処女(おとめ)は死に、(村時雨ひさめ)



視界の端に捉えるだけで思い出した。

可憐な少女の姿。あの時から二度とも見る事も無かった少女の姿。


思い出した、ともまた違う。忘れた事は無かった。あの時から一度も、心の片隅から離れた事は無い。何も知らない人は彼女の事を悪女だと、心ない言葉で罵っていた。


だが少なくとも俺は知っている。彼女は、そういった事を考えられるような人では無かった。あのように、輪を乱して、誰よりもやつれていたのはひさめさんだった。


あれから、会う事も、連絡を取る事すらできないままに何年も経ち。かつての記憶すら曖昧になっている中で、道端にすれ違う。


奇跡のようだった。

人と人との出会いに運命があるという言葉を信じてしまうようだった。



その日漫然と少し家から遠い図書館でぶらつこうという目的は、彼女に再び会うという目的に入れ替わり、その通り足が動いた。




「おい。なんだ、あんた」



追いついたその時、大きな影が目の前に立ちはだかった。彼女の横に立っていた男。

背丈の大きいそれの顔には、背後からではわからなかった大きな傷が残っていた。


息を呑み、萎縮する。

と、瞬間。彼女が声を上げる。




「あ、もしかして…!

覚えてるよ![  ]君だよね!」



ひさめさんは、なんと俺の事を覚えてくれていた。たった一年も満たない期間の間の事を、思い出したくもないであろう時の事を。



俺と話している時のひさめさんはぎこちなく、少し固く、しかし笑っていた。


今を笑って過ごせるような、そんな生活をしていると言うことだ。他人事でありながら、とても安心した。


そしてその横で、先程の人物が頭を下げていた。どうも、付き纏うような、「そういった」人も多いからどうしても警戒してしまったのだと。


無理のない事だし、むしろ当然の警戒だ。気にしていないと言うのに頭を下げ続ける様子からして、心根が優しい人物のようだ。

彼の存在もまた、彼女が今に至り笑えるようになった要因なのかもしれない。と、そう思った。


大学は何処なのか。

最近はどうか。

差し当たりの無いような会話をほんの少しだけして、別れるつもりだった。


ただ、最後に少し欲が出た。

「もしよければ、連絡先を教えて貰えませんか」と、言葉が出てしまった。


しまったと青ざめた俺には気づかないままに彼女は笑って、二つ返事をしてくれた。



その日は、周りの目が無いならばスキップでもしたいような気分だった。






……




それからの俺はまあ、偏執的というか、少しおかしかったと自分でも思う。


何をするにも脳裏にあの笑顔が残り続けて思い続けた。毎日は気持ち悪いからと、一日おきに連絡をし続けた。

気付かれないように大学の近くまで通い続け、その顔を見るだけでもと追いつづけた。周りを散々に調べた。


自分がおかしいと気づいたのは、何かしらのきっかけがあった訳ではない。

ただ、ふと、いつものようにただなんでもない事を口実に連絡を取ろうとしていた時。


これじゃあ、あの時の、自分が見下した人間と全く同じだと思った。


我欲の為に輪を、周りを乱して、邁進する糞貯め共。愛している筈の人すら不幸にしてもまだ足りない阿呆達。



区切りを付けなきゃ行けないと思った。

心に区切りを。想いに区切りを。せめてもの区別が無ければ俺は、俺が一番なりたくない愚物になってしまう。




偶然を装い、彼女に道端で出会った。

横にはまた、あの巨躯の友人がいる。


話をしたいと申し出る。

ならば俺もと着いてきかけた彼に、申し訳ないが二人で話させてほしいと、言う。


渋る彼に、ひさめさんが大丈夫と笑いかける。やさしい人だから、大丈夫と。



そうして、二人になった。ただ、俺はやるべき事をやらないといけない。

カラカラになった口を唾で湿らせて、話す。



「多分、これを言われても、ひさめさんは迷惑なだけだとわかっています」



「うん」



「でも、言わなければどうしようもないから言わせて貰いたい。俺は、貴女を守りたい。世の不条理から、周りの不信から、愚物の罵倒から」



「…あの時から、ずっと思ってくれてたんだね」



「はい。

……貴女の傍に居たい。駄目ですか」




ただ、一息に言い切る。

待つ時間は、短かった。

答えは決まっていたのだろう。




「ごめん」



それは、そうだ。俺如きが彼女の寵愛を受ける筈が無いと分かっていた。

否、誰も受けるべきではないのだ。



「気持ちは凄く嬉しいよ」



そう、気遣い言ってくれる。

心優しき乙女の愛は止めどなく、故にこそ個人が受け止めるべきではないのかもしれない。そう、諦める事ができそうだった。



「でも、もう大丈夫なんだ」



ただそれでも、どうしても残る悔しさに掌を握り込んだ。その痛みに、少し耐える。




「…もう、守ってくれる人はいるから」


 


その言葉に、ばっと彼女を見る。


軽く指を絡ませ、上気した頬。緩む口元に細くした目。


なんだその顔は。どうして、そんな顔で何もない方向を見る。どうして、道で待っている筈のあの男の方を見る。


あいつ。

あの男。

古賀集。

また俺の邪魔をするのか。

初めてすれ違った時に立ちはだかったように、今ですら邪魔を。



沸々と、抑えていたままの感情が煮えたぎる。心から溢れて、蒸発していく。


自制が効かないほどの憤り、嫉妬に焼かれ、全身が煮えたぎるように熱くなる。

気に入らない。気に入らない。


もう、いい。

ぐつぐつと、そのままに言えばいい。





「…あのような男はやめた方がいい」



「え?」



「見るからに粗暴で、実際にそうなのでしょう。チンピラ紛いの人間との関わりも散見されるし、しょっちゅう警察沙汰になっている。暴力にも事欠かないし、それに…」



息が切れる。まだ言い切れてなどない。

思い切り吸う。



「…奴と居初めてから貴女の周りにおかしな事が起こり始めた。…全てあいつのせいだろう。あの男が不幸を連れてきてるんだ。そうでなくても、災いを招くような男である事は確かだ。守れるのはアイツじゃなくて俺だ!」




言い切り、深呼吸をしようとするが、ぜえぜえと息が整わずに肩で息が出る。何十キロも走ったように、どっと疲れていた。


何故、そんなに詳しいのかと、恐怖されただろうか。一抹の不安すら、一種の爽快感に攫われていく。



そう、していると。




「ありがとうね」




そう言ってひさめさんは手を掴んでくれる。

その感覚に、天にも昇るような喜色が浮かぶ。


ああ、ほら見ろ。俺の勇気に彼女は味方をしてくれた。俺が正しかったんだ。

俺は、乙女も守ってやれるのだと。



「善意から言ってくれたのもわかってる」



わなわなと震える声で、そう言っている。

その震えは、俺にも伝わってくるようで。





「でも君が彼の何を知ってるの」




肺が握り込まれたような感覚。

握られた手を辿り、彼女を見る。

今まで見ていたと思っていた姿は、想像の中の姿でしかなかった。


そうだ。俺は初めて気がついた。

そう吐き捨てるように言い放つ彼女のその眼は、最早憎悪にすら囚われて俺を見ている。


軽蔑、厭忌、憤怒。

眼鏡の奥の瞳がじっとこちらを見据える。


そうだ。初めて、気がついた。

この手は受容の為の握手では無い。


敵を逃さない為の鎖だ。




咄嗟に手を払って、逃げた。走って、走って、走れなくなるまで走った。

そのまま記憶が無い。


気がつけば家に着いていた。

そのまま、寝床に転がり入った。


携帯に、着信がいくつもいくつもある。

全て糾弾。次第に着信になっている。

怯えながら端末を投げ出した。



あの眼だ。

あの眼が、脳裏に焼き付いている。

笑顔など思い出せない。

ただ、あの軽蔑の顔だけが。



悪魔だ。俺の知ってる少女はいない。

あの優しい処女(おとめ)は、何処にも居ないのだ。



そうだ。

そうなのだろう。


時が、淡い思いを抱いた彼を妄執を持った気狂いに変質させたように。


時と男が処女の純潔を奪った。


一人の処女は死に、代わりに一つの悪魔が生まれていた。一体の、情念を持つ悪魔。



どろどろと、どす黒い感情の悪魔が。






……





「ごめん、待たせちゃって」



「ああ、お疲れ。…何かあったか?」





「ううん。何も」


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