街外れの板金屋

坂原 光

第一話「学校を卒業しても大人にはなれない」

「ありがとうございましたァー!!」


 走り去っていくポルシェ911に向かって、俺はできる限り大きい声を出す。これぞガソリンスタンドの店員、その鏡。……多分。おそらく、百万円台では買うことはできない、ハイオクガソリンを満タンにしたポルシェ911が道路に出て、走り去っていく。


 四月末に近い、明らかに冬の日差しとは違う、春の太陽を浴びて、高級車の黒い塗装が、やたらと光って見えた。


 今の俺では買える見込みも、買える希望も、いや、それどころが助手席に乗る資格さえない車だろう。唯一、触れる機会があるとしたら、あの車のオーナーが手洗い洗車を希望して、その時に少し動かすとき、くらいだろうな。


 それに、ああいう客はガソリンスタンドで洗車を依頼する、なんて選択はないだろうな。


 多分、ポルシェのディーラーで手洗い洗車をしてもらうんだろう。うちのスタンドなら手洗い洗車は三千五百円からだが、なんて言ったってポルシェだ。洗車といえど、最低価格でも倍はするだろう。


 しかし、そこまで仕上がりに差が出るものなのだろうか? 俺には理解し難いことであることは間違いないだろうと思う。


 客が誰もいなくなった隙を見て、先輩が近づいてくる。


「ポルシェの911だよ。好況とか不況だとか、株価が高いとか低いとか、俺にはよくわからん。わかるのはガソリンの値が上がるとか下がるとか、そんなことだ。


 そして、ガソリン代以外は俺たちにはあんまり関係がないことだ。そうだろう? だけど、金持っている奴はいつの時代にも、何処かにはいるもんなんだよな」


 先輩が……彼は佐々木という名前だ。佐々木先輩が、俺の視線を見て、そう話しかけてくる。彼は高校卒業して以来、ここで働いているらしい。彼は今二十四、つまりもう六年ほどここで働いている計算になる。


 俺は、自慢じゃないが、六年間も同じ場所にいたことはない。大学卒業したばかりだから、それはまあ当たり前のことなんだけれど。要は想像できないって言いたいだけなんだ。


「ここで働いている限り、ああいう車は買えそうにもないですね」


 佐々木先輩がジロリと睨みをきかせてくるのだが、それも一瞬で、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「そりゃ嫌味か? でもなぁ、大多数の人たちはあんな高級車を買うことは難しいんじゃないかな。少なくとも、俺は間違いなく無いよな。正社員ったって、ガソリンスタンドじゃあ別に給料が高いわけじゃないからさ。


 でも黒田君は可能性はあるんじゃない? まだ若いしさ。よく知らないけど、飛ぶ鳥落とす勢いのベンチャーにでも入ってさ。ああ言うところは給料高いって聞くし。又聞きだけどさ。本当かどうかは知らんよ。


 もっとも、今みたいにここでアルバイトしてて、それが長くなっちゃったらダメだろうけどさ。だから、まあ俺からのアドバイスとしてはちゃんと人生を考えた方いいぜ、って話。少なくとも、学生時代よりも社会人の方が人生は長いからさ」


 ちなみに、黒田というのは俺の名前だ。あえて説明するまでもないことだけれども。


「……そうですね。でも、いくら人手不足のベンチャー企業だって、向こうが選ぶ権利はありますからね」


 話が難しい方向に流れそうになったその時、新しい車が入っていくる。それに続いて、本当は、先を見据える力は、まだ俺には無いですよ、と言うつもりだったのだ。でも、言わなくて良かったのかも知れない。


 今度は赤い、マツダの車だ。ロードスター。ガソリンスタンドっていうのは車が途切れることがほとんどない。営業時間はいつもひっきりなしと言っていいくらい、車が入れ替わり立ち替わり給油をしにくる。


 外から見ると、スタンド店員は暇そうに見えるかもしれないが(実際、俺だって働き始めるまでここまで動き回る仕事だとは思っていなかった)、その実、結構忙しいのだ。


 セルフスタンドに慣れていない客、洗車だけしたい客、タイヤの空気圧チェック、タイヤ交換の勧め、スタッドレスタイヤの紹介、オイル交換の勧め、車検の勧め、ウインドウオッシャーの補充、バッテリーのチェック。アプリ導入のお知らせ、会員カードの勧め、手洗い洗車……。やることは多岐に渡る。ほらまた次の車だ。今度はどこの車だろうか? あれは……。


「いらっしゃぁせー、こちらへどうぞォー」



 俺がこのガソリン・スタンドで働き始めたのは大学を卒業した今年の四月からだ。三月までは大学生だったのだが、卒業して四月からはフリーターとして、アルバイトとして働いている。


 働いていると言えるのか? 言えるだろう。給料だって出ている。アパートの家賃だって、ガソリン代だって払える。それの何が問題で、何が問題じゃないのだろうか?


 人は言う。『どうして大学を出ているのに、就職しなかったのか?』と。


 人は言う。『なにかやりたいことはないのか?』と。


 人は言う。どうして?

 人は言う。なんで?

 人は言う。なにがしたい?

 人は言う。どうなりたい?

 人は言う……。


 きりがない。そして、そのどれにも多分、正解がない。



 正直なところ、俺は就職活動になんてまったく興味がなかった。働きたいところなんてないし、行きたい会社なんてあるわけがない。そんな人間が面接に行ったところで間違いなく落とされるのが落ちだ。いや、よく考えてみれば、真面目な振りをして面接に行って、人事の人間にこう質問してやればよかったのかもしれない。『あなたが本当にやりたいことはこれなんですか?』と。もっとも、そんな気力が俺にあるのかどうか。



 とにかく、俺はどこにも職を得ないまま大学を卒業した。卒業式の日、ここにガソリンを入れに来たら、スーツを着ている俺に佐々木さんが声をかけてきた。ここには何度か給油しにきていたから、顔見知りに近い存在だった、と言うわけだ。


「いらっしゃい。珍しいねスーツなんて。就活?」


「いや、卒業式でした」


「卒業おめでとう。じゃあ四月から働くの?」


「だったら良いんですけど、正直な話、何も決まってないんですよ」


「……何もって、何も?」


「ええ。純粋に無職です」


「じゃあ、うちでアルバイトしないか? 今人がいなくてさ。本当に、猫の手も借りたいっていうか」


「え? 俺なんかで大丈夫なんでしょうか?」


「大丈夫大丈夫、俺だって何にも知らないただの高卒だったし、そんな俺でもなんだかんだ言ってもう直ぐ五年だよ? それに、こんなに渋い車をセレクトするくらいなんだから、全く問題ないよ」


 車はたまたま手に入れただけだから、根拠はよくわからなかったが、どうせアルバイトでも探そうと思っていたところだ。ちょうど良いのかもしれない。その日一度帰って、就活用に作成した履歴書を持って再度その店に行くと、直ぐに面接となり、即採用となった。


 翌日、俺はガソリンスタンドのアルバイト店員となった。朝、愛車である中古のスバル・プレオに乗ってスタンドまで行く。着替えて店を開く前のチェックをする。そして開店。あとはひたすら客を待つ。あるいは掃除。そんなこんなでもう一ヶ月になる。佐々木さんが予言したように、確かに俺でもなんとかなっている。



 そんなある日、客がぶつけた車を持ってきた。どうやら家の車庫でぶつけてしまったらしい。そんなことは俺が働き始めて初めてのことだった。


「あの車、どうするんです? とりあえず預かったみたいですけど」


「ああ、修理するんだよ」


「え? うちでですか?」


「ううん、青木さんのところに持っていくんだ。多分店長がもって行くでしょう」


「青木さん?」


「そうか、黒田君は知らなかったか。うちが懇意にしている板金屋だよ」


「板金屋?」



 俺がその街外れにある板金屋、アオキ板金のことを聞いたのは、その日が初めてのことだった。

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