ナミザ第3話

 マテラは嫌な女だった。それだけは確かだ。


 マテラが森を抜け出さなければ僕の人生はもっと安らかなものになっていただろう。あの女が掟を破ったから一族は滅びた。


 マテラはとても優秀だった。僕はその足元にも及ばず杖の子らの扱いも人一倍下手だった。だからと言ってそれを悪く言う大人はいなかった。一族は互いに助け合うものだと教えられていたから誰かを貶めることなんてなかった。


 しかし、マテラは違っていた。


 マテラは外面がとても良かった。大人には媚びへつらい、仲間内でも信頼は厚かった。僕以外にはと前置きがつくけれど。


 僕はマテラの残忍さを知っている。


 マテラは言葉で僕を罵りはしない。ただ見つめるだけだ。僕の出来の悪さを心底呪っているかのようなそんな瞳で僕を見るのだ。


 マテラは僕を笑いはしない。僕を嘲って笑ったりはしなかった。その代わりに僕に対して暴力をふるった。僕が何かを失敗した時誰もいないことを確認して腹を二度殴るのだ。そして痣ができる。


 だからマテラが掟を破ったと聞いた時もなんの驚きもなかった。


「なぜ森を出た?」


 族長は荒々しく言い放った。


 僕は壁一枚挟んだ隣の部屋で彼らの会話を聞いていた。


 マテラは何も答えなかった。


「マテラを連れ出したのは俺です」


 マテラが答えないから代わりに別の人の声が聞こえてきた。


「俺が連れ出しました。この地図を見ればわかります」


 その声の主はサナギだった。僕よりも二つ年上のマテラの友人だ。彼はとても馬鹿な奴だった。僕はサナギがどういう人間か知っていた。だから、サナギが首謀者でないことをわかっている。マテラが外に出ようとしていることは知っていた。毎晩のように彼女は自慢していたのだ。


「もうすぐ僕は森を抜け出してやるんだ」


 そんなことを言っていた。本当に馬鹿だ。


 誰が首謀者か、族長にとってそんなものはどうでも良かったのかもしれない。


 いや、むしろ族長にとって最も重要なことはまた別の場所にあったのだろう。


 マテラは確かに優秀だった。杖の子の扱いも同じ年頃の中では比肩する者もなかったし、人望もあった。次期族長候補と言って差し支えなく、そんな者と一個人であり親もないサナギは比べられなかっただろう。


 サナギは森から永久に追放されることになる。


 マテラは雑居房のようなところにしばらく閉じ込められた。それが彼女に課された罰だったが一ヶ月や二ヶ月そんなところに閉じ込められたとしても何の罰にもならない。僕はサナギに同情し同時に呆れ返っていた。


「馬鹿なやつだよな」


 そんな風に呟きながら僕は森で一番高いイチイに登ってあたりを見渡した。


 木々は葉を落とし世界全てが朽ちたように閑散としていたことを覚えている。


 空はどこまでも青く澄んでいた。遠くの方まで見通してもどこにも雲はなかった。


 サナギは本当に馬鹿な奴だ。


 僕はマテラ以外に貶められたりしなかったけれど孤独ではあった。そんな僕にいつも声を掛けてくれたのはサナギだけだった。


 しばらくしてサナギは森から姿を消した。ひっそりと見送られる事もなくただ一人でいなくなった。僕はサナギのことを馬鹿だと思っていた。ただそれ以上に寂しくなった。彼は一人で僕も一人だった。僕もこの森から消えてしまいたいとさえ思っていた。もしかしたら一緒に連れて行って欲しかったのかもしれない。


雑居房に入ったマテラはずっと黙り込んでいた。


 僕は街中を歩き回った。東の端から西の端までできる限りこの街を把握したかった。僕は杖の子らを制御しなければならない。彼らが好き勝手に街の外に出ていかないように抑制しなければならない。


 僕が街中を歩いていると時計台の下で変わった男に出会った。


「遺伝子の自然淘汰に感謝すべきかな? 病に苦しむ人を救えるだろう。彼女がいれば……」


 時計台の辺りをゆっくりと歩いていた。そんな折に聞こえてきた言葉だった。声の主を見てみると黒い外套を着た男だった。眼鏡の奥では眠そうな瞳が揺れている。小綺麗に髭まで生やしていた。他の人間と彼は少し違っていた。彼には杖の子らがあまり寄り付かないようで所々に見える程度だった。あの少女のようではなかったけれど。


 だから、彼が何となく医者ではないかと思った。医者特有の匂いもした。


 男はもう一人の若い男と話していたがすぐに別かれた。


「なんの話をしていたんだい?」


 僕は彼の横にいって尋ねた。


 彼は少し驚いたような顔をしてから小さく笑った。


「驚かさないでくれるかな? 君」


「驚かせるつもりはなかったのだけれどね」


 その男は「なんでもないよ」と言った。


 『病』と聞くと僕はミュンクヴィズを思い出す。だから彼ももしかしたら僕らの話をしているのではないかと見当をつけた。


「病気は怖いなあ。ミュンクヴィズの一族は滅びたけれど」


 わざと僕は一族の名前を言った。しかし、期待したような反応はなかった。


「惜しいことだ。彼らが滅んだことは医学にとっては致命的かもしれないな」


「どうして?」


「彼らについて研究してみたかったからね」


「あなたは研究者?」


「研究者であり、医者でもあるね」


 彼は朗らかな笑みを浮かべていた。


 彼はエドモンドというらしい。


 僕と彼はゆっくりと広場の側を歩いていた。中央に噴水のある大きな広場だった。


「それでさっきは何を話していたの?」


 僕が言うと彼は顎に手を当てて考え込んだ。


「ああ、君には友達はいるかな?」


 エドモンドがどうしてそんな質問をするのかわからなかった。


「昔は。今は色々なところを転々としているから」


「そうかい……」


 エドモンドは押し黙って広場で高く吹き上げる噴水を眺めている。


「君は病にかからない人間がいると思うかい?」


 エドモンドは噴水を見ていたが不意にこちらに目を向ける。


 僕は作り笑いを浮かべながら言った。


「いるかもしれないね」


 エドモンドは目を見開いていた。


 歩いているといつの間にか目の前に白く大きい建物が見えた。厳しい正門には獅子の像が二体、門を挟むように据えられている。


「いるんだよ。世の中にはね。病を寄せ付けない体質の人間がね」


 門の前の潅木には赤色の杖の子らが付着している。


 人間の中に僕たちと同じものがいると言うことは信じがたい。しかし、ふと白いあの少女のことを思い出した。


「そんな奇跡のような人間がいるんだ。彼女の体は人間の未来を照らす光だね」


「そんな人間が本当にいると?」


 エドモンドは頷いて答える。


「人類にとって大きな進歩になる。それだけは確かだろう。しかし、彼女の存在の重要性を知っている人間は少ない。私はこの病院で医師をやっているんだ」


 目の前の建物を指差して彼は言った。


「彼女っていうのは?」


「私の研究に協力してくれている子だよ。見た目だけで彼女を蔑む人間もいる。悲しいことだ。彼女は私たちよりも優れた存在だと言うのに……」


 エドモンドの声は優しかった。しわがれた低い声だったが響く音は不思議と安らぐようなところがある。


「その子は病にかからないの?」


「そうだね。彼女は一度も病にかかったことがない。むしろ体のどこにも病原菌が確認できない。いや、そうじゃないな、病原菌じゃないものでさえ存在していないんだよ。こんなことを話してもわからないかもしれないけどね」


「わかる。僕はその子に会ってみたいな」


 エドモンドは嬉しそうに笑っていた。


「ああ、ありがとう。あの子もきっと喜ぶ」


「楽しみだ」


 僕は作り笑いを浮かべていた。彼はそれを見て笑っていた。


 僕の中にはその少女の姿が思い浮かんだ。それはあの白い少女だ。白い髪に赤い瞳をした綺麗な少女だった。僕は彼女がどうしてあのような姿をしているか少しだけ知っている。人間の中には突然変異で色が付いていないものが存在している。そして、そういう人間は往々にして短命であるらしい。


 エドモンドと別れた後、僕は曇っていく空を見ながらテムズ川を目指して歩いていた。


「あの男も所詮は人間だ」


 あの人間にもきっと彼女の気持ちは分からない。彼女の気持ちが分かるのは彼女と同じような人間だけだと思う。


 しかし、問題はそんなのことでもない。彼女に対して同情する気持ちはある。しかし、僕には絶対にやらなければいけないことがある。


 足が折れ腕がもげたとしても僕は人間を殺し尽くさなければならない。


 それは誰に決められたことでもない。自分であの夜に誓ったことだ。


 世界が暗く夜が明けることがなくても目の前に広がる人間を殺し尽くす。それしか僕には残されていない。


 例えあの少女を殺すことになったとしても躊躇うこともない。


 彼女には何も寄り付かない。それは確かでそれがもし他の人間にも応用されてしまえば僕は人間を殺せなくなってしまう。それだけはダメだ。


 それなら彼女を殺さなければならない。


 僕はそれ以上考えることを辞めた。


 街に病の気配が濃くなっている。


 杖の子らは人間を食いながら数を増やす。彼らは内側から人間を喰らい尽くす。彼らに智恵はない。だから、全てを喰らい尽くすまで止まることはないだろう。


 テムズ川沿いの倉庫はいつの間にか死体置き場になっていた。川は前よりも汚濁して見える。


 街の景色もずいぶんと変わってきた。街のいたるところが紫色に変色している。人間の気配も消えていっている。あのマスクをつけた人間がそこかしこにいる。これでいい。


 街は以前よりも静かだった。僕が望んでいたものは違っていたはずだ。人間どもはもっと苦しむべきだ。怯えるべきだ。人間どもには病というものに対抗する手段がない。だからこそ彼らは家の中に、殻の中に閉じこもることしかできない。恐怖を見ることができない。


 人間は実に無力でひ弱な生き物だ。武器を持てばどれほど獰猛な生物でも殺すことができるというのに。やはり人間は劣等種だ。


 僕たちは違っている。どんな獰猛な生物に対しても身一つで対処する術を持つ。病にもかからない。


 この街にもミュンクヴィズの噂が流れ始めていた。僕が流したわけでもない。


 人間は病となるとすぐに僕たちのせいにする。


 人間はどこかに責任を押し付けようとする。実に哀れだ。


 彼らの中にも例外的な人間がいることは確かだ。思慮深く思いやりがある。そんな人間は数えられるほどしかいない。数えきれない人間は全て劣等種であり、浅慮な動物だ。知能も低く野生の動物以下の身体能力しか持ち得ぬ生物がどうしてここまで数を増やしてしまったのか僕にはわからない。しかし、人間の増殖はここで終わる。


 世界中で毎日、人間という劣等種が何人生まれているのか、何人死んでいるのか知らない。けれど、僕は彼らが生まれるよりも多くの人間を殺そう。一日に千人生まれるならば、僕は一万人殺してみせる。滅ぼしてやるというとずいぶん安っぽくなるから、僕は人間を殺すだけだ。殺して、殺して、最後には一匹たりとも残らないようにしなければいけない。だから、僕は人間を殺す。言葉はそれだけで足りる。


 まずは彼女を殺さなければならない。あの白くて美しい彼女を殺さなければ僕の思いは遂げられない。幾度と悩んだ。彼女は人間なのだろうか。もしかしたら僕たちの仲間なのではないか。しかし、彼女は全く気づかない。僕がいくら杖の子らを使って人間を殺しても気づかない。


 彼女には杖の子らが見えていない。それだけで僕たちとは違うものだとわかった。そして、彼女は僕の障害になる。彼女があのエドモンドという医者に協力していることが許せない。だから、僕は彼女を殺す。それ以上のことはない。


 彼女を見つけることは簡単だ。彼女は色が違う。だから、どこにいようと簡単に見つけることができる。しかし、杖の子らは彼女に近づくこともできない。普通には殺せない。僕は駅前の商店でヒルトの高いナイフを購入した。人間の道具を使わなければいけないということは大変不服ではあるけれど仕方がなかった。


 僕は内ポケットにナイフを忍ばせて街に出た。


 今の寝床はあの宿から倉庫の横にある小屋になっていた。ベッドと椅子しかないがあの宿よりは少しばかり広い。


 天気は良好だった。雲ひとつない快晴で太陽が街を明瞭に照らしていた。ここ最近はあまり食事をとることができなかった。身体が重くて足取りも覚束ない。


 でも視界ははっきりとしていた。街のいたるところに杖の子らがいる。煉瓦の壁も時計台の鐘楼も石畳の道でさえ紫色に染まっている。人間の言葉ではこれらを鮮やかだというらしい。馬鹿馬鹿しい。


 前から歩いてくる彼女が見えた。


 彼女はいつも通り美しく白かった。


 僕はマスクの中からじっと彼女を見つめた。


「綺麗だなあ」


 声が自然と出た。


 彼女はこちらを不思議そうに見ながら通り過ぎていった。


 僕は彼女を殺すことを忘れてしまっていた。それほど彼女は幻想的であった。彼女という人間はもうすでに僕の中では人間ではなかったのかもしれない。もちろん同胞でもないけれど。


 殺すしかないことは明白であった。これは何よりも優先されるべきことだ。彼女の美しさも珍しさも僕の意志の前では無意味なものだ。


 一度見逃したところで計画に変わりはなかった。彼女は病院に通う時いつもこの道を通る。だから、夕刻にはまた彼女の姿を見ることができる。殺すならその時でも遅くはない。


 最近では僕の声がなくても杖の子らは人間を貪る。あの倉庫に捨てられた死体はすぐに分解されて骨だけになる。だからそれほど腐臭はしないはずだ。いやもしかしたらそれなりに臭いはあるかもしれない。けれど僕にはそれすら嗅ぎ慣れてしまっていてわからない。


 夕刻の空は橙色に染まって、腐った枇杷のように垂れ下がった太陽は歪んでいる。空の色だけは人間が見る色と同じであることを僕は知っている。


 僕はよく本を読んだ。故郷を出てからもその習慣は変わらなかった。


 本には様々な色が書かれている。僕はその本から色の認識を知った。一族と外の人間の色認識は共通していることが不思議だった。どちらがどちらの基準に従ったのか定かではない。


 もうすぐ彼女が帰ってくる。あの消毒液臭い病院からその臭いをほのかに漂わせながらこの道を歩いてくるだろう。


 僕はずっと通りを眺めていた。全身をマスクとローブで覆っていたけれど誰も僕を気にすることはない。だって他の人間どもも同じ格好をして出歩いているのだから当然だ。


 そして、紫の視界の中に陽だまりのような白さが現れた。彼女は微笑みながらこちらに歩いてくる。


 彼女は僕に気づくと立ち止まった。


「会えたね」


 と僕は言った。


「誰ですか?」


 高い声だった。


 僕はこの街で君を見つけることができて幸せだ。


 すでに手にナイフを握っていた。僕はそれを彼女にかざしていた。しかし、一歩が踏み出せない。手が震える。脳みそが沸騰しそうなほど心臓が脈打つ。僕はその時初めて気づいたのだった。自らの手で外の人間を殺したことが一度もないのだと。


 僕はいつも杖の子らの手を借りて人間を殺していた。しかし、彼女にはそれができない。だから、仕方なく僕はナイフを握りしめているのだ。不意に過去の記憶が蘇る。人間どもは銃やナイフを簡単に使いこなしていた。一族は銃やナイフを持った人間に殺された。銃が身を貫けば血がとめどなく流れる。ナイフで動脈を切っても同様だ。銃で頭を打てば花火のように脳が弾け飛ぶのだ。僕はそれを知っている。見ている。聞いている。覚えている。


 だから、恐れた。これを彼女に刺せば血が出る。それだけのことが恐ろしいような気がした。いや、血が出ることを恐れているのではない。人間にナイフが刺さることがとても気持ちが悪いのだ。


 銃にすればよかったと思った。


 しかし、もう止めることはできない。


 僕は彼女の腹めがけて突き進んだ。そして、彼女の上着の裾を切り裂いた。あらわにになった腹部も白かった。


 彼女は後ろに下がろうとして倒れた。僕はすかさず彼女の上に跨り腕を摑んだ。


 彼女はこちらをじっと見つめていた。瞳が潤んで涙が溢れた。僕も涙が出た。呼吸がしにくくなった。


 彼女の首元にナイフの刃を突きつけたけれどそれ以上動かなかった。彼女の動脈を切り裂けばそれで終わる。そう思ったところで彼女の身体が離れていった。でもそれは錯覚だった。彼女に押されて僕の方が彼女から離れていったのだ。


 僕は地面に尻をついてナイフも落ちた。彼女はすごい勢いで走り始めた。僕も慌ててナイフを握りしめて立ち上がる。


 ここで終わらせなければ絶対に殺せないと思った。殺すには今殺さなければ絶対に無理だ。そう思って走り出した時、僕は再び地面に倒れ伏した。


 僕は少しだけ安堵した。


 視界に黒い影が見え、それは僕の前に屹立している。黒々とした巨人のようだった。


「ナキ、だから家にいないといけないんだ」


 巨人は牛のように低い声で言った。


 僕はすぐに立ち上がって、その巨人から距離をとった。色眼鏡をつけた瞳の奥には懐かしい色があった。黒く無造作に伸ばされた髪、大樹のような巨躯、鋭い目付きにも見覚えがある。


 ああ、懐かしいな。


 その男はサナギだった。森を追放された馬鹿者のサナギだった。不意に笑いがこみ上げてきた。


どれだけ背が伸びようと髪が伸びようと僕にはわかった。あの目つきは間違いなくサナギだった。


 サナギが口を開くとサナギの腕に杖の子らが集まり始めていた。紫の炎のように揺らめいて、杖のようになる。


「すまない」


 サナギはこちらを睨みつけて言った。


 サナギが放った杖の子らはこちらに近づいてくる。しかし、彼らに僕は殺せない。


 集まった彼らはまた霧散する。彼らは元の通り小さな集団となってそこかしこに散らばった。


 サナギの顔は面白いほど歪んだ。僕はサナギを知っているけれど彼は僕のことがわからないだろう。


 あの顔は傑作だな。


「誰だ?」


 サナギの声が聞こえて再び笑いがこみ上げてきた。


 サナギに会えたのはとても嬉しいけれど当初の目的は達せられないだろう。サナギの顔を見ながら僕は手を上げてさよならの挨拶をした。彼は手を上げてはくれなかった。


 彼女を殺すことができなかったことは不本意だけれどサナギに会えたのはとてもラッキーだ。


 そして一つやらなければいけないことが増えた。

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