ナミザ第2話
街の郊外で僕は一つの噂話を耳にした。ウースターの南から来たという男と話した。
「あれは神の使いに違いない」
そんなことを言っていたから僕はてっきりただの馬鹿な人間だと思っていたのだけれどよくよく聞くと興味深い話だった。
「俺にも訳がわからんのですが。一人の男に命を救われたんです」
男が話すにはその街では流行病で多くの死者が出ていたのだという。しかし、ある日黒い大男が突然街に現れて病を治したいと言う。その大男が重篤の患者に触れるとたちどころに病が消えすっかり元気になったと言う。
「あれは神の御技に他ならん」
「そうだね。それは確かに神様のような力だ」
僕が言うと男は頷いて笑った。
僕が最初に思ったのは一族の生き残りがいるということだ。そして、次に思い浮かんだのはそいつがどうしてか人間を助けている馬鹿だということ。でも、不思議だ。人間の身体に入り込んだ杖の子らをどうやって取り除いたのか。
まあ、ただの噂とういこともあるだろうしもしくは僕らの一族以外にも杖の子らが見えるものがいるということだってある。
後者はあまり考えられない。なぜなら僕は一族以外で未だそんな人間を見たことがないからだ。
ただ、そんな噂を耳にしたのだから用心には用心を重ねる必要がある。
僕はまず市街に入って、骨董品屋で古いマスクを買った。鳥の形をした不気味なマスクだ。昔、病が流行した時に若い医者が着けていたものだという。クチバシの中に香辛料を詰めることで病原菌を吸い込まないようにしていたとか。馬鹿な話だ。
流石にいつもかけている色眼鏡だけでは同族の目までは誤魔化すことができない。だから僕はその奇天烈なマスクをつけることにした。しかし、こんなマスクを着けていたら目立ってしまう。
僕は道ゆく人に一人ずつ声を掛けていった。
「ねえ、ねえ、そこのお兄さん」
通りかかった新聞屋の男に声をかけると簡単に立ち止まった。
「西の方で伝染病が流行っているっていうことは知っている?」
青年は頷いた。
「ああ、知っているとも、今朝の新聞もその話題で持ちきりだよ」
「この街にもそんな病が舞い込んできたらと思うと不安じゃない?」
「そうだな、確かに不安ではあるけど……」
「それならいいことを教えてあげるよ。もし伝染病が流行り始めたら、こういう風にこのマスクを被ればいい」
僕はその青年にマスクを着けて見せた。
「このマスクの嘴に香辛料とアルコールをたっぷり染み込ませた綿を詰め込むんだ。それで伝染病にはかからないよ」
青年は薄笑いを浮かべて去っていった。僕のことをまるで気狂いか何かのような目で見てくる。僕からしたらそこかしこにいる人間の方がずっとおかしい気がする。顔面に杖の子らをまぶして生活する気にはなれない。まあ、彼らには杖の子らが見えていないから自分の顔が紫色やら赤色やら緑色に染まっていることも知らないのだろう。気の毒な人間、実に哀れだ。
でも僕は懲りずに近くにいる子供に声を掛けた。スカーフを掛けた男の子だ。その顔にはやはり杖の子らがいる。声を上げてはしゃいでいる姿を見ると実に滑稽で可愛らしい。
「ほら、君、病気は怖くないかい?」
僕が言うと子供は首を振った。
「怖くない」と言う。
「どうしてだい?」
子供の鼻に触れると嬉しそうに答える。
「びょうきになるとおいしいものが出るんだよ」
「そうかい? でも、君の知っているのはきっとちいさい病気だからね。怖い病気もあるんだよ」
子供は何も知らないという顔で「そうなの?」と言う。
僕は「そうだよ」と答える。
人間の子供とは実に無邪気だった。僕の一族の者は幼い頃から自然を生き抜く知恵を教えられる。だからだろうか。これほど馬鹿ではなかった。
「つまらない話だったかもしれないね。では、これを君にあげよう」
僕はポケットから紙に包まれたキャンディーを一粒取り出した。そして、それをその子供にやった。子供は嬉しそうに「ありがとう」と言う。
「どういたしまして」
僕にはこの子供の気持ちはわからない。こんな紫色のキャンディーは食べられたものではない。でも、食べてもらわなければならない。なぜならこれは種だからだ。この種が芽を出すのは少し後になるだろうけれど、それでいい。いまは準備だ。この街を壊すための準備が必要だからできる限り完璧にあらゆることを想定しておかなければならない。
それから僕は通りかかる子供たちに一つずつキャンディーを配った。子供たちは喜んでそれを受け取った。僕は良いことをしているのだという気持ちにさえなった。
そして、街をいく大人にはこの鳥のマスクについて話した。このマスクがどれほど病に効くかを熱弁するだけだ。誰も本気では聞いていなかったけれどそれで良かった。これが記憶に残れば、残りさえすればいいのだから。
僕は夕暮れまでひたすら声をかけ続けた。
その日は多くの人間を見た。彼らの顔は様々な色をしていた。それを見て僕が思うのはどこにいてもここが故郷ではないということだった。故郷はすでにこの世界に存在せず家族もない。僕は孤独を感じた。
しかし、目の前を一人の少女が通った。ハンチングを目深にかぶっていたが髪の色は白かった。眼は赤色で歩くたびに短い髪がふわふわと揺れている。それは幻のようだった。肌は実に美しく白い。彼女の周りには杖の子らも寄りついていなかった。彼女だけが生き生きとしていて、他のものが全て死人のようにも見えた。
僕は懐かしさを感じたながら声をかけることも忘れて見入っていた。そして、彼女は四辻で姿を消した。
「幻のようだな」
僕は呟いた。
それから、日が沈む前に僕はテムズ川沿いに宿をとった。血色の悪い中年の男がフロントに立っていた。僕は料金を払って二階の隅の部屋に入った。そこはベッドがなんとか入るくらいに狭く棺桶のようだった。
「棺桶には贅沢な広さか」
僕はベッドに腰掛けた。寝ることができればどこでもいいと思っていた。
この街には人間が多かった。今までの町とは比べ物にならない量の人間が息づいている。しかし、それは同時にこの街を壊せばそれだけ多くの人間を殺すことができるということでもある。
そんなことを考えながら、僕はベッドで横になった。そして、窓から見える夕日に染まる空を一瞥して、いつの間にか眠りについてしまった。
その夜、僕は夢を見なかった。あの夜の記憶がつきまとい、毎日のように僕は炎の夢を見る。暗がりに誰かが佇んでいる。その後ろには巨大な炎が蠢いている。その姿を僕は見たくなくて蹲る。炎を掻き消すように強い雨が降る。その雨は紫色をしていて地面は黒く染まっていく。そこに佇む誰かだけが陽の光に照らされたようにくっきりと見えるのだ。それはあの夜の続きだ。
目が覚めると外はすっかり暗かった。窓から外を覗くとテムズ川沿いの街灯が光っている。
僕は宿から飛び出して夜の街を闊歩した。
この街はもうすぐ壊れてしまうけれど少しぐらいは楽しんでやろうと思った。人間の街にも良いことが二つあった。料理が美味しいことと酒がたくさんあることだ。
宿の近くのビルの一階にバーがあった。その中で数人の男がカウンターに座って、グラス片手に何かを話しているようだ。
人間に興味はなかったけれどその酒が琥珀色に光って美味しそうだったから僕は扉を開けた。
中の男たちは一瞬こちらを見て興味なさげに仲間内で再び話し始めた。
「ここはお子様の来るところじゃねえぞ」
一人の男が言うのが聞こえた。
僕がカウンターの端に座ると慌てて店員が言った。
「子供には酒は出せないよ」
「僕はこれでも二十四だ」
僕の声を聞くと店員は黙って注文を取った。ウヰスキーを一杯とソーセージとチーズも頼んだ。
「はは、驚いたね」
二つ隣に座った大柄の男が言った。
「そのなりで二十四だって?」
「そうだ。それがどうかした?」
男は笑いながら答える。男は黒い顔に緑の斑点のように杖の子らを付着させている。
「おお、そんな色眼鏡かけて、この街の人間じゃないだろ?」
「そうだけれど、君には関係ないことだね」
男は軽く頷いて、右隣の人間と会話を始めた。
そうこうしているうちにウヰスキーとチーズが運ばれてきた。僕はその色を見て幸せを感じた。ウヰスキーにはほとんど杖の子らが入っていない。彼らはアルコールを嫌う傾向にあるらしい。
「おい、あんたどこの生まれだ?」
また黒い顔の男が話しかけてきた。うるさいと思いつつ答える。
「西の方の生まれだね」
「西っていうとウェールズの方か?」
「違うね」
「じゃあ、どこだよ?」
「もっと西だ」
興味なさげに男は頷いた。僕も食事を邪魔されたくはなかったけれどどうせ話すなら少しは役立つ話をしようと思った。
「そんなことはどうでもいいんだけれど……最近街の近くで伝染病が流行っているそうだよ」
「ああ、西の方で流行っているとかいうのは聞いたな」
「素晴らしく獰猛らしいね」
「でもよ。西の話だからな。ここで流行っても優秀な医者がいるしな」
僕は笑いながら言った。
「そうかもしれないね」
本当に人間は馬鹿だなと思う。医者が何を救ってくれるのか。
僕はウヰスキーを口に含んだ。
やっぱり人間と話すのはつまらないと思いつつ、僕はソーセージとチーズを残さず食べて、ウヰスキーを二杯飲んでその店から出た。
熱くなった頬を夜風が冷やしてくれる。人間には見えない者たちがその風には乗っている。微細で卑小な彼らは見えないというだけで人間よりも優勢だ。彼らは言葉を知らず感覚さえあるか定かではないけれど確かに意志を持っている。
僕はそれをとてもありがたく思った。彼らのおかげで僕は僕たちを貶めた人間に復讐することができる。彼らの力があるから僕は誰にも気付かれずに人間を殺すことができる。それがとても嬉しくもあり、同時につまらなくもある。僕は人間どもに死を認識させたい。自分はこれから死ぬ。そのことを強く意識させてやりたい。僕の仲間が銃や兵器で殺されたように殺す道具に怯える姿を見てみたいと思う。
だから、時々僕は無理をしてしまう。路地の暗がり、無人の納屋、町外れの森、空気の湿った橋の下、そんなところで人間を待つ。
僕は路地の中から通りを見ていた。人間たちは縦横無尽に歩き回る。今までの街とは違う。人間が多い。夜でも人間が歩いている。空が狭い。雲が高い。
僕はじっと路地の奥から通りを眺めていた。誰かがこの路地に入ればその人間を僕は殺す気でいた。炎の中に浮かぶ一族の悲鳴が蘇る。だから、人間どもも眼前の恐怖をしっかりと味わうべきだ。
しかし、誰もこの路地には入って来なかった。暗がりには近づいてはいけないということをこの街の人間はよく知っていたのだ。
僕は諦めて通りに出ようと思った。人の来ない路地でじっとしているとまるで自分がわらじ虫になったみたいだ。
通りに出ようとして立ち上がると路地に人間が入り込んでくるのが見えた。
「あ……」
声が漏れたのはきっと驚いたからだった。
その人間は昼間見かけた。あの人間だった。髪が真っ白で、目が赤くて、色が薄いけれど、色を持っている。同胞のようでもあり、そうでないようでもあった。彼女の周りには何も寄り付かない。彼女はどの人間よりも生き生きとした色をしていた。けれどどの人間よりも目は虚ろだった。炎のように真っ赤な瞳はとても空虚だ。
僕は彼女に杖の子らを消しかけた。しかし彼らはそれを拒んだ。彼女に近づくことさえしなかった。まるで何か別の意志に支配されているようだった。
「君はなんだ?」
僕が言葉を放つと彼女は首を傾げた。
「何が?」
彼女はこちらを注意深く見つめてから空を見上げた。
「今日は月が見えませんね」
彼女が何を言っているのかわからなかった。
「こんな暗がりに一人でいると危ないですよ」
まるで子どもをあやすような甘い声だった。
「大丈夫だよ。これでもきっと君より年上だろうからね」
「幾つなんですか?」
「二十四だ」
「嘘ですよ」
「本当だ」
彼女はクスクスと笑って微笑んだ。暗がりの中でも彼女の姿は陽だまりにいるようにくっきりと見えた。彼女は笑っている。そして、笑い終えるとすぐにまたあの空虚な瞳でこちらを見ていた。
「ごめんなさい。失礼なこと言ってしまいました」
彼女は一礼して僕の横を通り過ぎて路地のもっと奥まで歩いていった。そして、見えなくなる。
僕は幻みたいだなと思った。彼女が人間とは思えなかった。髪も目も肌もとても綺麗だった。なぜだか気持ちが高揚していく。
「マテラに少し似ている」
思わず口に出た言葉に驚いた。彼女は少しだけマテラに似ている。髪の色も瞳の色も全く違うけれど雰囲気が似ていた。すると先ほどまでの高揚感が嘘のように消えていった。
「ふざけているな」
そのまま僕は宿へ足を向けた。
宿に戻るとフロントには誰もいなかった。自分の部屋に戻ってすぐにベッドに倒れこんだ。目を瞑るとあの少女の姿が浮かんだ。幻想のようだと思った。仰向けになって部屋の壁を見た。黒い染みのようなものがある。そこに黄色い杖の子らが蠢いていた。
再び目を瞑ると少女の姿は浮かばなかった。代わりに浮かんだのは炎のように赤い何かだった。それが何かはわからない。ただ、無意識のうちにあの夜のことを思い出す。
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