第3話 天体観測図

「わたしがいつも眺めるのは、『昏い静寂の塔アグノス』がそびえる帝都の暗い星空だけです。ですから、よく帝国図書館へと通い、天体観測図てんたいかんそくずを眺めておりました。まだ見ぬ大地や大海の星空を夢想しては自分を慰めていたのです」

「「……」」

「帝国図書館には領国各地より毎月、天体観測図が送られてきます。でも、それを読むのは占星官か天文学者ばかり。他には誰も興味を示しません。星を愛するものとしては寂しいかぎりです」


 リリーが語り始めるとサリーシャとロイドは怪訝けげんな顔つきになった。二人が『レインと何の関係が?』と疑問に思っていると、リリーは薄く微笑みながら尋ねてくる。


「サリーシャ殿とロイド殿は天体観測図をご覧になることがありますか?」

「「天体観測図でございますか?」」


 やはり、二人は腑に落ちないまま首をかしげる。やがて、ロイドが答えた。


「我らは砂漠の民。砂漠で現在地や方角を知るためには『星読み』が必須でございます。幼きころより星の動きを叩きこまれます。ですが、実際に星を仰ぎ見ながら学ぶのであって、天体観測図はあまり使用いたしません」

「そうでしたか」


 リリーは意外そうに眉を上げる。しかし、すぐに表情をくずし、


「ウルド国から送られてくる天体観測図は、他国のどの天体観測図よりも厚みがあるのですよ」


 と、付け加えた。そして、ロイドとサリーシャを交互に見つめる。

 

「ウルド国の天体観測図には星の運行表だけでなく、ウルド砂漠で仰ぎ見る星々がいかに美しいか、流れ落ちる流星群がどれだけ壮大か……すべてが事細かに書かれてありました。ただの記録ではありません。とても叙情的で、まるでその場にいるかのように、ありありと星空を思い浮かべることができるのです。しかも、それをしるしたのが占星官ではなく、わたしと同年齢で、藩王の息子というではありませんか」

「「レインが!?」」


 朝貢のなかに天体観測図があることはロイドとサリーシャも知っている。しかし、レインが関わっていたとは知らなかった。


「お二人はご存知なかったのですね。でも、記録者の名前にはレイン・ウォルフ・キースリングとあり、キースリング家の紋章である『狼』の印章いんしょうが使われておりました……」


 リリーはレインの天体観測図を懐かしむように目を細めた。そして、意を決したように口を開く。


「興味を惹かれました。だって、まるで……」


 気恥ずかしいのか、リリーは目を伏せながらスカートの端を一瞬だけギュッと握る。声も消え入りそうなほどか細くなった。



「世界の果てから届く恋文のようでしたから……」



 よほど恥ずかしかったのだろう。次の瞬間には紅潮した顔を上げて、照れ隠しをするように明るい笑顔をつくる。


「それからはもう夢中です。ウルド国からの商人や使節……あらゆる人にレイン殿のことを尋ねました」


 リリーの声はとても朗らかで、響くと部屋中が華やいだ。


戦史せんしや兵法書よりも詩や恋愛小説を好むこと。気が優しく民に慕われていること。そして、ウルドの舞曲で舞う剣舞は女人たちの目をとらえて放さないのだとか……さぞ、勇壮でお美しいのでしょうね。レイン殿の人となりを伝え聞けば聞くほど、思慕の情は募るばかり。どうか、この苦しい胸の内をお察しください」


 リリーはレインに恋焦がれる可憐な乙女そのものだった。ここまで言われるとロイドも納得するしかない。横目でサリーシャを確認しながら言葉を選んだ。


「さようでしたか……殿下にそこまで慕われるとは、息子も幸せ者です。なあ、そうだろ?」

「……」

「サリーシャ?」

「……」


 サリーシャはまだ難しい顔をしていた。『傾国姫けいこくき』と呼ばれるリリーが、会ったこともない息子を好きになるとはどうしても思えない。リリーの健気けなげな姿を見れば見るほど、不安はき立てられた。


──できすぎた話……リリー殿下が商人や使節にご下問かもんなさったのなら、わたしやロイドの耳に入っていてもおかしくはない。それに、祝賀会での宣言、紋章の入りの袖止めカフリンクス……まるで、次々と外堀を埋められているようだわ……。


 それは、息子を心配する母としての直感だった。


──リリー殿下は何が何でもレインと婚礼を挙げるおつもり……しかも、急いでおられる。もしかして、真意はもっと別にあるのではないのかしら? どうも胸騒ぎがする……。


 そう思わずにはいられない。自然とサリーシャの表情はさらに険しくなった。すると、心中を探るようにリリーが顔を覗きこんでくる。


「わたしは気持ちをすべてお話しいたしました。まだ、お尋ねしたいことはございますでしょうか? それとも、見知らぬ若い二人が結婚することを心配なさっておいでですか?」


 リリーの青い瞳は心の奥底を見透かしてくる。サリーシャは「もはや、どうにもならないこと」と観念して頭を下げた。


「いえ……もう、十分でございます」

「そうですか。では、夜も深い時間となりましたので、これで失礼させていただきます」

「リリー殿下、少々お待ちください」


 サリーシャは帰ろうとするリリーを呼び止めた。そして、小箱を持ったまま隣室へと下がり、すぐに戻ってくる。手には小箱のかわりにを持っていた。ソフィアは一瞬だけ目を光らせたが、サリーシャに害意がないことを悟り警戒を解いた。


「これは、我が夫ロイドへ嫁ぐ折に母から授かった短剣でございます。皇帝陛下ご臨席の場へは持っていけませんが、わたしはこの短剣を肌身離さず持ち歩いております」


 そう言うと、サリーシャはリリーの前へそっと短剣を差し出した。短剣は細身で簡素なつくりになっている。柄は動物の角でできており、鞘の端には円形の瑠璃ラピスラズリが嵌めこまれていた。


「ウルドの女は戦いを恐れず、自分の身は自分で守ります。リリー殿下もウルド国へ降嫁なさるのであれば、この短剣をお受け取りくださり、覚悟と気概のほどをお示しください」

「……わかりました。わたしも袖止めカフリンクスの返礼なら受け取りませんが、義母ははとなる方からの贈り物ならば謹んで受け取りましょう」


 リリーは短剣を受け取りドレスの胸元へしまいこんだ。すぐに、サリーシャとロイドが深々と頭を下げる。


「「リリー殿下。どうか、レインをよろしくお願い申し上げます」」

「こちらこそ、お二人の娘となる日を心待ちにしております。それでは、今宵はありがとうございました」


 リリーはソフィアと侍女を引きつれて部屋をあとにする。リリーが出ていくとサリーシャとロイドは窓辺へと近寄り、迎賓館の門を見下ろした。外ではちょうどリリーが馬車に乗るところだった。


「よかったのか? 母君の形見だろ……」


 ロイドがそれとなく短剣のことを尋ねるとサリーシャは視線を外へ向けたままロイドの手を握った。


「いいのよ。いずれ、娘に渡すつもりだった……授からなかったけれど」

「……そうか。でも、俺たちにはレインがいる」

「……」


 サリーシャは沈黙したままリリーの乗る馬車を見つめていたが、やがてポツリと口を開いた。 


「あの目は……」


 サリーシャの手を握る力が強くなる。ロイドが意図を感じてサリーシャを見ると美しい横顔に憂いの陰がさしていた。


人心じんしんを惑わす人間の目よ」

「……」


 それはロイドも感じたことだった。ロイドは黙りこんで視線を外へ戻す。迎賓館の門前では待ち受けていた親衛隊が馬車の前後を固め、ソフィアの指揮のもと馬脚をそろえて出発している。その姿は凱旋する軍隊のようで、自信と威厳に満ちあふれていた。

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