夜目遠目、傘の内(古賀鈴)
ひどい雨の日だった。少し大きめの傘を持ってきてよかったと心の中で軽く安堵をする。そうして帰宅準備をしていた。
今日は珍しく何も無い日だ。たまには家にゆっくりと帰るのもいいだろう。
周囲が慌ただしく傘を借りに行ったり、走ってなんとかしている玄関近くの音に耳を澄ましてからクラスの外に出る。
ふと、傘が無いと嘆くクラスメイトの声が聞こえた。
俺は手の中の傘を見て……
「兄さん」
おや。
声の方を見ると、そこにはセミロングの少女。所在なさげに、少し居心地が悪げに壁に背を預けるその身体には中等部の制服を纏っている。鞄の状態の良さが彼女の清廉さそのものを表しているようだった。
そして俺は、その子の名前を知っている。
名前だけでないが。
だから、声を掛けた。
「…鈴、どうしたんだ?
伝えないといけない事とか?」
「お疲れ様です兄さん。いえ、伝えないといけない事などは無いんですが…」
そう言うと、また少しだけ気まずそうに前髪を弄っていた。彼女にしては珍しく、煮え切らない態度になんだか少し不安になる。
何か、問題ごとが有ったんじゃないだろうか。そう一つ声かけをしようとした時。
「…その、一緒に帰りませんか?」
ゆっくりと、鈴がそう言った。顔を見ると、気恥ずかしそうに目を逸らし、頬を染めていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「……いや、ごめん」
「いえ。どうせそんな事だろうとは思っていましたよ。兄さんはいつもそうですから」
「…悪い」
さて、今は下校路。鈴と一緒に帰っている。
…ただ普通と少し違うのは、俺たちは今一つの傘に入っている事だ。
こうなったのは、完璧に俺のせいである。傘が無いと嘆くクラスメイトに、結局傘を一つ貸したまではいい。というのも、こういった時用に俺はいつも折り畳み傘を予備に持っていたからだ。
だからそれを差して帰れば良いと思って…
バッグをひっくり返した。
無い。そこまでやって思い出した。バッグの整理の時に机に置いて、そのまんまだ!
ハッとした時には、妹は此方に呆れた様な視線を向けながら、傘に入ります?とジェスチャーをしていた。情け無くも、俺はその申し出を受けさせてもらった…
というのが、顛末だ。
『傘は兄さんが持って貰えますか?
私が持つと貴方の肩くらいにしか届かないと思いますので』
そう言われて、今は俺が右手で傘を持ち、大きめな傘の中に二人が居る状態になっている。
この状態は、何処か新鮮だ。
なんというか、過去に何度か経験をした筈でもあるけど。それでも、そう。これは。
「そういえば、鈴と一緒に帰るのなんて久しぶりな気がするな」
そうだ。懐かしいのだ。
…鈴は優秀で人当たりも良い。故に色々な所に助力を頼まれたり、そうでなくとも他の友人と共に帰宅する事が多い。
実際、いつまでも兄妹離れ出来ない俺に合わせるよりも友達と一緒に帰る方がいい筈だ。だから最近はもっぱら別に帰っていた。
だからこのような距離で、相合い傘で下校するなど、本当に子供の頃ぶりだ。
「今日は俺と一緒でいいのか?」
「なんです。私が居ると不都合でも?」
「違うって!嬉しいからつい聞いちまうんだよ」
そう言って、そのまま鈴の頭を撫でる。
…ハッと。これも良くない。わかってはいるんだが…つい、子供の頃からの癖は抜けない。また、この相合傘の距離が、俺の認識を昔と勘違いさせてしまっているのかもしれない。…
いや、しょっちゅうこんな事してるから違うか。
「…に、兄さん。
人の目もありますし…それくらいで…」
「う、ごめん」
「いえ…オホン!
話を戻します。私が今日わざわざ来たのは…」
思ったよりされるがままだった鈴は少しだけ頬を緩めていたが、少し経ってからわざとらしい咳払いをしてから体裁を取り繕う。そしてまたキリとした顔付きで言った。
「…私が来なければ、兄さんはまたどうせ誰かに傘を貸してずぶ濡れになってしまうんだろうなー、なんて思っただけです」
ぎくりと、身を摘まれる気がする。
顔を伺って見ると、ツンと俺の反対方向を向いてしまっていた。
むう、返す言葉も無い。
実際、あの場に鈴が居なければ俺はこの雨の中を猛ダッシュで駆けていた事だろう。
「…あれ?ずぶ濡れになる予想が付いてたって事は、俺が折り畳み傘忘れてたの気付いてたのか?それなら言ってくれてもいいのに」
「まさか。いえ、そんな意地悪はしませんよ。私は単純に、ただ…」
「ただ?」
「…兄さんなら、そっちも誰かに貸す、なんて馬鹿な事をしかねないなんて思ってたんです」
ざくり。
胸にその言葉がぶっ刺さったような気がする。
もう一度顔を伺おうとするが、顔はぷいとそっぽを向かれて、見る事は出来ない。
「……さ、流石にそんな事は…」
「しますよね?」
「………はい。します…」
負けを認めて自供する。というのも、これは根拠の無い詰めでは無いのだ。一回正に、そんな状況になってずぶ濡れで戻った事があった。その時は鈴にも怒られてしまったものだ。
そんな負い目もあり、まるで言い返せない。
いつからか、さっぱり妹に口喧嘩で勝てなくなってしまったなあ…そうしみじみと思っていると、ため息の音が聞こえる。
「…いつもそうです。私が付いていないとすぐに無茶をするんですから」
「というより、私が居ても無理しますし。
それでまた居ないと尚更ひどい無茶ばっかりしようとしますよね、兄さん」
「おいおい、そんな事はしてないって。
危ない事とかは流石に断るし」
「自覚ナシですか。全くもう…」
ぎゅっと、傘を握る手の上から握られる感触がある。外気に触れた、少しだけ冷たい手。
でもその小さな手は確かに温かだった。
「…大丈夫?
詐欺とかに引っかかったりしてない?」
「何詐欺だよ。
お爺ちゃんじゃねえんだぞ俺は」
「だって、生徒会長に何かこき使われてるって噂も聞くし。何か言いくるめて良いように兄さんを使おうとする人もいると思いますよ」
「…あー…アイツも、そういう訳では無いとは思うんだけど」
「ほら、もう。人が良すぎるんですよ兄さんは。もう少し人を疑う事を知るべきです!悪意のある人間なんて山ほど居るんですから!」
そう言うと、鈴が横歩きに俺の前に顔を出してくる。背の関係上、胸元くらいに顔があるような状態であるにも関わらず、その勢いに気圧され、少したじろいでしまう。
少しむっとした顔をすっと上げて、また鈴が歩き始める。俺はそれに置いてかれないように急いで前に進んだ。
「…本当は出来るだけ、一緒にとは思うんです。でもそれぞれ忙しいし、ずっと一緒には居られるわけなんてない。それもわかってる」
「ああ。気持ちは嬉しいよ」
「でもせめて、困った事は私に話して貰いたいです。相談してほしいんです」
相談。何かを聞かなければどうしようもないと言うような追い詰められ方をしている訳でもないんだが。
「…今、『別にそうする程じゃないのになー』みたいな事思ったでしょう」
…バレてる。
そんなに顔に出てたろうか。
「…例えば。今日の話です。傘を貸して、そして折り畳み傘は無い状態。もし私が来なかったら、きっと兄さんは濡れたまま帰ったでしょう。誰にも、私にも貸してと言わないままに」
「……まあ、そうだな」
確かに。言われなければ俺は誰かに借りたり、なんなら鈴と相合い傘で帰ろうという発想をしなかっただろう。
「ねえ、兄さん…」
「私、そんなに頼れない?」
…
……
雨の音が、遠く聞こえる。
代わりに心臓の音が少しだけ大きく聞こえた。
それは、さっきまでの緊張とはまた違う緊張。
一つ傘の下に居る喜び、肩が触れる距離の嬉しさからくる物では無い。
不安から来る緊張。もし、そうだ、と言われたらどうしよう。お前は頼れないと。仮初にでもそう言われてしまったらという思い。
ぎゅっと、傘を持つ兄さんの手を改めて強く握った。雨に濡れて冷たいその手からは、それでも体温が伝わってくる。
「…まったく、お前は自分を過小評価しすぎだよ。もしくは俺の過大評価」
ふわりと、頭に置かれる手の感触。
もう、いつもそろそろやめないとな、なんて言ってるのに全然やめる気配もないんだから。
そして、その感触につい良い気分になってしまう私も、駄目な子だ。
「俺はいっつもお前に頼りっきりだって。鈴の方がしっかりしてるし、料理も上手いし、何より俺よりよっぽど優しいし」
撫でられる感触と諌めるようなその声に、雨の音が更に遠くなる。心臓の音はまた、大きく聞こえてきた。
「まあでも、心配してくれてあんがとな。お前の言う通り、もっと色々頼るようにするよ」
そう、にっこりと笑った。
ああ、もう。
きっと、兄さんは変わらないだろう。
この人がこう笑った時はいつもそう。
聞いてないわけじゃないし彼なりにやろうとしてるけれど、結局ダメな時。
これから先も、私に言われた事なんて無かったみたいに一人で全部やろうとするし、人を疑う事なんて知らないまま。
「……もう。約束ですよ?」
でも、いいんだ。
不服と焦りの中に、不思議な、満足感みたいなものを一緒に感じる。
兄さんの肩を見る。じっとりと濡れている。それは兄さんが私の方に傘を傾けて、自分が濡れる事を勘定に入れてない、そんな持ち方をしていた事を表していた。
そうだ。私は、こういう兄さんだからこそ。
こんな彼をずっと見てきたからこそ好きになってしまったのだから。その無くならない芯のある姿が、私がずっと見てきた背中だから。
ため息を吐くほど心配な事に変わりはしない。でも、それが無くなって欲しいとも思えない。
「おう、約束。
困ったら俺は鈴に相談するようにする」
どうやっても、兄さんは知らんぷりをして何かを助けようと無茶をするだろう。まったく、いつだってそう。それのせいでどれだけハラハラしてることか知らないクセに。
だから私は、せめて側に居る。
妹だから、貴方の横に居られる。それ以外できないかもしれないけど、それだけはしたい。
それがどれくらい役に立つかも、わからないけど。それはただの自己満足かもしれないけど。
ふと気付いて、傘の外に出る。
雨粒は、止んでいた。
…
……
「…雨、止みましたね」
「お、本当だ。傘はもう要らないかな」
そうして傘を閉じる。
良い天気になるとまではいかないが、雨粒が無いだけありがたいだろう。
「…んじゃ、そうだ。
早速頼って良いか、鈴」
「おや。珍しいですね、そんな事」
「…今日の献立、どうしようか。
冷蔵庫に何残ってたっけ」
「あー…ふふ、成る程。
確かにそれは重大な問題ですね」
「そうなんだよ、確かもう大根も古くなってたし使っちゃわないとって思って…」
「…ですが。
それについて考える必要はありませんよ」
おや、なんでだろうか。
もう廃棄してしまったとか?
「今日はお母さんが早上がりなので作ってくれるそうです。久しぶりにって言ってましたよ」
「………え!」
知らない情報だ。
急いで携帯を見てみる…と、確かにそれが書いてあった。…マジかよ。
「悩んだ意味ナシかよ…」
「ほら、落ち込んでないで帰りますよー。
また降られてしまったら面倒臭いですし」
「ん、そうだな。
まあそん時はまた傘を差せば…」
そう一人ごちていると、鈴がまた俺の前に立った。そして、少し嬉しそうにこう言った。
「どうです?
相談してみるの、悪くないでしょう」
そう、笑みを浮かべていた。
それはいつも見る利発そうな笑みでもなく、人当たりの良い爽やかな笑いでもなく…
にたりと、悪戯っぽい、笑い顔だった。
「えーい、やかましい」
そう、頭を上からぐりぐりとする。
鈴がくすぐったそうにそれから逃げる。
なんというか、愉快な帰路だった。
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