碧玉ノ永帝

国樹田 樹

第1話 蟲と御魂

「早くっ、早く……っ! お願い……っ!」


 薄暗く、鬱蒼と覆い茂る樹木の間を、鮮やかな着物に身を包んだ女が走る。

 長い黒髪を振り乱し、真紅の振袖を着崩しながら。

 裾からは、艶めかしい白い足を伸ばして。

 

 女の長く形の良い足の先、恐らく肌と同じくらい白かったのであろう足袋は、元の色が判別できぬほど泥にまみれ汚れていた。

 一見すれば、見合いの席から逃げ出した良家のご息女かと見紛う装いである。

 しかし女の美しい顔(かんばせ)には、まさに必死とも言える形相が浮かんでいた。


 滑らかな真白い肌には、玉のような汗が幾つも浮かび、走る振動と風がそれらを飛び散らせ、小さな光を幾つも振りまいている。

 道など無き森の中の獣道。刻は夕を過ぎた当たりだというのに、高く聳え立つ樹木の葉に覆われているため差し込む光は少ない。

 そんな中、必死に駆ける着物姿の女はどう見ても異質であった。


「逃ガサヌッ! 逃ガサヌゾォォォオオッッッ!!!」


「っ!」


 女の後方、樹木の奥深くから地鳴りにも似た声が響く。かと思えば、何かの『脚』が女目がけ凄まじい速さで伸びた。それを、女は紙一重で身を捩り交わし切る。が、掠ったのだろう、女の白い頬には一筋の赤い線が残され、風に舞う黒く長い髪の幾筋かがぷつりと切断され途切れていた。


「オノレェェェエエッッッ!!」


 地を這う様な恐ろしい声が樹木の奥、足が伸びてきた方向から木霊する。女は振り返る事無くただひたすらに走り続けながら、背には恐怖と危機と焦燥を感じていた。


「あとっ、少しっ……!」


 女はそれから二度、伸びてくる足の攻撃を傷を作りながら交わし、走って走り付いた先にあったものを視界で捉えた。

 

 それは朽ちかけた、かつて神を祀っていた場所の成れの果て。


「あ、った……!」


 女は転がり込むようにして社へと登り上がると、腐り落ちかけ半壊した扉に手を掛け社の中を露わにした。樹木の葉の隙間から少しだけ差し込む光が、幾筋か社の内を薄く照らし出す。


 朽ちかけた仄暗い社の内には、一体の古い仏像が鎮座していた。

 木彫りなのだろう、薄らと浮き出た木目は、積み重ねた年月により黒ずんでいる。


 袈裟を纏い螺髪(らほつ)で円座に座す姿は大日如来像によく似ている。

 しかし印相(いんぞう)が違う。

 この仏像は右手を上げ掌を見る側に向けており、大して左手は仰向けにされているが、まるで何かを護るように緩く握られていた。そして、掌の中には、深い碧に輝く石が指の隙間から見えている。


「っ……!」


 女は唐突に、その仏像の左手へ白い手を伸ばすと、硬い木で出来た指先を掴み、緩く握られた手を無理矢理こじ開けようとした。

 相手は木彫りの仏像である。しかも相当の年季が感じられる古い物とあって、直ぐにその指先は折られ無残な姿となる筈だった。

 しかし、仏像はそうならなかった。


「ぁあ……っ!」


 仏像はまるで女の念を受け入れたかのように、不思議と音も無く指先を開き、その左手で護っていたものを差し出した。


「有り難う、御座います……・っ!」


 それを、女は歓喜と感謝の声で持って応えそして―――その深い碧の石を、おもむろに唇へと運び、一飲みで飲み下した。

 女の白い喉元が、異物を飲み込んだ音でゴクリと鳴った。


「ぁ、ぁぁぁあああっっっ!!!」


 途端、女は長い黒髪ごと頭を社の床へと落とし額を擦りつけ叫びを上げる。

 女の漆黒の髪と、身に纏う鮮やかな真紅の振り袖とが古びた社の床に広がった。


「っはぁっ……! ぅあぁ……っ!」


 白い肌からは透明な汗が大量に噴き出し、艶やかな唇からは呼吸とも言えぬ喘ぎが零れている。


「オノレェェエエエッッ!」


 女が床に突っ伏しているその状況で、再びあの恐ろしい声が木霊した。声は社のすぐ前まで迫り、苦悶の表情で這いつくばる女に向かってまた『脚』を素早く伸ばす。

 黒く、棘があり、所々が節によって分けられている異形の脚。

 それは人ならば全ての者が目にしたことのある、蟲と呼ばれる生き物のそれだった。


 女に伸びた黒い脚が、先端の鋭い鈎状部を振り下ろす。

 それはさながら、死神が鎌を振り下ろす瞬間かのようだった。


 ―――しかし。


「……遅かったわね」


 鈎鎌は女に振り下ろされる事無く、社内(やしろない)の中空で停止していた。

 それを見た女が、口唇をくっと引き上げ嗤う。


「愚かな『蟲』よ! 我子は既に御魂と共に在る!! 貴様らなどに、殺させてなるものか……っ!」


 髪と着物を振り乱していた時には見えなかった女の大きな瞳が、勝ち誇ったように見開かれ、爛々とした輝きを見せる。

 零れ落ちそうな、との例えがよく似合うほどの美しい瞳は―――紅玉の如く燃えていた。


「ッオノレッ! オノレオノレオノレオノレェェエエッッ!!」


『蟲』が咆哮を上げながら女に向かって無数の脚を振り下ろす。

 しかしそのどれ一つとして、女の身に傷をつける事は叶わなかった。

 先程とは違って。


 まるで何かの壁が作られてでもいるように、脚が繰り出す攻撃は全て中空で受け止められ、或いは弾き飛ばされている。

 目をこらせばやっと捉えられる程度の攻防は、女の下腹部分から発せられていた。

 女の纏う鮮やかな真紅の着物を締める、金糸織りの帯の下。そこから出る淡い碧の光が、まるで女を護る様に放射状に噴出し、見えざる円状の壁を作っていた。


 ギャイン、ギィン、ジャギィンと、耳障りな音を立てながら、碧の壁は蟲の繰り出す攻撃から女の身体を護り続けている。

 女は、半円状になった光の中ゆったりと腰掛けながら、蟲に向けたものとは違う慈愛に満ちた笑みで自らの腹を見つめ、右の掌を優しくあてがった。


「貴方にこの枷を……追わせる母を……許して……」


 女は帯の下にある腹を優しく撫でながら、白い頬に涙を一筋流した。

 そうしてゆっくりと瞼を落とす。


 古びた木彫りの仏像が、そんな女の事を静かにじっと見守っていた。


***


『ヨウちゃんってさ、大剣ってもうカンストした?』


 レア泥狙いのボス周回中に、直メで声を掛けられた。

 相手は同じパーティを組んでいるギルドのメンバーだ。

 フレンド登録済みで、このゲームアプリが公開されるのと同時に知り合った奴だから、まあ結構な付き合いにはなる。


『したよ。とりま片・両・双で剣職はフルコン』


 タゲが外れないように注意しつつ、返事を返す。

 戦闘BGMに蝉の声が混じるのを聞き流しつつ、全体攻撃の一打目を盾で受け止めた。


 ボス相手とはいえ、コイツは難易度中レベルだから片手間でも楽勝だ。それに今の俺は壁役。つまり敵からのターゲットを外させる事無く攻撃を受け続ければ良いのだ。


 ちなみに、最初質問された大剣というのはゲーム内での職業の一種である。

 剣職と呼ばれるカテゴリの中で一番大きな剣を使う職業の事であり、両手剣とも言われている。


『すっげー! んじゃさ、ちょっとの間でいいからアサシンブレイド貸して貰えない?』


 あー……やっぱし。


 俺は内心で溜息をついた。何となく、言われそうだなと予想していた。

 顰めた眉にじわりと掻いた汗が鬱陶しい。せっかく屋上に避難したのに、陰にいてもこの暑さとは、地球温暖化よ恐るべし、だ。

 

 自分が使う武器くらい、自分で調達しろよ。

 そんな言葉を飲み込んで、俺は普段通りの声音で答えた。


『いーよ。つか別にやるよ。あれ泥品だからまた取ればいいし』


『マジで!? うわ有り難いわー! さんくす!』


 あーそろそろこのボス死ぬな。ドロップブースト使ったけどどうなんだろ。


 面倒くさい要望に面倒くさい返事を返しつつ、俺は今丁度地面に倒れた中ボスへと視線を移した。右端に写るメッセージ欄では、土下座マークやらハートマークやら、男から貰っても全く嬉しくない絵文字が大量に流れている。


 つーか、攻略で楽したいんならゲームすんなよな。マジで。

 

 ぬるゲーマー達からすれば非難囂々になるであろう台詞が浮かぶ。


 ―――まったり楽しみたいだけとか、たかがゲームに必死になるのは、とか。


 現実世界でもゲーム世界でも、根性無しの言い訳は聞き飽きている。

 もちろんメッセージとして送ったりはしないし、口にもしない。

 思うだけなら関係性も壊れないからだ。

 長い間幾つものボス戦を経験し、最近は飽きなのか慣れなのか、すぐに楽をしようとするフレンドのプレイヤーに苦い思いを抱く。


 このフレンドも、ゲーム開始当初は徹夜で高難度ボスを周回しレア品ゲットに励んでいた。

 けれどある程度レベルが上がると、すぐに手を抜き始めた。最近は特にそんな奴を多く見かける。

 上位プレイヤーを目指さず、そこそこで満足して終わるのだ。


 人は慣れ、そして飽きる生き物だ。


 だからこそ新しいものが次々と作られ、進化を成していく。

 ずっと夢中で居続けることこそ、実際は難しいのだろう。

 結局なんだかんだ言っても俺もコイツと同じだ。

 だからこそ余計に腹立たしく思うのだ。


 『本気』って、どうすればなれるんだろう。


『―――あ、ラグナレイトアーマー泥った』


 そんな苦い心境とは違い、俺のスマホ画面ではレア品ゲットの王冠マークがピカピカと輝いていた。


『マジか! ヨウちゃん引き良過ぎんだろwww』


『日頃の行いがものを言うのですよ』


 フレンドのメッセージに軽く返事をしたところで、俺の耳に付けていたイヤホンがすぽんっと勢い良く引き抜かれた。

 途端、耳には電子で作られた幻想音楽ではなく、リアルな空気と周囲の音が入り込む。


「……何をされてるんですかね。亜洲葉(あずは)さん」


 右側に顔を向ければ、人のイヤホンを無断で引っこ抜いてくれた犯人―――もとい、クラスメイトの御堂亜洲葉(みどうあずは)が怒り顔で立っていた。


 黒髪のそこそこ可愛い制服女子と、屋上から見える夏の青空がセットになった光景は、まるで昔の青春小説みたいである。

 別に読みたいとも思わないが。


 肩までの髪に、大きめの黒い瞳。顰めた眉のせいで残念なことにはなっているが、学級委員長という肩書きと、医者一家の出ということも鑑みれば十分高嶺の花の部類になるだろう。

 まあでも、人のイヤホンをいきなり引き抜いてくるあたり、お淑やかとは言い難い。


 つーか、風でスカート捲れそうだけどいいのか。

 一応女子なのに。

 今にも見えそうなんですが。あ、ちょっと惜しかったな今。

 風もうちょっと頑張れよ。


「何されて、じゃないわよっ。もうとっくにチャイム鳴ってんですけど! この耳は飾りか? 万年ゲーム厨の武ノ森曜(たけのもりよう)くんっ!?」


「んなでけぇ声で言わなくても聞こえてるんですけどー……厨二病みたいな名前した御堂亜洲葉(みどうあずは)さん」


「やかましいわっ!」


 先に口撃してきたのは自分の方だろうに、打ち返したらなぜか怒られた。


 屋上で互いの名をフルネームで呼び合うなど、一体何がしたいのか。

 求婚でもするつもりか。


 亜洲葉は確かに可愛いが、俺としてはがさつな女は御免こうむりたい。

 というよりコイツにも選ぶ権利はあるだろう。


 などと馬鹿っぽい事を考えていたら、亜洲葉に「あんた馬鹿?」といつか見たアニメのお気に入りキャラみたいな台詞を投げつけられた。


 不服だ。


「……もう私ら中三なんだよ? ちょっとはルール守って生活しないと、内申書にだって響くんだから」


「俺は高校いかねーから関係ねぇよ」


 まだログイン中だったゲーム画面で、フレンドやギルドのメンバーに落ちる事を伝えログアウトする。

 そしてスマホからイヤホンを抜き、丸めて制服のポケットに突っ込んだ。


 今は携帯ゲーム機が無くても、スマホ一つあれば事足りる。

 中々便利な時代だと俺は思う。


 だから別に、大卒で当たり前のこのご時世に進学出来なかろうが、家に金が無かろうが、取り合えず食っていけてスマホがあれば、俺には十分だった。


「今時中卒とかありえないでしょ。馬鹿」


 亜洲葉が肩まである髪を少し下げて呟く。俺の位置からだと亜洲葉の頭頂部が丁度見えて、誘惑に逆らえなかった俺はつい指先でぎゅっとそのつむじを押してしまった。


「その中卒になろうとしてる俺に向かって辛気くせー事言う奴ぁ便秘にでもなるがいい」


「なんってこと言うのよアンタは!? 乙女に向かって!」


 つむじを押すと同時に憤怒の表情になった亜洲葉が、逃げようと立ち上がった俺に向かって駆け出し拳を繰り出した。

 学級委員長の風上にもおけないが、コイツの本性はそんなものだ。


「乙女ってどこだ。ちなみに俺の中の乙女イメージは、白いワンピースに日傘が似合う美少女なんだが」


「九十年代じゃあるまいし……」


 脳内イメージを言っただけなのに残念な顔をされた。が顔面パンチは回避できたので良しとする。

 つかお前が九十年代の何を知っている。レトロアニメで日傘の美少女は鉄板だぞ。


「やかましい。つーかお前、俺のこと呼びに来たんだろ。学年主任の高倉(たかくら)にでも言われたか」


 亜洲葉の拳を片手で受け止めながら、予想していた問いを口にすると、彼女は日本人にしては通った鼻をふんっと鳴らし、どういうわけか先程まで俺が座っていた場所に腰を下ろした


「違うし。私もサボり……早退届出してきた」


「なんだお仲間かよ」


 ならログアウトする必要無かったな、なんて事を思いつつ、俺も亜洲葉の隣に再び腰を下ろす。

 背中にフェンスの金網の感触を感じながら、ぐっと伸びをして空を見上げた。

 高く青い空には、太陽の光を反射して白光りする入道雲が連なっている。


「母親か」


「まあ、ね……」


 横に座り、顔を見ないまま亜洲葉に短く問いかけると、なんとも歯切れの悪い声が返ってくる。

 俺と亜洲葉の間に、静かな沈黙が流れた。


 俺の家が現代の下流家庭だとすれば、亜洲葉の家は上の上。

 それも最上級の部類だ。


 都心から遠く離れた田舎に属する土地柄とはいえ、両親から叔父叔母に至るまで医者の一族というのは中々少ない。

 それ故に御堂の家はこの辺りでも有名だった。


 祖父さんが県議会議員だというのも影響してるんだろう。かつては県知事も出したと聞いた。

 そんなだから、亜洲葉は小さい頃から何でも出来て当たり前だった。

 勉強も、運動も、全て最上位でいることを強いられ、それを必然とされてきた。


「曜の方が、そういうの向いてると思うんだけどね。私は駄目、血とか苦手だし」


 ふぅ、と溜息を吐きながら、自嘲気味に亜洲葉が言う。


『将来なりたい職業』ではなく『なるべく強制されている職業』についてコイツが話す時は、決まって母親から手酷い事を言われた時だ。


 ……何て言われたかは話さんだろうが、また姉の事だろうな。


 コイツには姉が居る。それも、とびきり優秀な。


「別に俺も得意ってわけじゃないけどよ。単にゲームで見慣れてるだけで」


「グロ系はやめろとあれほど……」


 しみったれた空気に軽口を混ぜる。亜洲葉は呆れながらも、少しだけ口角を上げた。

 亜洲葉も俺も、こういうのは好まない。

 自分の環境を嘆いたところで、どうなるわけでもないからだ。


 ただたまに、小さな『諦め』を口にはするが。


「でもあんた、ほんとは頭いいじゃん。手を抜いてるだけで」


「……学年一位が底辺生徒に言う台詞かね。神経疑われるぞ」


 首をぐりっと曲げて亜洲葉を見れば、なぜかでかい口を開けて笑っていた。

 教室や、教師や、親の前で見せるものとは違う本当のコイツの笑顔だ。


 まぁ、ちょっとは軽くなったかね。


 そんな事を考えながら、俺は亜洲葉の細まった目を見て自分も笑った。


 地元では普通レベルで知られる中学に、俺と亜洲葉は入学し今年三年になった。

 俺は進学を諦めなければいけない理由があるから、中二の途中からは勉強をする気が失せ、今のように怠惰な生活を送っている。

 一方亜洲葉は母親の強制で受験した私立の有名中学に落ち、俺と同じ所へ入学したために肩身の狭い思いをしている。


 うちの中学からも偏差値七十以上の高校へ入学した実績はあるのに、それでも元々予定していた私立に入れたかった亜洲葉の母親は、受験前から合格した今に至るまでずっとコイツに酷い態度をとり続けていた。


 姉が有名進学校で首席をとり続けているから、そこに入れなかった妹は出来損ないだそうだ。

 普通レベルの高校とはいえ、常に学年一位をとり続けている我が子にかける言葉じゃないだろう。

 

 ……お家のプライドだか何だか知らないが、娘を傷つけてでも守りたいもんかね。


 元々亜洲葉とは幼稚園からの付き合いという事もあり、俺は御堂の母親については良い印象を持っていなかった。

 目の前で、コイツを罵倒する場面を何度も目にしてきたからだ。


 金が無ければ無いで、しんどいもんだし。

 有れば有るで、しんどいらしい。


 人間ってのは、つくづく生きづらいもんだと思う。


 不謹慎だとは思うが、今はほとんどの人間が『何をして生きるか』『どう生きるか』ばかりに気を取られて、ただ生物が望む『生きたい』という感情が薄れてきている気がする。


 生きるために生きる。


 きっと戦後はそうだったのだろう。

 しかし時代は変わり、生きること以上を求められるようになってしまった。


 複雑さは迷いを産む。

 そうして行き先を見つけられない厨二病まっただ中な俺達みたいな奴等は、思い詰めた事をしでかしたりするのだろう。


「ねえ、曜ってば!」


「んだよ」


「んだよ、じゃないって。あのさ、今日これから時間ある?」


 立ち上がった亜洲葉が、スカートを手ではたきながら笑って言った。

 彼女は太陽を背にしていて、俺からは逆光のため細かい表情はわからない。見えるのは、口角を上げた彼女の口元だけだ。


「別に、あるけど。何だよ」


「よっし! どうせあんたゲームばっかで何も食べてないでしょ? 私がご飯おごったげる。明日誕生日でしょ!」


「あぁ……そういえば」


 言われて初めて気付いた自分の産まれた日に、俺はもうそんな時期になるのかとぼんやり考えながら、腐れ縁の幼馴染みの提案を頷きで受け入れた。ついでに、着ている半袖シャツの胸元をぐっと握り締める。

 胸に当てた指先からドクンと自分の心音が伝わり、ふうと軽い溜息を吐く。

 うん。まだ『変わりはない』らしい。


 それに安堵しながら、俺は亜洲葉に倣い立ち上がった。

 白い半袖のセーラー服が太陽の反射で眩しい。屋上を吹き抜ける風はぬるく、暑さに追い打ちをかけている。


 時は八月。

 明日は俺の生まれた日。


 その日は俺の母親が―――死んだ日でもあった。

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