嘘つきファルクマンの伝説
垂水わらび
第1話 聖女奪還作戦
「毒婦アストリッド・ショーグレン。聖女の名を騙ったかどで、処刑する」
私はこのエークルンド王国の聖女だったはずなのに。
二十八で火あぶりの刑を宣告され、明日執行される。
もう涙も流れない。
何もかも、前王ラスムス十五世オリヴェルが射抜かれたときに終わった。
オリヴェルが倒れたと聞いたヘルシンボリ公爵ファルクマン将軍は、一気に兵を進め、ノルム王国の王宮を制圧し、十年間にわたるノルム侵略戦争には勝った。十年前、我が国はノルム王国に侵略されたが、今ノルム王国とエークルンド王国は連合王国になり、同じ少王アドルフを頂く。
なのに、肝心のオリヴェルはいない。
王妃、いや王太妃ブリュンヒルデは私を責めた。
通常、歴代国王「ラスムス」が亡くなったときに聖女は、引退するものだ。
そして最高神の神託を受けた新たな聖女が選ばれ、新国王に戴冠して、新しい時代が幕開ける。
だが、ラスムス十五世オリヴェルの聖女アストリッドは、王太妃ブリュンヒルデによって弾劾された。
偽聖女。
毒婦。
そもそも、王を守ることができなかったのだから。
私は罪を認めた。
「私は聖女ではない。最高神の神託などなかった。ただの女」
王を愛したただの女。
私は薄暗い牢の、明かり取りをというよりも、空気孔にしか見えぬものから入ってくる薄明かりを見つめた。
そろそろ白夜だ。
戦争中も、白夜祭りを陣営の中でささやかに行ってきた。
聖女の祝福の、祈りの舞だ。
オリヴェルは私の踊りに合わせてリュートを弾いた。
戦況が落ち着いた年には、カーリンが調子っ外れの歌を歌い、オリヴェルが変な顔をするのを合図に、将兵ががなりたてるのだ。
そのカーリンも、私の裁判のために帰ってくると伝言があったのに、帰ってこなかった。
「囚人番号、」
瞑想していると牢番の声が聞こえてくる。夕飯を配っているのだ。
今夜もまた狂女の叫び声を聞きながら眠るのだろう。
何日前になるだろうか。酔っ払った女が目を覚ませと牢屋に入れられたのはいいけれど、私の牢獄の入り口にドンとぶつかってきた。
「最高神のご加護を」
口癖でつぶやいた。
最高神が一番初めに救うべきは、こういう人たちだろうに。
私は最高神への恨みは言わない。
最高神の加護などないのだから。
恨み言も感謝も述べずに、ボソボソとしたパンと吐瀉物のようなシチューを詰め込んだ。
私が食べなかったらきっと牢番が罰せられるだろうから。
オリヴェル。
もうすぐ私もそばに行きます。
複数の馬の蹄の音と、体が揺れるので目が覚めた。
処刑場に行くのだろうか。
だが、私の全身は大きなカゴに入っていて、嗅ぎ慣れた藁の匂いがする。
私は藁の中に入っていた。
藁は結構な重みになる。
だが、藁の中に大きなカゴが入れてあって、私はその中に入っているので重くはない。
もう、処刑されたのかと、光が見える方向にぞもぞとかき分けてみると、外が見えた。
今の季節は麦秋。つまり一番日の長い時期だ。
藁はいろんなところで使う。牛舎に厩舎、豚舎に鶏舎。そして塩田。
藁を積んだ荷馬車は国中の農村地帯から都市部までどこへでも行くことができる。
街道にいるのだろうが、どこからどこへ向かうのかがわからない。
太陽の方向を見れば方角もわかるだろうけど、曇りでよくわからない。
だが私がもそもそとしているのが誰かにわかったのだろうか。
野太い男の声がした。
「閣下!」
少し遠くから馬が近づいてくる音が聞こえる。
「テス」
男にしては高く、女にしてはかなり低い声に覚えがある。
まさか、嘘つきファルクマン!?
カーリン・ファルクマン元帥は、エークルンド王国最高の将軍だろう。
騎士としてはやはり女性なので、騎士としてはあまり優秀ではなかったオリヴェルにも腕力では劣る。だが、体の軽やかさを生かした剣術の巧みさを誇り、弓矢では百発百中の名手。
軍を率いれば全戦全勝。
奇策が多いので、敵軍には卑怯な策を使う「嘘つきファルクマン」と呼ばれた。
どうも、敵軍にはファルクマン家の末っ子は男だと思われていたらしい。「男らしくないぞ!騎士道精神はどこに行った!嘘つきファルクマン!」と煽られて、カーリンはせせら笑った。
わざとドレスを着て、長髪のかつらをかぶり、敵軍を煽った。
「私は女だぞ!」
それ以来、「嘘つきファルクマン」はカーリンの美称になった。
一方、ブリュンヒルデという名前は甲冑をつけた女戦士という意味なのに、戦場に出たことはない。なんという、皮肉。
オリヴェルと肩を並べても低くない身長と、肩幅。ただ、腰がぎゅっと細く、ズボンでその形が露わな太ももは結構太い。
少年のようにつるんとした、日焼けした肌。
きらめく短い金髪。
真夏の太陽よりも青い瞳。
野いちごよりも赤い唇。
それが、男装の麗人、ヘルシンボリ公爵カーリン・ファルクマン将軍だ。
この王国で、国王が王妃以外に愛人を持つことはよくある話である。
ラスムス十五世オリヴェルは王妃が生んだ子だが、弟のマルクスは愛人の子だ。
庶子が即位することもある。ラスムス十世アンデスが愛人の子として生まれたこともよく知られた話だ。
我がラスムス十五世オリヴェルには三人の妻がいると言われてきた。
王宮の妻が黒髪のブリュンヒルデ。
王幕の妻は赤毛のアストリッド。
戦場の妻は金髪のカーリン。
同時に、政略結婚でやってきた王妃が子を産んだ途端に国王に顧みられなくなったことをいいことに、別の男と関係を持つこともよくある。
新たに即位したラスムス十六世アドルフ、いや、連合王国のアドルフ王は未だ子どもで、摂政はオリヴェルの弟マルクスだ。
実は、マルクスと王太妃ブリュンヒルデの間にはずっと噂がある。
オリヴェルもそれを黙認していた。
「サットン人が攻めてこなかったら、それでいいのさ」
ブリュンヒルデはサットン王国の王女だった。
ラスムス一世の時代のようにエークルンドの聖女が王妃になることもあった。
だが、今では王妃、それは体の良い人質のことである。
カーリンの声が聞こえる。
「テス、腹が減ったら中に食べ物があるだろ。水を入れた皮袋もある」
アストリッドにはいくつかニックネームのバリエーションがある。「アストリッド」は王国の中で少なくない女性の名前なので、同じアストリッドでも、ニックネームのバリエーションによって区別することがある。
私はアーディーだった。トリッシュと呼ばれるアストリッドもいれば、テスと呼ばれるアストリッドもいる。
私は足元に小さなバスケットが入っているのに気づいた。
中にあるのは、パンとアンズだった。
「はい、閣下」
女の弱々しいしゃがれ声がした。
「テレサ、」
さっきの男が女に呼びかけた。
テスというニックネームは、アストリッドにも使うが、一番多いのは「テレサ」だろう。
「俺にもおくれよ」
ガサゴソと何かが突っ込まれて、男が言った。
「あーあ、藁の中に空洞があったっぽくて、突っ込んじまった」
突っ込まれたのは水を入れた皮袋だった。
「後で探すさ」
男が諦めたように言った。
カーリン。
助けてくれたの?
助けなくても良かったのよ。私はブリュンヒルデの手によって、オリヴェルのところへ行くところだったんだから。
馬車が止まった。
パカパカと馬が先へ行った。
「カーリン・ファルクマン伯爵だ。軍務を解かれて帰郷する」
カーリンが名乗る声がした。
(え?伯爵?カーリンはヘルシンボリ公爵だったでしょ?)
「閣下、この馬車は?」
「たまたまうちの者が都に藁を売りに来たんだが、値段が見合わず、都のファルクマン邸にのみに下ろした。病気の侍女もいるので、一緒に伯爵領に戻る」
藁はどこにでも使うものだ。値段が予想よりも低ければ、そのまま帰るのは割にある。
ファルクマン公爵は、都に屋敷を構える。
領土は都から三日か四日かかるところにあるのだと聞いていた。
街道にはいくつかの関所があり、それはファルクマン公爵にも例外はない。
さらにカーリンが低い声で話すのが聞こえた。
「この侍女のテレサは肺病なんだ」
肺病は若いと快方に向かうこともあるが、多くが死ぬ病気だ。
他の人に感染することもあれば、感染しないこともある。
相手は口ごもったらしい。
「心配いらない。街には入れぬ。忠実に仕えてくれたのだから、故郷に連れ帰る最期の旅路だ」
「ほ、他には」
「御者は従者のアルフレッド。後ろにいるのは作男のニルス。テレサの二人の兄だ。後ろの二頭は私が戦場で使っていた元軍馬で、年老いたが都で乗るには気性が荒すぎる。伯爵領で使うために連れ帰る」
「確かに、一人乗りの荷馬車が昨日の朝に通過してますな。馬にも……ファルクマン家の紋章が入っている」
馬車はまた動き始めた。
「テス、そろそろ食料がないだろう。この馬車は街に入れられぬ。私は街で買い物をしてから追いかける」
「はい」
「アルフレッド、そのまま並みで行け。三番目の営地で」
「かしこまり」
パッパカパッパカと馬の蹄の音が遠のいた。
アルフレッド、ニルス、テレサ。
どれもこの国にありふれた名前だ。
だが、ファルクマン公爵が連れている「アルフレッド」なら、カーリンの乳母の子の、従者アルフレッドがいた。
確かアルフレッドよりも弟の方が強いので故郷を守らせているとカーリンが言っていた。弟の名前は知らない。
荷馬車が動き始め、今度はアルフレッドかニルスかが話しているのが聞こえる。
「次の営地で馬を変えるかね」
もう一人が答えた。
「確かに、少し眠らせてやりたいな」
街道沿いには街がいくつかある。そして、街には門限がある。
それはこの白夜が近くても変わらない。
街には入れなかった者や、宿代を出せない者は営地でキャンプをするものだ。
ゴーン、ゴーンと割に近くで鐘の音がする。
七回聞こえて、今が午後の七時だろうことがわかった。
曇りではなくて、この季節、太陽が地平線の近くにいるから薄暗いことがわかった。
夏の季節、大抵の関所に門限はない。
だが、街の門限は十時だ。
カーリンが指定した、三番目の営地に入ったらしい。馬車が止まった。
馬が外され、荷馬車の角度が変わる。
私はずるっとお尻の方に滑った。
他にも人がいるのだろう、何を話しているかはわからないが声だけは聞こえる。
ギイコギイコと井戸の滑車の音がして、びちゃんと水の音もする。
べちゃくちゃべちゃくちゃと馬たちが水を飲む。
枯れ枝に火をつけたのかパチパチと爆ぜる音がする。
荷馬車の周りで、知らない男たちの話し声が聞こえてきた。
「それにしても、聖女さまが偽物だったとはなあ」
さっきとは違う男がため息をついた。
生ぬるい水袋を抱きしめて私は怯えた。
「でも、火あぶりにしても雷鳴もなかったというじゃねえか」
もう一人の男が答えた。
最高神は雷神だ。
聖女は生涯を最高神に仕えると誓った最高位の巫女である。
聖女、つまり雷神の巫女を火あぶりにしても雷鳴すらなかったということは、巫女には雷神の加護がなかったということだ。
私は、火あぶりになったのか。ならなかったのか。
そのうち、パッパカパッパカと馬の蹄の音がした。
「閣下!」
テスがかすれ声で呼びかけた。
カーリンが帰ってきた。
「そういやテス、水の皮袋を一つ藁の中に落としたんじゃなかったかい?」
誰かの手が藁の中に突っ込まれた。
「テス、どの辺りだっけ?」
カーリンの腕だろう。袖の中から何かが滑り落ちた。パンだ。
私は水の皮袋を渡した。
「あったよ」
カーリンが皮袋を引き抜いた。
「あったまっちゃったじゃないか、入れ替えようねえ」
カーリンは続けた。
「馬の様子は?」
男の一人が答えた。
「閣下、軍馬は問題ないですが、荷馬は少し休ませたほうがいいですぜ。それで馬を換えました。」
「次は伯爵領で、門限は十時だよな?」
カーリンの質問に、テスが答えた。
「はい」
「よし、後少しだ。アルフレッド行くぞ」
「かしこまり」
「ニルス、荷馬を連れて後から追いかけてくれ。少し休ませても十時の門限には間に合うだろう?」
「かしこまり」
「後少しだ。イングリッドが待ってるぞ!さっさと帰って自分のベッドで寝ようじゃないか!頑張れ、テス!」
馬車はまた動き始めた。
軍馬が引く荷馬車の揺れがひどくなり、スピードが上がったのだろう。
「美しき我が家〜」
男装の麗人、カーリン・ファルクマン女公は、文武両道の類いまれなる才能の持ち主だ。
しかし、一つだけ欠点がある。
音痴なのだ。
「愛しき我が家〜」
軍人の大きな声で調子っ外れで歌う。
オリヴェルがわざと変な顔をして茶化したものだった。
最後の、伯爵領の入り口だ。
「カーリン・フォルクマン伯爵が、軍務を解かれて帰郷した。都の屋敷から肺病の侍女を連れ帰る。最期に母親に合わせてやるんだ。この馬はどちらも元は軍馬。病人の調子が悪いゆえ、急いで通る。後から疲れた荷馬を連れた作男が来る」
そう言って、荷馬車はまた動き始めた。
そのうち、馬車が止まった。
「イングリッド〜テスを連れ帰った!」
「閣下!」
女の、少し太い声がした。男かもしれない。だが、「イングリッド」は女の名前だ。
「テス、テス、テス。アルフレッド、早く」
きっと、この三人の母親なんだ。
胸が痛い。
聖女には、母親はいない。父親もいない。
孤児、いや、父のいない子が生まれて、育てらる人がいない場合、神殿の修道院に送られることになっている。
だから、私には母という人がぬい付けてくれた「アストリッド・ショーグレン」という名前しか知らない。
それすら、本名かもわからない。
私は三月に神殿に届けられたので、「三月のアストリッド」「三月のアーディー」と呼ばれた。
「馬は私が外すから」
調子っ外れの歌を歌いながら、カーリンが荷馬車に乗ったのだろう。
ゆっくりと動き始めた。
「アーディー?生きてるかい?」
荷馬車が何かの中に入ったのだろう。
藁の中にカーリンの手が突っ込まれた。
「……カーリン」
私はその手を握った。
ぐいっと手を握られて引っ張られ、私はガクガクする体で出てきた。
「……臭いでしょ、近寄らないで」
カーリンは鼻で笑った。
「軍にいたんだぞ」
「……臭かったね、軍は」
私たちは抱き合った。
「……私は死んだの?」
カーリンは頷いた。
「名目上は」
カーリンとの付き合いは長い。
「……すり替え?」
カーリンはまた頷いた。
「牢番のロッタ、わかるかい?」
私は首を横に振った。
「あんた、汚れで赤毛が栗色に見えるんだよ。ロッタが栗色の髪の女の死体を探して入れ替えることを勧めたんだ。火あぶりの恐怖で失神したとして、その死体を焼かせた」
「どうやってすり替えたの?囚人は他にもいるじゃない」
「ロッタが囚人全員に薬を盛ったんだ。狂女がいるんで、睡眠薬が欲しいと裁判官に訴えた囚人もいたから、囚人には睡眠薬が与えられた。それで入れ替えたのさ」
「でも、他の牢番はわかるでしょう」
「迷信深いんだよ、牢番は。聖女を処刑すれば雷が当たると信じてる」
「……ブリュンヒルデにバレたらまずいことになるでしょうに。私はオリヴェルのところに行って、どんなにブリュンヒルデがひどいかを話してやるつもりだったのよ」
「だから、アーディーにも薬を盛った。オリヴェルの野郎に誓ったんだ。あんたを死なせない」
カーリンは、私の両手を節くれだった手で包み込んだ。
なんてあったかいんだろう。
「カーリン、道中話をしていたのは、私に聞かせるため?それとも、追跡されでもしてたの?」
「太平光栄なことに、王太妃陛下にはこのファルクマンのことを大変気にしていただいているので」
やっぱりブリュンヒルデだ。
「なにせ、こっちはやましいのでね。話せることは全部話してやるのさ」
カーリンは馬を外してやりながら話し続けた。
「あんたの裁判の間に、私は酒場で飲んだくれて、近寄ってきた男をぶん殴ってさ。目を覚ませと、牢屋にぶち込んでいただいたこともあるんだが気づいたかい?わざっとあんたの牢の前でよろけたのに、あんたときたら瞑想を続けた」
「あれって、」
カーリンは馬を撫でてやる。
「私だよ。女を入れる牢屋は一つしかないんだから。牢破りの下見だったんだが、結果、ロッタと策を講じることができた」
「よく信じたのね」
売られる可能性だってあっただろうに。
「この嘘つきファルクマン、生まれながらの嘘つきゆえに人の嘘を見抜くのは得意だよ」
私は牢の中ではずっと座って瞑想していたし、さっきは体はずっと藁の中にいたからか、ガクガクしてまともに動けない。
馬に飼葉と水をやって、カーリンが私を抱きかかえて、私たちは裏口から屋敷に入った。
ファルクマン家の紋章は鷹なのに、裏口に掲げられているのはとぐろを巻いた蛇の紋章だった。
蛇?
「ストールション伯爵領だよ。母方から相続した。ほら、士官学校にいたとき、私はストールション伯爵だっただろ?」
もう、はるか昔のことだ。
私は十代前半で、カーリンは王太子の親友のストールション伯爵だった。
「イングリッドは母の侍女で私の乳母だ。アルフレッドとニルス、そしてテレサはイングリッドの子だ」
イングリッドと呼ばれた老女は私の手を撫でた。
「我らが最高神に仕える聖女にご挨拶いたします」
……これは?
イングリッドは私の手に雷を描いたのだ。
「引退した巫女にご挨拶いたします」
生涯を巫女として捧げることを誓った女を、聖女と呼ぶ。
引退して市井に入ったり、結婚する巫女もいる。
引退するときの位によって分け与えられるものも、身分も異なる。伯爵家の侍女になったなら、かなり若くして引退したのだろう。おそらく、二十歳を超える前、ラスムス十四世が即位したときに出て行ったのかもしれない。
「閣下、」
従者アルフレッドが入ってきた。
「ニルスが戻ってきました。そして、」
私の方を見て続けた。
「テサが、聖女さまとお話がしたいと」
また、カーリンが私を抱きかかえ、上の階に上がった。
部屋に入ると、ゴホ、ゴホと咳き込む声がする。
きっと、馬車では藁越しに聞くしかなかったし、いろんな音がしたから咳の音は聞こえなかったのだろう。
色はロウソクではあまりよくわからないが、小さな女が真ん中に置かれたベッドに横たわっていた。
「……聖女さま」
私は微笑んだ。正直言って、なんと答えればいいかがわからないのだ。
偽聖女だとを認めたのだから。
女は骨と皮だけになっていた。
「……聖女さま、最期に聖女さまのお役に立てて、うれしい」
肺病というのは嘘ではなかったのだ。
これが二つ目のすり替えだ。
私が直接手を下すわけではないが、私は二人の人間の死によって生かされることになる。
オリヴェル、これが私の進む道なのですか。
あなたのところに行かせてくれないのですか?
だが、私は聖女としての「慈愛に満ちた仮面」を被って言った。
「ご家族は全員おられますか」
後ろからもう一人男が入ってきた。これがニルスだろう。
「テレサ……」
私が口ごもると、テレサのベッドを挟んで向かいに立っているカーリンが答えた。
「エリクソン。テレサ・エリクソン」
「テレサ・エリクソンを囲みましょう……安全に最高神の元へ行けるように」
テレサが口を開いた。
「……カーリン」
冷徹なまでに陽気と言われた、涙を見せぬ嘘つきファルクマンが、肩を震わせていた。
「……最期に、カーリンの、役に立てて……よかった。連れて帰ってくれて……ありがとう」
カーリンがテサの手を取り、側に跪き、肩が震えた。
私は叫びたかった。最高神の加護などないと。
オリヴェルが射抜かれたときに、私は信仰を失った。
しかし、死を前にする人にそんな酷いことはできない。
咳が止まった。
私は、カーリンが握っていない方の手で脈を確かめた。
呼吸もない。
しばらくして、恐ろしい、最期の呼吸が聞こえた。
これで魂が抜けた。
「聖女の名において、テレサ・エリクソンが最高神の元へ行かれたことを宣言いたします」
私の代わりに焼かれた見知らぬ死者が、そして身分を与えようとする目の前の死者が、私をオリヴェルのそばに行かせなかった。
最高神ではない。
生きなければ。この道はもう引き返せない。
史書に曰く。
「アドルフ王の治世の二年目の五月のことであった。前王ラスムス十五世オリヴァルに戴冠した聖女アストリッドは、前王の王妃たるサットンのブリュンヒルデの偽聖女との弾劾を認めた。処刑場に到る道の中、恐怖のあまり失神していたアストリッドに民衆は幻滅した。これによって、最高神神殿の聖女が新たに選ばれず、アドルフ王が聖女によって戴冠されなかったことは問題なしとされたのである。」
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