一章 Amantes,amentes. 1

 うだつの上がらない男は眼鏡をかけ直し、息巻くような勢いで東京の夜を闊歩していた。

 去年の悲惨な現状から一変し、田舎町の更に田舎に異動した。更には嫌っていた上司も異動するという二段構えのオチに、男は幸福の笑いが堪えきれなかった。上司のペットの死去を聞いて、「ざまぁ」と心の中で狂喜乱舞したのは新しい。

 田舎に飛んできたが、今となってはとてもいい。公務員ではない仕事の毎日だった。まるで定年を過ぎた用務員のような感覚さえ抱いた。クリスマスに職場の人間が、「クリスマスなんで休みますぅ」なんて休みをとっても、心が清らかだった。否、嘘をついた。リア充なんて爆ぜろ。死ね。

 そんな男でも、年末は休みだった。やはり公務員は公務員たるべき権利を得ている証拠だった。世間は新型ウイルスやらで業績は悪化し、ボーナス支給の額が下がった企業が数多くある。加えて、ロシアとウクライナの戦争ときた。急激な円高と原価高騰。ネット為替を嗜んでいる男にも影響の余波が襲ってきたことはいうまでもなく、一時は良いウイスキーが五本分も飛んだこともある。微妙に嗜んでいる競馬は今のところは好調だが、正直どうこうできるほどの力もない。

 そんな男が、何を血迷ったかコミケに参加した。それも参加者ではない。出展者で、だ。知り合いに出店した一連を伝え、『四ヶ月あるからヘーキヘーキ』だとか、当選した時には『そりゃそうよ』と煽られていた。実際には応募サークル数だとかジャンルだとか、コミケの動向だとか、リサーチやエゴサしていればすぐわかることだ。受かるのは八割以上だ。ある程度の高校受験並の合格率だ。

 そうしたら受かった。男は勝手に慌てふためき、出店の準備を進めた。

 出店したジャンルは超有名PCゲームのジャンル。両隣を少しは名のあるサークルに挟まれて勝手に意気消沈し、早々に離脱した。それでも、冬の祭典を楽しんだことは間違いない。

 東京旅行はとても楽しかった。メキシコ料理店で本場仕込みのタコスを食べて、久々に都会の風俗を満喫した。新型ウイルスで出張が激減して以来の楽しみは、欲望の捌け口を奪っていった。それを求めるように、男は欲求を解消していった。主に性欲の話になるが、満足ならばそれで良かった。要は、自分が良ければそれでいいのだ。

 冒頭にも述べたように、男は息巻いていた。これだけ満喫したというのに、更なる目標を抱いていたのだ。

 パパ活女子を引っ掛ける、という醜い欲望だ。

 何が男を突き進ませたのか定かではない。適度にアルコールが入り、風俗で精気を絞ったのではなく更に活気づいたせいなのか、酷く邪な欲望を更に掻き立てる結果となった。男は東京の街を歩き、好みの女性を見付けたら声をかけるということをしていた。

 質の悪いナンパとなんら変わりない。案の定、誘いに乗る女性はいなかった。それどころか会話すら出来なかった。暇だとか、食事どう、だとか投げても返ってこない。会話のキャッチボールを拒絶されては、男も為す術はなかった。──そもそもの話、大抵のパパ活女子はSNSや交際クラブ、出会い系アプリで前以て会う約束をしているのだから、相手にされないのは当然である。むしろ不審者扱いされて警察沙汰にならないだけマシだった。

 そんなこととは知らず、男は粘った。次のパパ活してそうな女子を求めた。

「おにーさん」

 ココアミルクにありったけの砂糖をぶち込んだような、酷く甘ったるい声だった。

 思わず男が振り返ると、声の持ち主であろう少女がこちらを見ていた。

 小さなリボンがついた厚底パンプス。クリスチャン・ディオールのコートを羽織り、同じブランドのバッグを持ち、プワゾンの香水をつけている少女は、人形のような透き通る肌で目元の赤いアイシャドウが印象的だ。目尻にある右の泣きぼくろも強調されている。両耳には多くのピアスがつけられていた。明るめの青いインナーカラーで染めた黒髪をハーフツインテールに結んでいた。

 いわゆるぴえん系、地雷系と言われるスタイルの少女が男を見ていた。

 一瞬、男は戸惑った。なんで声をかけられたのかわからなかった。

「俺のこと?」

 振り絞った一声がそれだった。気の利いた言葉が見つからず、おどおどしている姿を見られまいと平静を装った。

「今って暇ですかぁ? 実はぁ、遊ぶ約束してた友達が急にドタキャンになっちゃって……おにーさんも、もしかして暇してるのかなぁ、って思ってぇ」

 非情に甘ったるい喋り方が、妙に頭に入ってきてこびり付く。

 あまり出会ったことのないタイプで、どんな反応をするべきか迷った。マスクで顔が隠れているが、そもそも二十代でもないのではないか、という不安も過る。もし間違えば懲戒解雇の危険もある。田舎町故に、一生後ろ指を指される惨めな結果になる可能性もある。

「あー…………暇っちゃ、暇だね」

 が、男は素直に答えた。理性と欲求を天秤にかけて、欲求に傾いた。全ては経験だと心の中で言い聞かせるようにした。体型も好みだった。

「良かったぁ! 断られたらどうしようってドキドキしちゃっててぇ」

 大袈裟なリアクションが、小動物のような印象を与える。これが男の心に突き刺さる。

「ノアって言いまぁす。おにーさんのお名前は?」

「……カノシタ」

「よろしくねぇ、カノシタ君っ」

 ──あ。可愛い。

 マスクを取ってにかっ、と笑ってみせたノアに心を打ち抜かれていた。あどけなさ残る表情が可愛らしかった。

「ご飯とか行きませんかぁ? まだ食べてなくてお腹ペコペコでぇ」

「何食べたいとかあるの?」

「そうですねぇ。中華料理が食べたいかなぁ」

 わりとがっつりな回答だったが、それも愛嬌に思えた。

「ここら辺で中華かぁ……」

 カノシタはアイフォンで店を探す。

「もしくはぁ」

 いつの間にか真横にいたノアは、カノシタの耳元に触れるぐらいの距離に口を置いて──

「──休憩できる場所でも、いいんだけどなぁ」

 甘美で、官能的な囁き。

 プワゾンの香りも相俟って、性的欲求が掻き毟られる感覚を覚えた。

「いい場所知ってるんだけどなぁ。ね、どうするぅ?」

 唾を飲むほどに、目の前の少女は意地悪く妖艶に見えた。

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