【短編集】こがれ

星来 香文子

左利き


 あぁ、この人は左利きなんだと思った。


 右の頬を殴られた痛みより先に、それが羨ましいと思った。


 私はずっと、小さい頃から左利きに憧れがあった。

 幼稚園の時、みんなが右手にお箸、左手にお茶碗を持っていた中で、向かいの席に座っていた2つ年上のダイチくんは左手にお箸とお茶碗を持っていた。

 鏡みたい。


 ダイチくんは鉛筆も左手に持っていて、あっという間に小学3年生用の算数のドリルを解いていた。

 頭がいい。

 かっこいい。


 小学生の時、野球クラブのユースケくんは右手にグローブをして、ピッチャーをしていた。

 ユースケくんの投げた球は、誰も打ち返すことができなかった。

 バッターボックスにも、一人だけみんなと反対側に立っていた。

 打ち返した球は、簡単に芝の向こうに消えていった。

 運動神経がいい。

 かっこいい。



 中学生の時、漫画研究部のマユちゃんは左手にペンを持っていた。

 みんなが左向きのイラストばかりていたのに、マユちゃんは右向きの絵が上手だった。

 みんなとは違う感性の持ち主だって、先生に褒められてた。

 かっこいい。



 高校生の時、初めてできた彼氏のマナトは、よく私の左手を握ってくれた。

 マナトが左利きで、私が右利きだったから、いつもマナトは私の左側を歩いていた。

 車がそばを通って危ない時は、肩を抱いて庇ってくれた。

 かっこよかった。

 すごくドキドキした。



 大学生の今、シンゴの彼女に殴られた。

 右の頬が痛い。

 左利きの彼女に殴られた。

 そして、言われた。


「この、泥棒猫!」


 そんな昔の昼ドラみたいなセリフを、吐き捨てるように。

 私は何も言えなかった。

 あんたこそ誰だよって思ったけど、状況は飲み込めた。

 私が上に跨っていたこの男は、左利きの彼女がいる男だったんだって……

 だって、彼女の左手の薬指には、キラリと光る指輪がついていたんだもの。


 だから、余計に痛いんだ。

 じんじんと殴られた右側が痛い。

 表面は熱を持って、内側は血の味がする。


「落ち着けって、サヤ、これはその……」

「落ち着いていられるわけないでしょ!?」


 私を無視して、サヤって女とシンゴが喧嘩してる。

 ああ、うるさい。

 被害者はこっちなんだけど……

 ああ、耳まで痛くなってきた。



 私は右手で熱い頬を押さえながら、そろりとベッドの上から降りた。

 二人が揉めてる間に、シンゴに左手で脱がされた下着を拾い上げて、履き直す。

 まだ脱がされただけで、何もしてない。

 未遂でよかった。


 シンゴの部屋に入った時、違和感はあったのに私はそれを見過ごした。

 テーブルの上にある鋏は、よく見たら左効き用だったし、台所の銀色の包丁も、まな板の左側に置いてある。

 シンゴは右利きなのに、おかしいと思っていた。

 もしかして、本当は左利きなのに右利きに矯正したのかと少しだけ期待していた。


 私は左利きの人が好きだ。

 左利きの人は頭がいい。

 左利きの人はスポーツが得意。

 左利きの人は右脳をよく使うから、芸術的センスがある。


 何にもない私は、左利きに憧れていた。

 普通とは違う、その他大勢じゃなくて、少数派に憧れた。

 シンゴは私を特別だって言った。

 みんなとは違うよって。


 だから、シンゴの家までついてきたのに……


「この女が勝手について来たんだ……! 俺は悪くない」

「だからって、この部屋に連れ込んでいいわけないでしょ!?」


 二人は私を無視して、言い争いを続けてる。

 うるさい。

 うるさい。


 ヒステリーな女の声が耳の奥でキーンと鳴った。

 全部私が悪い事になりそうだった。

 私はまんまと騙されて、同棲している彼女がいる男と浮気した女になってしまった。


 ふざけるな。

 騙されたのは私だ。


 私はテーブルの上の鋏を右手に持った。

 左利き用の鋏は初めてだった。


 ズボンから出ていたシンゴのアレを、何も言わずに挟んでやった。

 これが普通のハサミだったら、お前はもう死んでいる。

 左効き用の鋏は、右利きの私には上手く使いこなせなかった。


 それでもシンゴは激痛に悶え苦しんでいる。


「このクソ野郎が、二度とそのダラシねぇブツ見せんじゃねぇ」


 私は鋏を床に投げ捨て、右足から部屋を出た。


「おい……待て! サヤ、何するつもりだ!?」

「うるさい!」

「わぁぁぁっ」


 後ろから断末魔が聞こえた。

 左利きの女が鋏を手にしたみたい。


 ああ、この先どうやって帰ろうか……


 もう終電もない。

 タクシー代も持ってないし……

 歩いて帰るしかないか……


 二人で歩いた道を一人で歩いていたら、見覚えのある顔と出くわした。


「あれ? もしかして……」


 漫画研究部のマユちゃんだ。

 マユちゃんは、コンビニの帰りで、すぐ近くのマンションに暮らしているらしい。


「よかった。終電なくて困ってたんだ」

「うちはアシさんが泊まる部屋があるから、いつでも遊びに来ていいよ。なんなら、原稿手伝ってくれてもいいし」


 マユちゃんは、高校生の時に漫画家デビューしたらしい。

 別の高校に通っていて、疎遠になっていたから知らなかったけど、今すごく人気の漫画を連載してる。

 来年にはアニメの放送も決まっているらしい。


 マユちゃんは原稿を描きながら、今後の展開も教えてくれた。

 やっぱり、凡人の私には想像できない物語だった。


 かっこいい。

 やっぱり、左利きはかっこいい。


「今から左利きになる方法? そうだなぁ、意識して全部左手でやるようにするしかないよ。右手を怪我したら、左手を使うしかないじゃない? 私の高校の同級生で、右手骨折して左手で頑張ってた子がいてね、その子は完治する頃には両利きになってたよ」


 なるほど、そういうことか。

 私は次の日から、すべて左手を使うようにした。

 お箸を持つのも、文字を書くのも、スマホの操作も、歯磨きも全部。

 三ヶ月くらい頑張った。


 それでも、やっぱり気をつけていないと咄嗟に右手を使ってしまう。

 早く左利きになりたい。


 私は左手で、自分の右手を折ることにした。


 早く左利きになりたい。

 みんなとは違うねって、変わってるって言われたい。


 でも、右手を折る前に、病院に連れて行かれた。


「あなたはすでに変わり者だから安心して」って、左手にペンを持っている若い先生に言われた。

 左利きだ。


「先生、お名前、もう一度教えてくれますか?」


 病院に連れて行かれたのが不服で、よく聞いてなかったから確認した。


「僕ですか? 石谷大智だいちです」


 ダイチくんだった。

 あのダイチくんは、お医者さんになってた。


 やっぱり、左利きはかっこいい。


 会計を待っている間、待合室のテレビではメジャーリーグで活躍した選手の特集をやっていた。

 大山田悠介ゆうすけ選手。

 ユースケくんだ。


 やっぱり、左利きはかっこいい。


 私も、左利きに生まれたかった。



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