第15話 矜持

 戦列艦『キースリング』は月明りのウルド砂漠を静かに進んでゆく。賓客室ではクロエがリリーの銀髪を櫛でかしている。リリーは白い絹糸でできた寝具をまとい、丸い船窓から外を見つめていた。


 クロエが持つ櫛は柔らかな髪質にすっと通り、銀色の髪が指先からさらさらと流れ落ちる。クロエはリリーの銀髪を愛おしそうに眺めながらつぶやいた。


「リリー、もうすぐだね」

「……」

「ウルドに到着すれば挙兵する。みんな、絶対に驚くよ」

「……そうね。わたしが乱心したと大騒ぎになるでしょうね」

「……」


 リリーが微笑むとクロエは手をとめて少し視線を落とした。


「リリーは本当にそれでいいの?」

「?」


 無邪気に語っていたクロエが真剣な口調で尋ねてくる。リリーは肩越しにクロエを見上げた。


「例えばさ……レインと普通に結婚して、家庭を築いて、年をとって死んでゆく……そんな生き方もあるんじゃないかなぁって思うんだ」


 いつも戦闘的なクロエにしてみれば珍しく弱気な発言だった。


「わたしね……リリーのために戦って死ぬのは怖くない。でもね、どうせわたしの命が使われるのなら、有意義な使われ方をしたいの。リリーが幸せだと思えることに命を燃やしたい」


 クロエの言葉は本音だった。覚悟を決めているからこそ尋ねている。友人の問いかけにリリーは目を瞑って答えた。


「わたしに迷いはないわ。お母さまはわたしをいつくしみ、愛してくださった。そのお母さまが飢餓の果てに世界を捨てた。どれほど無念で悔しかったでしょう……ガイウス大帝おじいさまも、兄弟たちも、そして国民たちも、誰もお母さまのお心には想いを馳せない。だったら、わたしが教えるまでのことよ……」


 リリーはゆっくりと目を開けて船外を眺めた。ウルド砂漠は白い砂が月光を反射してきらきらと輝き、穏やかで美しい世界が広がっている。しかし、リリーの心中では灼熱のウルド砂漠のように復讐の炎が今なお燃え盛っていた。



「わたしは皇帝になって世界を変える」

「……はい、御意にございます。リリー殿下」



 クロエは静かに答えながらも心に引っかかるものを感じた。リリーは世界のすべてがまがい物で醜いと思っている。それが少しだけ不安だった。



──リリーは世界を変えるの?



 クロエは問いかけようとして言葉を呑みこんだ。リリーがどのような未来を思い描いていたとしても、自分が命を捧げることに変わりはない。それが、命を拾ってくれたリリーの恩義に報いるたった一つの方法だった。



──ソフィーなら、リリーの目指す未来を知っているのかな……。



 リリーとソフィアはクロエの知らない絆で深く結ばれている。クロエは賓客室にいないソフィアのことを思いながら再び手を動かした。



×  ×  ×



 ソフィアは男の野蛮な声が苦手だった。これからジョシュと『紋章』について話さなければならない……そう考えるだけで気が滅入めいってしまう。ソフィアは甲板までやってくると辺りを見回した。


 月明りが照らす甲板には人の気配がない。ソフィアは甲板の中央に立つとおもむろに木剣ぼっけんで素振りを始めた。夜の砂漠は気温も低く、夜風も冷たい。身体が温まってきたころ、ようやく甲板に人影が現れた。人影は大剣を持つジョシュ・バーランドだった。


「よお、待たせたか? 悪い」


 ジョシュは頭をかきながら申し訳なさそうに話しかけてくる。ソフィアは小さく首を振った。


「いや、別に大丈夫だ。身体を動かしていた……」

「船の上でまで剣の稽古かよ。熱心だな」


 ソフィアが立てかけられた木剣に視線を送るとジョシュは感心したように頷く。ソフィアは質問を急かした。


「……早く用件を言え」

「さっき言った通り、レインを襲った刺客の鞘にはソフィアの剣と同じ紋章があった。紋章について教えてくれ」

「……これか?」


 ソフィアは左手で長剣を握り、鞘へ視線を落とした。


「これはゲルン鋼でできたつるぎ。そして、不死鳥の紋章は朝廷から下賜かしされたあかしだ。特別なもので5振りしかない」

「5振りだけ? それなら、持ち主も限られているな……」

「ああ、そうだ」


 ソフィアは腕組みをしながら答えた。


「帝国には剣聖とされる剣士がいて、その下に四聖しせいと呼ばれる剣士たちがいる。この5人がつるぎの持ち主だ」

「じゃあ、もしかしてソフィアは全員を知っているのか?」

「当たり前だ。全員がリリーの兄弟たちにそれぞれ仕えている。皇太子アレンには剣聖ゼノ・ハンニバル、皇姉こうしマリアにはバルダ・ハリ、皇兄こうけいソロンにはメルセデス・リュンガー、皇弟こうていテオには四聖ヴァイス・ベッツ、そしてリリーにはわたしだ」

「ややこしい名前ばかりだな。覚えられねぇよ……そうだ、そのなかにコイツに似たやつはいるか?」


 ジョシュは困り顔になり、懐から刺客の似顔絵を取り出す。そこには長髪で目鼻立ちの整った美しい男が描かれていた。似顔絵を見たとたん、ソフィアはぎくりとして顔をしかめた。


──ヴァイス・ベッツ……。


 ソフィアは似顔絵に心当たりがあった。ヴァイス・ベッツは四聖の一人でリリーの弟テオに仕えている。『剣聖に最も近い男』と称されているが、『テオを異常に愛する男』としても有名だった。


 テオが『生まれてくる前の子供を見たい』と言えば妊婦の腹を裂き、『人間を狩ってみたい』と言えば罪人を野に放って人間狩りをする。ヴァイス・ベッツはテオの権力と剣技を背景に残虐行為の限りを尽くしていた。さらにはそれらの行為を良心の呵責かしゃくを感じさせない笑顔で遂行するという。


──レインはとんでもない男に目をつけられたな……。


 ソフィアがそう思っていると顔色の変化に気づいてジョシュが顔を覗きこんでくる。


「ソフィア、こいつは誰なんだ?」

「多分、ヴァイス・ベッツ……ジョシュ、他に何か特徴はあったか?」

「帝都の貴族みたいに優雅なで立ちで、三胡さんこって楽器を持っていた」

「やはり、ヴァイスで間違いがないな……だが……」


 レインを襲った刺客はヴァイス・ベッツで間違いないだろう。しかし、ヴァイスの実力を知るソフィアは首を傾げた。


──ヴァイスが暗殺に失敗したというのか?


 ヴァイスが直々に出向くということは、それだけテオの意思が強いということになる。失敗はまずありえない。ソフィアは不思議そうにジョシュを見つめた。


「お前、ヴァイスと対峙して無事だったのか?」

「まあな。捕まえようとして手加減したのがまずかった。逃げられちまったよ」

「……手加減だと?」


 ソフィアはジョシュの言い方に眉をひそめた。どうやら、ジョシュは本気で言っている。


「ああ。一思ひとおもいに首をねりゃよかった。後悔してる」

「……」


 残念そうなジョシュは『本気だったらヴァイスを討ち取れた』とでも言いたげだった。その飄々とした姿がソフィアは気に入らない。


──こいつ、ヴァイスが何者かまだわかっていないのか?


 ソフィアは切れ長の目をいっそう細めてジョシュを睨む。すると、すぐにジョシュも顔をしかめた。


「おい、なんだよ気味がわりぃな……」


 ジョシュが嫌そうに言うとソフィアは木剣を手に取って投げ渡した。そして、戸惑うジョシュへ立ち合いを申しこむ。


「ジョシュ、わたしと立ち会え」

「は!? いきなりどうしたんだ……」

「お前を見ているとヴァイスが逃げたとはどうしても思えん。立ち会って力量をはかってやる」

「冗談だろ?? 稽古なら一人でやれよ……」


 ジョシュは呆れ気味につぶやいて頭をかく。しかし、ソフィアは大真面目だった。挑戦的な口調でジョシュを挑発した。


「わたしが勝ったら、リリーとレインの警護は皇女親衛隊が引き受ける」

「何を勝手なこと言ってんだ!? 俺とダンテはどうするんだよ??」

「知らん。皇女親衛隊に入りたいなら考えてやらんこともない」


 ソフィアは本気だった。ジョシュが『剣聖に最も近い男』とまで言われるヴァイスを一蹴したとはどうしても思えない。もし嘘を言っているのなら、リリーやレインの周囲から遠ざける必要がある。ソフィアが本気だとわかるとジョシュはあからさまな不満顔になった。


「じゃあ、俺が勝ったらどうするんだ? 俺の望みを叶えてくれるのか?」

「そうだな……まずありえない話だが、望みがあるなら言ってみろ。叶えてやる」


 ソフィアが尋ねるとすかさずジョシュはにやりと笑みをこぼす。笑いながら右手の人さし指で自分の右耳を指さした。


「俺が勝ったら俺の耳を甘噛みしてくれよ」

「!? ……お前、変質者か??」


 ジョシュの条件は予想もしないものだった。ソフィアは思考が追いつかず、思ったことをそのまま口走った。


「ち、違う!!」


 ジョシュは慌てて首を振る。

 

「ウルドにはな、『新しく友人になった異性とは耳を噛み合う』っていう風習があるんだ。『自分の牙で相手を傷つけない』という意味で、親愛の情を示すんだよ」


 ジョシュはウルドの風習を説明した。


「いいかソフィア。ウルドに来るなら、ウルドの作法も尊重してくれよ。それが嫌なら立ち合いをあきらめ……」

「いいだろう」

「!?」


 言い終わらないうちにソフィアはうなずいた。生真面目きまじめなソフィアはジョシュの言うことも一理あると考えた。それよりも、早く立ち会ってジョシュの力を試したかった。


「お前、条件を飲むのか!?」


 意外だったのか、ジョシュは目を丸くして驚いている。


「ああ。どうせわたしが勝つ。問題はない」


 ソフィアには『わたしがジョシュなんかに負けるはずがない』という自信がある。ソフィアは四聖としての矜持を胸に抱きながら木剣を構えた。  

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