第16話

5年前の開幕戦始球式を女優の内田菜々がつとめることが知らされ、チームは最高潮にどよめいた。


当日、球場に姿を現した菜々に、インタビューアーやアナウンサーなど見慣れたチームメイトたちも言葉がなかった。


実物は映画やドラマで見る以上に、想像をはるかに超えて美しかったからだ。


投手の沢田が投球フォームを熱心に指導をしたり、捕手の小野崎まで立ち会う。

ベンチには報道陣から普段なら姿を見せない幹部職員までごったがえしていた。


どこかのお偉いさんが来てもありえない光景に、後輩たちは面白がりながらも羨ましかった。


他の選手と同じように女優を見に来ていた光田に、同期の寺沢が言った。


「すごい美人だな。同じ人間とは思えないな」


「あぁ」


「光田は羨ましいよな」


「何で?」


「え、知らないの?」


寺沢が話を続けようとした時、うまい具合に召集がかかりその時はそれで終わってしまった。


その日の試合はさよなら勝ちし、興奮の余韻に包まれていた時、光田は球団職員から呼び出された。


年俸の契約など重要な時にしか使われない事務所の一室。


電撃トレードだとか、なんらかのトラブル発生とか、何かあるに違いない。

昨年の成績、チームからの期待から考えてもそんな扱いをされるとは考えられなかったが、それでも光田の胸に不安ばかりが去来した。


ところが、少しして部屋に職員と一緒に入って来たのは内田菜々とその関係者だった。


「菜々ちゃんが悠也のファンで。ご自分のユニフォームにどうしても直接サインをお願いしたいと」

目の前に立っていた内田菜々は、まるで人形のようで愛らしく品があり、華やかなオーラがまぶしくて目が眩みそうだった。


ただ立ち尽くす光田に、内田菜々はユニフォームとサインペンを差し出した。


「お疲れのところ申し訳ありません。是非、宜しくお願いします」


菜々の差し出したユニフォームには光田の背番号が刺繍されていた。


菜々からユニフォームとサインペンを受け取り、菜々さんへと書いてサインをした。


ユニフォームとペンを手渡す光田の手が震えた。


それを見た菜々は微笑み「ありがとうございます。握手もお願いできますか」と右手を差し出し、穏やかな声で言った。


光田はその白くて美しい右手を握った。


菜々の関係者はそれを面白くなさそうに見ていると、まるで連れ去られるように事務所から出て行った。


「内田菜々がお前の大ファンで、直接サインをもらえるなら始球式に出てもいいと言ってきたんだよ」


球場が改装オープン後の初シーズン始球式。

球団も気合いが入り、大人気の内田菜々にダメもとで打診したところ、先方の条件が光田から直接サインをもらうことだった。


そんな職員の説明より、光田は手の中に忍ばされた何かに気持ちが集中していた。


菜々が握手をした時に握らせた紙切れのようなもの。


じっとり汗ばんだ手をそっと開くと、やはりメモ紙で、光田は誰にも気づかれないようにそれをポケットに突っ込んだ。

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あの日、きみに出会えた 高崎さおり @takasaki-k

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