◎3
生まれ変わったオシリスの小さき背中を見送ったのち、ホコリはとあるものを包んだハンカチーフをアルコに渡した。
「なんですかこれ?」
「アルコさんの大切なものなのです」
アルコがハンカチーフの中身をあらためると、そこには青い宝石のような残骸があった。
「これは……竜呼びの笛」
こんな小さな破片なのによく掻き集められたものだ、とアルコは感心した。
しかもホコリは盲目のはずである。
「このネンちゃんたちが頑張って探してくれたのです」
ホコリが自慢げに言うと、粘菌たちはぽよんぽよんと胸を張るように踊った。
「ありがとうございます。ホコリさん、粘菌さん」
アルコは家宝を胸に抱いて何度も感謝した。そのお礼と言っては何だがアルコは白衣のポケットから小包を取り出したのちにホコリに差し出す。
「竜痘にはお味噌が効果あります。それで進行が食い止められるはずです」
「お味噌?」
「大豆という豆を麹菌で発酵させた食品のことです。患部に塗ってもよし食べてもよしの万能調味料なんですよ」
「これはこれはシュクランなのです。ドクターアルコ」
ホコリは半信半疑の様子だったが、最後にはアルコのまっすぐな言葉を信じた。そしてホコリは踵を返し戦火の火消しへと赴こうとした――まさにそのとき、ずっとあえて触れないでおいたホコリの隣の全裸の男がもぞもぞと動く。長めの前髪がだらしなく垂れている。
その男は全裸に手錠をかけられ首輪まで嵌められているという見るからに危険思想強めのアバンギャルドな犯罪者だった。
「ホコリ、おなか減っただいな」
「ドラのすけ、静かにしてくださいなのです」
「釣れないだいな。そうだ、粘菌ってうまそうだいな?」
そう聞くやいなや、ドラのすけは粘菌の丸々としたボディに囓りついた。
「何してるのです! 今すぐ吐き出すのです! ペッしなさい! ペッ!」
ホコリは慌ててドラのすけの鎖に繋がれた首輪を引っ張る。
ドラのすけはヨダレを垂らしながらキザギザの歯ののぞく口をカパッと開いた。
「ペッ。まずいだいな」
くっきりと歯形のついた粘菌は怯えきった様子でホコリの背後に隠れた。
「クンクン? なんだか香ばしい匂いがするだいな」
味噌の匂いに気づきだした野蛮人の気を逸らすべく、アルコは尋ねる。
「その方は誰ですか?」
「ハートハザードのドラのすけなのです」
「なんですって?」
思わぬホコリの答えを聞いて、アルコとキンタロウは顔を合わせた。
そしてキンタロウはドラのすけとメンチを切ると至近距離で詰問する。
「おいてめェ、ハートハザードの他の連中はどこいった?」
「知らないだいな」
「ああ? 知らばっくれてっと納豆の海に沈めんぞ?」
キンタロウは脅すもドラのすけはぐりゅるうとおなかを鳴らして答えるだけだった。
「それを今後王嶽金字塔で
ホコリは淡々とおっかない注釈を加える。
「どうせ無駄だいな。おいらすぐ喋っちゃうから最初から何も知らされてないだい」
どうやらそれはドラのすけの強がりではないようにアルコは感じた。まだいろいろ聞きたいことはあったが、ホコリは下級メジャイらとともにドラのすけを連行していってしまった。
取り残されたキンタロウとアルコだったが、しかし次なる目的地は決まっていた。
「ひとまず王嶽金字塔に向かうか」
「ええ。そうですね。王嶽金字塔にいけば囚われの身であるドラのすけをハートハザードが取り戻しに来るかもしれませんもんね」
ふたりの意見が一致したところで、アルコは砕け散った竜呼びの笛の残骸を白衣のポケットにしまう。一晩経ったら綺麗に直ってやしないかなとアルコが現実逃避の妄想する。
そこでふとアルコはとあるものに目が留まった。
いやそんなわけない。
信じられない。
そう内心繰り返しながらも、それをアルコは震える手でおっかなびっくり拾い上げる。
「どうしてそんなはずないのに……」
それは竜爺の形見である蒼い竜面だった。
しかもつい先ほど割れたはずだが、なんと元の状態に復元されていたのである。
継ぎ目も見当たらず綺麗なものだった。
「なんだか気味悪いですね」
「竜爺の形見になんて言い草だよ」
「いやそうですけど……どうします? これ持って行きます? それとも埋めます?」
「持って行くに決まってんだろ。肌身離さず、先生が」
「私ですかぁ?」
「ああ。頼むよ」
いつにもなく真剣な面差しのキンタロウ。
「その竜面は先生が持っていてくれ」
こんなときばっかりずるい人だとアルコは思った。
「そしてその竜面でもオリゼーでも止められなくなったときは、俺の息の根を止めてくれて一向に構わないからな」
「わかりました」
意外にもアルコは
「ですが、息の根を止めてからまた蘇生させますからね。覚悟してください」
「きひひ。実にあんたらしいな」
キンタロウは一安心したように笑うのだった。
そして今ここにミイラ医者が爆誕したのだ。
医者の不養生ばかりか、まさか不死身になってしまうとは……あれれのとほほ。
こんなはずではなかったとアルコは痛切に思う。
加えてミイラになっても相変わらず足下が疎かになってしまう。
「えへへ、甘酒の匂いで酔っちゃいました」
「甘酒の匂いごときでミイラのくせに酔ってんじゃねェよ。情けねェ」
キンタロウに言われて、アルコは自身の体について急に現実感を伴って考えてしまう。
「私の体の生理的現象はどうなるのでしょうか。菌たちにも栄養与えるためにおそらく食事は必要なのでしょうが、そうなると排泄も必要になります。ですが肉体に疲労が蓄積しないのであれば睡眠は必要ないかもしれませんよね」
もとより私だけの体ではないとはいえ制限は多くなるのか。
あるいはその逆か。
髪や爪は伸びるのか?
肌のシミやシワは増えるのか?
テロメアは短くなるのか?
寿命は?
記憶は?
生理は?
子供は産めるのか?
そしてなによりも大切な――
「お風呂は入れるんですかね?」
「そんなもんどうでもいいだろ!」
キンタロウはズッコけた。
「いやいやいや! お風呂に入れないなら私生きている意味ありませんもん!」
口を尖らせるアルコ。
アルコだってこう見えて普通の年頃の乙女なのだ。
ただ医者の卵で元お姫様で亡国の危機を救って一度死んで不死身のミイラとなって蘇っただけなのである。
「どこが普通なんだよ」
げんなり言って、キンタロウはずっと気になっていたことを訊く。
「というかそんなことよりもなんでミイラなのに先生の自我は残ってんだ?」
「そんなの私が聞きたいですよ」
私の脳は、心は腐るのか?
いや、腐るならまだいい。
本当の問題はそうではなくて、いつしか私の心は乾き切ってしまうのかどうなのか。
そこが問題だった。
いつしか何も感じなくなって感情が欠落してしまうのではなかろうか?
そんなミイラ化して初日の乙女に対して、ずけずけと無神経にもキンタロウは刃物のように鋭く問う。
「あんたは腐敗してんのか? もしくは発酵してんのか? どっちだ?」
「さあどちらでしょうね」
人類に益をもたらせば発酵、人類に害をもたらせば腐敗したものに――私はなる。
もっともそれ以前に。
「今の私は人間と言えるんですかね?」
「それを決めるのはあんただろ、アルコ先生」
「はい。まったくそうですね」
アルコは同意した。
とそこで、アルコは吸血鬼が銀の弾丸を心臓に喰らったように目を丸める。
そののち、おっかなびっくりキンタロウの顔をまじまじと見た。
「今……アルコ先生って」
「言ってねェよ、ゾンビ医者」
「誰がゾンビですか!」
「やーい、ミイラ先生」
「
涙も涸れるほど激怒するアルコにキンタロウはちょいとからかいすぎたと反省した。
「まあそう言うな。俺が悪かったよ」
なだめすかすキンタロウに、しかしアルコは本当はそんなことはどうでもよかった。
そしてアルコは儚く切なげに吐息を漏らす。
「いつの日か、私は地球上にたった独りぼっちになってしまうかもしれません」
それはなんと孤独なことだろう。
アルコは珍しく絶望しかかった。
しかしキンタロウはゆっくりと首を横に振り、一言だけ伝える。
「ひとりじゃねェだろ」
そうだ。
そうだった。
たしかにキンタロウの言うとおりだった。
そしてそれを言うならキンタロウのほうが親友の成長と旅立ちを見送り、妹と生き別れてよほど寂しいはずだ。
そうだ。
それでも私たちはひとりじゃない。
ひとりになることはけしてない。
ひとりになることなどできない。
「そうですね」
いつでもどこでも菌たちが傍にいるだろうし、いつの時代も麹菌に味噌を発酵してもらうたびにキンタロウのことを香ばしく思い出すのだろう。
まったく菌とはつかみどころのない不思議な生き物だ。
しかしたとえ視えずともたしかにそこにいて、きっとどこにでもいて、ずっといつまでもいて、まるで神様みたいだとアルコは思った。
でもそんな
しかれど、捨てる神あれば拾う神あり。
ここに業病の根源は去ったとはいえ、竜痘はいまだ根深く蔓延り感染拡大しているため撲滅させなければならない。
病魔は医者を待ってくれない。
雨、
それらの植物は雨菌によってさらに急成長して、あっという間に砂漠は緑化された。次々と樹木が屹立して原生林のビオトープを形成すると、山のような苔が地面を覆う。ちらほらと
そしてキンタロウは蓮華のように大きく丸い葉っぱを這う先住者のオッパイカタツムリに挨拶してから、それとは別の葉っぱを二枚摘み取り失敬する。
そのうちのひとつをアルコに差し出した。
「このまま歩こう」
アルコは
「歩きましょう」
アルコは葉傘で雨を凌ぎながら大きな一歩を踏み出した。その隣をもう一歩の足跡が追いかけると、置き去りにされた足跡に水が溜まる。その水上をアノマロアメンボの親子がなかよく滑った。
こうして無垢なる雨は生きとし生けるものに平等に降り
でんでらりゅうば 悪村押忍花 @akusonosuka
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