第32話 影一つ企み一つ思い一つ
今度は真の意味で沈黙した獅子面の死体を湖中へと置き去りにして、俺は藻掻き足掻いて湖面を目指した。
「…………」
ふと俺は振り返る。
首の骨を折られた獅子面は、簡単にその体から力をなくした。
なんとも言えない手ごたえだった。ぶつかり続けていた壁が崩れたような、ともすれば小枝が折れただけのような、そんな感触。
ただそれだけで、彼の首の骨はへし折れ、曲がってはいけない方向へと捻じれて、静かに――この音のない湖中へと沈んでいくばかりとなった。
ただ、この決着に――この結末に、あっけないと思う以上に、こんな勝利でよかったのだろうかと思う自分がいる。
あの獅子面はダンジョンボスとして――この低国ヴィネという世界最大級のダンジョンの最深部に待ち構える最悪の敵として、申し分ない実力を持っていた。
172層の街中を音速で横切り、その一撃は矮小な人間の体を弾丸の如きスピードで吹き飛ばす。連なるビルすら障壁とならず、おそらくは武術の心得もあったのかもしれない。
相手が俺でなければ――スキル〈重傷止まり〉の効果により、魔力が続く限り死ぬことがない、馬鹿力の俺でなければ、まともに戦うことすら難しかったことだろう。
「――ぷはっ! はぁ……はぁ……!」
湖面より顔を出した俺は、口いっぱい肺いっぱいに酸素を飲み込み、むせながら吐き出した。
音無き水の世界から、俺は地上に戻ったのだ。
奇策に打って出た獅子面は、勝負に負けて沈んでいく。勝者の俺だけが、この場所に戻ってこれた。
だからこそ思い返す。だからこそ振り返る。この半年のことを。もしものためと、一人立ちするためとヴィネに言われてこなしてきた基礎訓練のおかげで勝てたと――決して、ただ死なないだけのスキルだけじゃ、絶対に勝てなかったと。
少しだけ、心残りはあるんだけどな。
13層から落ちてきて、試練を与える側の存在の手を借りて、その上で彼女らの言う
「まあ、考えても仕方ねぇや」
あそこで俺が戦っていなければ、間違いなくコルウェットは死んでいた。それに、あの魔物も俺のことを逃がすつもりなんてなかったしな。
なら、こうなることも仕方がなかったこと――ん?
「ありゃ……誰だ?」
湖から上がって薬効団子を口にしながら、濡れた服を脱いでいたところで、遠くからこちらに近づいてくる影が一つ。
高い背丈に猫のような一本線を四つ頬に付けたその女は、間違えようもなく、数週間前に消えたバラムだった。
「よぉ、バラムじゃねぇか。いったいどこに行ってたんだよ。いや、まあここに来た時も突然だったし、突然消えたとしても不思議じゃなかったけどさ」
よかったよかった、下を脱ぐ前にバラムの存在に気づけて。
「……これは、どういうことかな?」
「あぁ……これな。まあ、ちょっとひと騒動あってな。お前のことだからうっそだーってバカにするかもしれないけど、俺みたいに新しい人間がここの階層に来たんだよ。そいつが――」
「――いや、そういうことじゃなくてさ」
「……?」
俺を前にして疑問を浮かべるバラム。彼女の言葉に、俺はその疑問ももっともだと、湖畔から見える、獅子面と俺の戦い(俺が一方的に殴られ続けただけの争い)の結果、崩壊してしまった172層の街並みの説明をしようとしたところで、その口から違うと、説明の言葉を止められた。
だからこそ、俺も疑問を浮かべるのだ。なにが、どういうことなのかと。
そして数秒後に、その疑問は解決することとなる。
「なんで、君が生きてるのさ」
「……は?」
少々の驚きをスパイスに込めた冷たい言葉が、俺の方へと向けられた。
なぜ俺が生きているのか、という疑問も、確かにもっともなものだ。獅子面のあれだけの猛攻を受けて生きている時点で、はっきり言って人間か疑わしい。
でも、彼女の浮かべた疑問が、そんなことではないと俺は気付いた。
だってよ――
「……何を、考えてやがるバラム」
あの時――バラムがこのダンジョンに姿を現して初めて会った時と同じような殺気が、俺に向けられてるのだから。
「はっきり言おうかな。あの子――コルウェットちゃんがどうしてこんなところに――人間が16層までしか到達できていないようなこのダンジョンの、最深部一歩手前までこれたのか。疑問に思ったことは無い?」
「……まさか、お前が?」
「そうだよ。私がやった。私が13層から突き落とした。彼女なら、落とされても生きているって知ってたから。そして、最深部の門番を倒して、ダンジョンボスを解放してくれるって知ってたから」
おかしなことを言うバラム。
だってよ、こいつがコルウェットの奴をここに突き落としたとして――あの高さを落下して生き残ることも、ましてやコルウェットが階層門番を倒すことも、この女は予め知っていたように喋ってるんだよ。
そんなの――そんなの、未来を見ることができなければ不可能だ。
「だから、私は不思議なんだ。本当だったら、君は死んでいたんだ。あの獅子面の悪魔に対して為す術もなく蹂躙されて、魔力が切れた最後の最後に、その命を終わらせる――はずだったんだ」
未来を見たように語る――いや、もうこれは未来を見ていると断言してもいいのだろう。
バラムという悪魔は、未来を見ることができる。
その上で、俺は――
「なんで、俺を殺そうと?」
俺は訊いた。なぜ、俺を殺そうとするのかと。
「……君が、ヴィネの傍にいるから。彼女が君を選んだのならばまだしも、そうでもないのに傍にいるから――だったらさ、殺すしかないじゃん。ヴィネは――ヴィネは、私だけの友達なんだから」
ヴィネのことをヴィネちんと呼び、俺のことをルードちんと呼んでいたお調子者の姿はどこにもなく、そこに居たのはどこまでも冷徹で冷血な悪魔だった。
嫉妬に狂い、独占欲に溺れた、悪魔がそこに居た。
そんな彼女が言うのだ。
「本当は自分から手を下したくなかったんだ。そんなことをしたら、ヴィネちんにバレちゃうから。ヴィネちんに嫌われちゃうから。だから、未来を見て、間接的に、運命的に、君が死ぬように差し向けたんだ。地上で冒険者の一行に紛れて、才能のある人間を突き落として、最深部の門を開けて――シナリオは、完璧だった。だけど、君は、生きている。生きていたんだ。だから――」
まくし立てるように語る彼女を前にして、俺の生存本能は過去にないほどの警笛を鳴らしていた。死に続けていて、死ぬかもしれない危険に鈍感になっていたはずなのに――あの獅子面の魔物を相手にしても、ここまでの警報はならなかったのに。
「――だからさ、死んでよ」
『スキル〈重傷止まり〉が発動しました』
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