なんもかけんき
何にも書けない。
どこかの誰かが書いた作品のように、気の利いた一言から物語を始めたい。
しかしその気の利いた一言というのが大変なのだ。
「こんにゃくとコニャック、どちらもひと手間で格段に美味しくなるんだ――そう、人生みたいにね」
駄目だ。
こういう一文で作者の底というのが分かってしまう。ハーゲンダッツよりスーパーカップ、食べたい時は2Lのファミリア(業務用)だ。
前回「やる気」というのは誰でも持っていることを語った。寝てばかりの人は「寝る気」があり、ゲームばかりの人は「ゲームする気」があるといった具合。
時間は――まあ皆に均等に渡されているものとして、「やる気」とは生きている限り、その用途に応じて使われ続けるものだ。
その行動で何かしらの利があれば「続けてみよう」ということになるのだが、逆にここで何らかの不利があったらどうなるか。
「続ける必要はない」と思うばかりか「積極的に(似たようなものも含めて)やらないようにしよう」と判断することになる。
これが「やりたくない気」「やらない気」である。
こちらも「やる気がない」とは違う。とても痛い思いをして「
「やり続ける気」は行為によって利を得ることで発生するが、「やりたくない気」は実際の行為を伴わなくても生まれる。
実際に痛い目を見なくても、周りから「つまんないよ」とか「ヤバいよ」とか「犯罪だよ」と不利であることを連絡されても、その人の行為の選択肢から外れていくことになる。
この外す過程は意識して「やらないようにしよう」と思うケースもあるが、無意識的に排除の方向へ進むことも多い。どこからが経験で、どこからが周囲の声によるものかも曖昧になってくる。こうなると「
で、大人になるにあたって、かなり多くの行動が縛られることになる。パッケージ化された社会人の完成である。
何にも書けない、という状態はおそらく「(強いて言えば)何かは書けるが、その何かは自分の中では価値が著しく低いので書きたくない」なのだ。
何かを書くだけなら「あ」を100万文字でも書いて投稿すればいい。でもそんなバカバカしいことはやりたくないし、おそらくはつまらないのだ。行動するまでもなく分かることだ。
まさしく「なんもかけん気」が生まれている。
しかし仕事をはじめ、「やりたくない」ことでもやっているケースはある。飯を食うカネのために頑張っている。不利を超えるだけの利がある、または「やりたくない不利」より「やらない不利」の方が大きい場合、相対的に見て「利」となる。よって行動に移され、継続されていく。
もちろん状況の変化によって、利と不利のバランスが逆転すれば「やらない」ということもありえるだろう。
この文章が伝えたいことは一つ。私はこの作品を「書きたくない」のだが、書かないことによって発生する不利(他の作品が書けない)と比較した結果、終わらせようと判断したということだ。
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