のために毎日ご飯を用意してくれていた。
だけど、ここ数日、全く用意してくれる気配がない。
というより、ずっと寝ているのだ。
まあ私も暇さえあれば寝ているから、文句を言える立場じゃない。
だけど、さすがに空腹の限界がきている。
「ねー、起きて」
体の上に乗って跳ねても、全く起きてこない。
事態は上手く飲み込めないが、もう二度とご飯を用意してくれないような気がした。
「・・・じゃ、外でご飯を探してくるからね」
僅かに開いたドアをすり抜け、未知の世界へと飛び込んだ。
***
私は物心をついたときから、ずっとあの家で暮らしてきた。
父の顔も母の顔も知らない。
多分兄妹がいるような気もするが、一度たりとも会ったことはない。
だけど、彼女が優しく接してくれたことで、私はとても幸せだった。
ずっとこの幸せが続くと思っていたが、急に終わりが来てしまって、すごく悲しい。
いや、終わりが来たこと自体が悲しいんじゃないと思う。
なぜ急に終わりが来たのか。
その理由が全く把握できずに、ただひたすらに彷徨う自分が悲しかった。
***
「あっ、人間だ!」
オス人間が、一人で公園のベンチに座っている。
たぶん近くに行けば、ご飯をくれるのだろう。
「ねー、お腹すいた」
鳴き声を上げながら近づいた途端、オス人間は右耳の付け根に何かを押し当ててきた。
「!!!!!熱い!」
初めて感じる強烈な痛みに、一瞬意識が飛びそうになる。
コイツは今、私に何をした?なぜご飯をくれない?
一体何が起こっているのか。閉じられた世界で生きてきた私には理解できなかった。
ただ、ハッキリしていることもある。
それは、目の前にいる人間は敵であるということだ。
二の矢が放たれる前に、私は一目散に駆け出した。
***
辺りは、もうすっかり暗くなっている。
ご飯には、ありつけていない。
もう、限界だ。
空腹で倒れそうな状況に加えて、人間に対する恐怖心も植え付けられた。
数年に渡って私の生命を維持してくれた人間が、手のひらを返したように私に襲いかかってくる。
これが、どれほどの恐怖かわかるだろうか?
もちろん、生命の維持に携わった人間と、襲いかかってきた人間は別人だ。
とはいえ、同じ「人間」という動物だろう?
なぜここまで対応が異なるのか?まさか、外の世界の人間は皆こうなのか?
人間に対する知識があまりにも不足している私は、現状をネガティブにしか捉えられなかった。
「あー、マジで倒れそう・・・」
茂みの中でそう弱音を吐くと、近くにいた冴えないオス人間が歩みを止め、こっちに近づいてきた。
「ヤバい!来る。・・・あっ」
茂みをかき分けられ、完全に目が合ってしまった。緊張が走る。
この状況をどう乗り切ろうか逡巡していると、オス人間が手を伸ばしてきた。
その瞬間、右耳の付け根の傷が、苦々しい記憶を呼び起こすように疼く。
「や、やめて!」
満身創痍の体で思い切り威嚇すると、オス人間は手を引いた。
ただ、虚勢を張っているのがバレたのか、それとも小柄な私に最初から驚異など感じていないのか。
オス人間は全くビビらないどころか、同情心さえ感じさせるような表情でこっちを見ている。
そして、再びオス人間は手を伸ばしてきた。
「こ、こうなったら!」
もう、なりふり構ってはいられない。
伸ばされた右手首に、渾身の力で噛みついた。
「・・・だめだ。全然効いてない」
オス人間は怯むどころか、私のことを左手でヒョイと抱えてしまった。
「・・・もう、どうにでもなれ」
諦めの感情に包まれる中、私は何処かへと運ばれていった。
***
「ちょっと、何すんの!」
運ばれてきた場所で、私は別のオス人間にこねくり回された。針を刺された。
「やめて!」
もう、私は多分助からない。だけど、このまま終わるのも嫌だ。
最後の悪あがきとして、腕を引っ掻きまくってやった。ざまあみろ。
虚しい抵抗をし終えると、私はしばし放置された。
「・・・あれ?助かった」
キョトンとしている私を横目に、2人はずっと何かを話している。
話の途中、冴えないオス人間は何かに驚いた様子を見せたが、すぐに信頼の表情へと変わった。
一体、何が話し込まれているのだろう。
状況が全く飲み込めなかったが、なんとなく、ひどい仕打ちを受けることはない気はした。
まあ、針を刺されたりはしたんだけど・・・。
この人達は仲間なのか敵なのか、今私は、かなり疑心暗鬼になっている。
ただ、今の私に抵抗する力はない。もう、身を委ねるしかないのだ。
話し合いが終わると、冴えない方が私をバッグに押し込み、そのまま何処かへと向かっていった。
***
多分だけど、ここは冴えないオス人間の家だ。
家に着いたってことは、今までのようにお世話してもらえるってこと?
いやいや、油断するな。
なんの前触れも無く、人間は危害を加えてくることもある。
あんな経験、もう二度としたくないよ。大丈夫かな・・・。
バッグの中で不安に震えていると、オス人間は私の顔を覗いてくる。
「な、なによ」
見てきたから、睨み返してやった。
とにかく舐められないようにと、必死に抗う。
虚勢を張っていると、不意にバッグの出口が開いた。
「い、今だ!」
一目散に駆け出し、部屋の隅に逃げる。
このオス人間は仲間なのか敵なのか、今のところわからない。
だから、とりあえず距離を取っておくべきだろう。
ただ、所詮は部屋の中だ。
オス人間は一瞬にして距離を詰めてくる。
たまらず威嚇すると、すぐに身を引いてくれた。
「・・・何を考えているんだろう?」
強引に連れ去ることもあれば、威嚇一つで身を引くこともある。
このオス人間の思考が、全く読めない。
「あっ・・・」
突然オス人間が、私から随分と離れた場所にエサとトイレを用意しだした。
おまけに、申し訳程度の座布団まで置いている。
「ご、ご飯!」
ということは、コイツは仲間なのだろうか?
そう思いながら近づこうと思ったけど、体が全く動かない。
理屈では大丈夫と思っていても、本能がそれを拒絶する。
人間との距離が詰められない。
身動きが取れないでいると、オス人間はどことなく祈るような表情で眠りについた。
「お!今がチャンス」
この機を逃すまいと、品性をかなぐり捨てエサを貪った。
***
「・・・あっ、起きてきた」
・・・だめだ、ごめん、まだ君には慣れないみたい。
近づいてみようと思ったが、本能はそれを受けつけない。
優しさを振りまいてくれる人を拒絶する本能が、この上なく憎かった。
私は座布団から素早く起き上がり、逃げるように部屋の隅へと向かう。
すると、なぜかオス人間は勢いよく私に近づいてきた。
「きゅ、急に近づかないで!」
威嚇すると、オス人間は身を引く。
悲しそうな表情を見せられ、私も悲しくなる。
ただ、オス人間はすぐに気を取り直し、右耳の付け根にある傷が映らないように、左側から写真を撮り始めた。
おそらく、私が携えている傷は、多くの人間にとってショッキングなものなのだろう。
だから君は、その傷が映らないように、左側から撮るんだよね。
私の写真を、一体何に使うのかは全くわからない。
それでも、私のためにやってくれていることだけは、なんとなくわかる。
この時点で、この人はおそらく仲間なのだろうと思えた。
この人からは、あの日の残虐性は微塵も感じられない。
あとは、私の心次第だ。
どう歩み寄ろうかと逡巡していると、エサを足しトイレを掃除した彼は、そそくさと出かけてしまった。
「・・・まあ、ちょっとずつ歩み寄ればいいか」
情けなさと罪悪感を抱えながら、エサを頂いた。
***
「・・・あっ、帰ってきた」
彼に歩み寄ろうと思ったが、まだ本能が邪魔をする。
結局私は、再び定位置で縮こまってしまった。
彼は近づこうとしてくるが、やはり理屈じゃどうにもならず、無意識に睨んでしまう。
その動作を見て、彼は悲しげに身を引く。
ただ、不思議と、彼の表情には希望を感じさせるような晴れやかさがあった。
一体どんな想いを抱いているのか、本当によくわからない。
まだまだ私達の間には、混沌とした溝がある。
それでも、彼は彼なりに、私と接する中でなにか良いものを得ているのだろう。
一方私は、情けなくも怯えたままだ。
たった1つの出来事が、その後の行動を決定づけてしまうという残酷な事実に、私は抗う術を持っていなかった。
「・・・はあ、あのクソ人間のせいだわ」
まあこうなった要因は、あのクソ人間にあるのも事実だ。
罪悪感から目を逸らす私を横目に、相変わらず彼は、私の生活空間を整えてくれていた。
***
「うーん、だいぶ残しちゃったな・・・」
定位置で縮こまっている時間が多かったこともあり、全然お腹が空かない。
結局、昨夜に用意されたエサをほとんどそのままにしてしまった。
「あっ、起きてきた・・・」
彼は体を起こすと、やや青ざめた表情で、ほとんど減っていないエサをじっと見ている。
ごめん、お腹空いてなくてさ。残しちゃいました。
まあ、後で食べるからそのままでいいよ。
お腹が空いていない。だからご飯を残した。
当たり前過ぎる自然の摂理なのだが、なぜか彼は狼狽えている。
私の体調が悪いと勘違いしているのか、近づいて様子を伺おうとしてくる。
「な、なにをそんなに慌てているの?」
接近されたことに一瞬怯んだが、もう威嚇するようなことはなかった。
本能が、彼の優しさに気づき始めたようだ。
彼は幾分かの逡巡を挟むと、どこかに電話し始めた。
「・・・あっ、なんか最後にめっちゃ下品なこと言った気がする」
人間の言葉は一切わからないが、切り際の一言には確かな怒気がまとわりついていた。
おそらく、言っちゃいけないことを言ったに違いない。
彼は急いで私をバッグに押し込み、家を飛び出した。
***
前回針を刺された場所に、私は再び連れてこられた。
良い思い出は1つもないが、不思議と嫌悪感が湧いてこない。
彼は具体的に何をしたくて、私をここに運んだのか。
対面している目上のオス人間は、具体的にどんな目的で私をこねくり回すのか。
ハッキリしたことは、未だに何もわからない。
だけど、彼らが私の仲間であることは、もう間違いなかった。
彼らの一挙手一投足に、愛を感じる。この愛を滲み出せる存在が、敵なわけがないのだ。
話し込みの最中、彼は冴えない表情を見せた。
それを見た目上のオス人間は、多少の厳しさを交えつつ愛を投げかける。
いつまでも見てられる。そんな微笑ましい光景だ。
「・・・この場所、好きかも」
再び訪れる日が来ることを確信しつつ、私と彼はこの場所をあとにした。
***
家につくと、彼はスマホと睨み合い、表情に影を落とす。
そして私をバッグから開放すると、ドア前にへたり込んでしまった。
嘲笑・滑稽・馬鹿馬鹿しさ。
内面から抉ってくるような想いが、全身から滲み出ている。
・・・私はまだ彼に、何も返せていない。
というより、猫なのだから、何も返せなくて当たり前なのかもしれない。
だけど、精一杯甘えることくらいはできるはずだ。
たったそれだけのことでも、なんだか今の彼を救える気がする。
勇気を出せ!私!
「し、失礼しまーす!」
私は彼の膝の上に乗り、以前噛みついてしまった箇所をペロペロと舐めた。
「この前はごめんなさい。あなたのおかげで、私は今とても幸せです。ありがとう」
感謝の想いを浮かべた途端に、彼が私の体を優しく撫でてくる。
安堵の表情に満ちた彼はとても穏やかで、そこにいてくれるだけで、心の傷が一掃されていった。
「もう、このまま寝ちゃっていいか・・・」
凍てつく冬の寒さを僅かに残す、初春の日の巡り合わせに感謝しながら、私はスヤスヤと眠りについた。
あなたのおかげで TK @tk20220924
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