第2話 先達の技
「おお……」
つい感嘆の声が漏れてしまったのも仕方ない。
だってぼくの目の前には、お茶碗にこんもり盛られたつやつやの白飯と、胡瓜の紫蘇和えにさやいんげんと豆腐の味噌汁、茹で鶏の胡麻だれがけが並んでいるのだ。
味噌汁の良い香りに、ぼくの腹の虫がたたき起こされたのがわかった。
畳敷きの古い居間には既にじいさんが座っていた。
ずっしりと重たげな炬燵の前で新聞を広げている。
開け放たれた障子から差し込んだ朝日が卓を照らし、炬燵の深い飴色をきらきらと輝かせていた。
立ち尽くすぼくをからかうように、カコンと小気味よく鳴った鹿威しの音に雀達の話し声が混じっている。
和室の東側、障子から差し込んだ朝日が畳のい草を白く照らしていた。
日本の朝、って感じだ。
今にも壊れそうな柱時計を見れば、針は午前七時になる少し前を差している。
前に住んでいた家ならまだ寝ている時間だ。
ぼくは慣れない場所のせいか昨夜はあまり寝られず、たまたまこの時間に起きてきたけど、じいさんはどうやら五時くらいから動き始めていたらしい。
朝が早いのは年寄りだからだろうか。
そう思っていると、すでに卓についていたじいさんが視線を上げてぼくを見た。
「……何を突っ立っている。さっさと座れ。食べろ」
不機嫌そうに言われて、ぼくのテンションが一気に下がった。
せっかく感動していたのに。台無しだ。
黙って座るとじいさんがそっと両手を合わせた。それからぼくの方をじっと見るので、倣って同じ動作をする。
「いただきます」
「……いただきます」
ぼくはお味噌汁の椀に鼻を近づけてみた。ほんわり上がってくる湯気と一緒に味噌の良い香りが鼻腔に広がる。
途端、ぐうう、とお腹が鳴った。
ぼくのお腹は正直だ。
そうしていたら、コトリ、と昆布の佃煮が入った小鉢が置かれた。
顔を上げると相変わらず仏頂面のじいさんがいた。朝からこの顔は寝覚めが悪い。
「……食べろ」
しかも開口一番これである。
普通はおはよう、とかじゃないのか。
まったくこのじいさんは。
不満に思ったものの、ぼくは自分の欲求に素直に従うことにした。
人間お腹が空いていたら何もできない。
特に苛ついた時は食べるのが一番だ。太らない程度に、が鉄則だけど。
それに、てっきり大雑把な男料理が出てくると思っていたのに(もしくは自分で作れとか)意外にもまともなご飯が出てきたのだから、ここはご相伴に預かった方が得だ。
処世術ってやつである。
ぼくの母さんは料理がからきしだったのに、じいさんはどうやら料理上手らしい。味はまだこれからだけど。
今後も作ってくれるかどうかはわからないが、それでも今日は有難くいただくことにした。
「いただきます」
両手を合わせて言えば、無言でこくりと頷かれた。
お箸を取ってお茶碗を手にすると、じいさんが急須のお茶を湯のみに注いだ。
あつあつの緑茶が入った湯のみがぼくの前に置かれた。
夏なんだから冷えた麦茶の方が良かったけど、用意してもらっておいて文句は言えない。
母さんなんて……もう母さんって言っていいのかわからないけど、あの人がぼくにお茶を注いでくれたのなんてはるか昔で、覚えてないくらいだ。
ぼくは「どうも」とだけ言って、給食以外では久しぶりのまともなご飯を食べ始めた。
味はまあ……普通に美味しかった。
***
ん?
その時、何かの気配がしてぼくはふと縁側に顔を向けた。
だけどむき出しの土になっている庭に特に変化はない。
朝の光景でよく見る、雀が何かを啄んでいる姿があるくらいだ。
気のせいかな?
そう思って視線を戻そうとした時、空いた障子の組み格子のひとつに、何かの影を見た。
―――あれ?
なんだ? 今の。
目をぱちくり、と瞬かせてもう一度じっと見つめてみる。
白い障子紙が貼っていある四角いマスの中に、何かを見たような気がした。
けれど、ぼくの目の錯覚だろうか。
まるで……小さい小人みたいなやつが、いたように思えたけど。
まさかね。
もしかしてまだ寝ぼけてるんだろうかと自分に呆れながら、ぼくは昆布の佃煮に箸を伸ばそうとした―――けれど。
……え?
なぜか、昆布の佃煮がひとつ、宙に浮いていた。
小鉢からやや上空に離れた佃煮が、じっと空中で停止している。
なんだこれ?
ぽかん、と呆気に取られていたら、皺だらけの手の甲がそこにぬっと伸びてきた。
「これ、やめなさい」
じいさんはまるで当たり前みたいに昆布の佃煮が浮いている辺りに手を伸ばし、さっさと払っている。
は? 何やってんだこのじいさんは。
しかも、じいさんがそうやると目の前で佃煮がそっと小鉢の上に戻った。
落ちたんじゃない。普通に誰かが箸で置いたみたいに、元ある場所に戻ったんだ。
じいさんはといえば、素知らぬ振りで再び食事を再開している。
おい。
ちょっとまて。
「……あの」
「何だ」
「今のって」
「天邪鬼だ。気にするな」
いや、気にするだろ。
なんだよ天邪鬼って。
仏頂面でおかしなこと言ってんじゃないよこのじいさんは。
突っ込みどころは満載だったけど、じいさんはどこ吹く風だ。そのうえ先程までとなんら変わらない調子で黙々と食事を続けている。意味がわからない。
「……もう追い払った。いいから食べろ」
「追い払った」
じいさんが何を言っているのか意味不明で、ぼくは言葉を復唱する事しかできなかった。
たぶん頭がテンパってるんだろう。
ひとまず落ち着こうと湯のみに手を伸ばし―――たらぼくの湯のみに妙な生き物がいた。
「う、わ……」
「やめろと言っているだろう。この子は関係ない」
またじいさんが皺だらけの手を伸ばして『ソレ』を追い払う。
『ソレ』はまるで小さな鬼とか、そんな感じだった。絶対に妖精とかじゃない。妖怪とか、そういう奴だ。
頭に角は生えているし、身体は赤黒いし、目玉はなんかぎょろっとしてて出目金みたいだし、正直言って気持ち悪かった。
しかもそいつ、ぼくを見てにやって笑ったんだ。
ぼくはかちんときた。
「笑うな」
だからつい言ってしまった。
昨日、じいさんがぼくに言ったみたいに。仏頂面で。
そしたらその小さな鬼は途端に驚いたような顔をして、笑みを引っ込めてすっと跡形もなく消えてしまった。
ぼくは湯のみを手にもって、普通に飲んだ。緑茶はちょっと温くなっていた。
「……お前も見えるのか」
顔を向けると、じいさんが仏頂面のままぼくを見ていた。
なんだか底知れない目だ。昨日は感じ悪いとしか思わなかった目が、なんだかもっと深い、川とか海とか、そこだけ深くて色が濃くなっている場所と同じに見えた。
見えるって、なんのことだ。今のやつって何なんだ。
聞きたいことはたくさんあったけど、なんだか得意になったぼくはふん、と鼻を鳴らして「見えるよ」とだけ言った。
「そうか」
じいさんはそれだけ言うと、食事を再開した。
ぼくも同じようにしながら、食べつつじいさんを観察する。
顰めっ面に無言で口元を動かしているから、正直美味しそうには見えない。
味はかなり良い方だと思うけど、素直に褒める気になれないのは料理人の性格のせいだろうか。
それにどうやらこのじいさんは、料理とはまたべつの技を持っているようだ。
ぼくはここにいる間は退屈しないかもな、なんて割と美味しいご飯を食べながら考えていた。
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